◇10

 章乃はゆっくりと社殿の前まで歩み寄った。その場で一旦身を翻し、街を見下ろす。

 静かだった。風音もない。街の夜景が仄かにともる蝋燭ろうそくのように点々と雲の底で燃えていた。家々の窓から漏れる幸福な光である。

 闇に広がる眼下の世界に手を大きく広げてみる。街の輪郭を成す灯りに沿って、空中を漂う自分を想像した。今、章乃の目には鮮明な色彩で着色された、この街での出来事が、想い出が、浮かび上がる。

 そのまま胸を張り、天を仰いだ。夜空に瞬いていた星々は、厚い雲に遮られ、最早光は届かない。

 もう一度星空が見たい一心で、空を見渡し、雲の切れ間を探した。切れ間などどこにもありはしなかった。章乃は諦めて社殿の石段を上り、膝を突いた。

 胸に手を当て鼓動を確かめる。己が命の灯火ともしびはめらめらと燃え盛る。 徐にコートの内ポケットからスナップ写真を取り出すと、目を閉じ、そっと口づけた。闇の中では見えるはずもないが、健祐が微笑んでいた。章乃にははっきりと見える。

 頬に冷たい感触が伝わった。章乃はゆっくり目を開け、頬に手をあてがう。

 雪、雪が降ってきた。

 左の掌を天に向け、雪を受け止める。音もなく降り続く雪は辺り一面を白に染めようとしている。章乃の肩にも降り積もる。それを払い除けたくはない。白の中に身をうずめたいと思った。

 章乃は社殿を前に再び目を閉じ、両手を合わせる。祈ることしかできない。心はどこまでも平安そのものである。瞼の裏に懐かしい面影を投影して祈り続けた。

 遠くの方で除夜の鐘が鳴る。もうじき年が明けるのだ。

 その場にうつ伏せに寝そべってみる。石の感触が頬を突き刺した。章乃は生きていた。痛い程の冷たさに、胸は幸福感で満たされる。左手を胸に置く。血潮が奏でる穏やかなリズムが掌を揺さぶる。じっと生命いのちの旋律に耳を傾けた。章乃の時間ときは絶え間なく流れゆく。

 胸の鼓動が激しく波打つ。美しい旋律は聞こえない。

 そっと目を開けると、最早白だけの世界だった。雪は章乃の体を包み込むように折り重なってゆく。

 章乃は涙を流した。瞼は次第に重くなる。瞬きを繰り返し、やがて目は閉じられた。章乃の時間ときは凍結した。

 ──生きたい……健ちゃん……わたし生きたい……

 ──怖い……お母さん……とても怖いの……死ぬのはイヤ……死にたくない……

 ──お母さん……お母さん……お母さん……

 章乃は力を振り絞り、健祐の写真を胸に押し当て、健祐を体いっぱいに感じ取った。とても温かい。

「健ちゃん、生きて」


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