◆9

 衝動的にホテルを飛び出していた。

 足は自ずとその地へ向く。あの懐かしい神社へと。章乃と語り合った場所、章乃が天に昇ったというあの場所へ。

 健祐は足を速めた。

 強風が土埃を巻き上げ、顔をまともに打ちつけてきても、払い除けることも忘れていた。ただ、あの場所へ辿り着くことしか頭にはなかった。正面から吹きつける風に呼吸が乱れ、一度足を止められたが、直ぐに息を整えると、顔を背けながら流れに立ち向かった。健祐は尚も走り続ける。

 ようやく神社の下まで来ると、その場に立ち尽くした。

 ここで、この場所で、初めて章乃に出会い、章乃と語らい、章乃に恋をし、章乃だけが天に昇った。

 この場所で全てが始まり、全てが終わった。この場所で。

 健祐は階段を見上げた。

 ──夢?

 ──そうだ、夢だ!

 昨日、明け方に見た夢。あの夢の中で章乃は何と言っていたのか。どうしても知りたかった。上に行けば分かるだろうか。章乃に近づけば。

「よし!」

 健祐は長い階段を一段ずつ踏み締めながら上った。

 上るにつれ、両側の木立の枝が覆い被さって次第に薄暗くなってゆく。中程まで来ると、風が急に激しさを増した。強風にあおられ、一瞬足をすくわれた拍子によろめいた。階段を踏み外すまいと一段右足を下げ、少しの時間踏ん張った。巻き上げられた小枝が容赦なく顔面めがけ、襲ってくる。それを力いっぱい手で撥ね除けると、また足を進める。一段ずつ確実に章乃に近づいている。十年間待ち侘びた章乃の元へ。

「アヤちゃん、直ぐ行くよ」

 章乃との抱擁。章乃と交わした初めての口づけの喜び。章乃の肌の感触。次から次へと蘇ってくる。幻なんかじゃない。

 章乃しかいない。章乃だけなんだ。代役なんていない。いる訳がないじゃないか。

 何もかも失ったとき、人はどうすればいいのだ。生きられるのか。何もない。何もないじゃないか。

 ──俺にはなにも!

 心は怒りではち切れそうになる。

「アヤちゃん、お願いだ! 迎えに来てくれ!」

 健祐は力の限り叫んだ。

 頂から吹き下ろす強風に、一瞬体が浮いたような感覚がした。強引に足を踏ん張り、持ちこたえる。

 脳裏に焼きついた章乃の面影を浮かべながら、必死に章乃に近づこうとした。十七歳のまま時を止めた章乃が微笑みかける。健祐は今の章乃を思い浮かべた。が、文の姿しか見えない。かぶりを振って文を心から遠ざけ、章乃を呼び起こそうともがいた。それでも今の章乃は現れてくれない。何度も何度も試みても文だった。

 どれくらい経ったのか分からない。健祐には時間の感覚など失せていた。時間など何の意味もない。これから章乃に再会できる喜びに、過去も未来も存在しない。ただ章乃の元へと一点に集約されるだけだ。そうすれば再び章乃との幸福な時を共有できるのだから。

 行く手に明るい場所が見え始めた。

「もう直ぐだ。今、行くよ」

 また風が強まった。健祐は両手を突いた。そのまま這うように頂に上りつめた。

 顔を上げると、そこだけが開けている。何も変わっていなかった。あのときと同じだった。章乃と語り合ったかけがえのない時を過ごした頃と。

 健祐は尚も強風に煽られながら、ゆっくりと社殿の前へ歩み寄った。その目は社殿に続く石段に釘づけになる。

 この場所なのだ。この石段を上り切った所で、章乃は……。

 ──章乃は……章乃は……

 健祐はその先の言葉を拒んだ。口にするのも、心に思い浮かべるのもおぞましく、怖かった。

 石段に右足をかけ、ゆっくり上ると、その場にひざまずき、章乃の体が横たわっていた部分を見つめた。

 うつ伏せに横たわる章乃。雪が降っていた。薄い雪のベールに包まれた神々しい章乃の体。健祐の目に章乃が映る。

 幸乃の声が頭の中で木霊する。

 ──まるで羽衣をまとった天女……

 ──穏やかで幸福な笑みを浮かべ、頬は紅潮して……

 ──とても……とても……

 ──死……

「いやだ!」

 健祐は激しくかぶりを振った。身は強張り動けなくなった。体は小刻みに震える。

 そうして長い時間が過ぎたあと、上着を脱ぎ捨てた。章乃が横たわっていた場所に自らの体を重ねてみる。石の上に頬をつけると、鋭利な刃物で切られたかのような痛みが走った。健祐はそのまま目を閉じた。

「アヤちゃん……おしえて?」

 あの夢の中で、何を告げたのか。章乃の声を聞きたい。言葉を聞きたかった。章乃は最期の瞬間、何と言ったのか。それが分かったら、自分も章乃の傍へ。健祐の心にはその一念しかなかった。絶望なんかじゃない。喜びだった。そうすることが、章乃の愛に報いる唯一の手段だと疑わない。

 健祐はハッとして目を開けた。   

 今、章乃の声が聞こえた。この耳は、はっきりとその声を捉えたのだ。


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