◆7

 ホテルのエントランスをくぐると、内部には甘ったるい暖かな空気が充満していた。

 ロビーの窓際のソファに文と向かい合って座ると、外の景色を見やった。また、黒雲が街並みを飲み込み、辺りは薄暗くなってきた。ホテルの庭に植えられた立ち木の枝は、規則正しく一方向に大きくなびいている。誰かの携帯用ラジオから午後一時の時報を打つ音が聞こえた。

「晩秋か……」

 木枯らしにつき従う雲の行方を目で追いながら呟いた。視線を徐々に落とし、焦点を手前の窓ガラスに合わせ、ぼんやりと映る己の姿を眺めていると、突然目の前に女の子が飛び出して来た。

 赤いセーターのお下げ髪の女の子は、自分の背丈の何倍もある窓ガラスに両手を突いて外を見ている。しばらくすると、背伸びをしながら辺りを見渡し始めた。母親を捜しているのだと健祐は思った。

 女の子はたどたどしい足取りで、左右に行ったり来たりを繰り返す。文に気づき、その顔をじっと見つめる。

 文が笑いながら手招きすると、その方向へ近づいて少し距離を置き、立ち止まった。もじもじしながら恥ずかしそうに笑っている。

「ねえ、いくつ?」

 文の質問に、右手を顔の辺りまで上げ、人差し指と中指と親指を文に示した。

「ふたつ」

「そう、おりこうさんね」

 文が頭を優しく撫でてやると、一層恥ずかしそうに身をよじって満面の笑みを見せた。

 遠くの方で母親が呼ぶ声がした。

 女の子はキョロキョロと声の行方を探り、やっと母親を見つけると、右手の甲を文に向け、顔の前で激しく手を振りながら「バイバイ」と言って、母親の元へ駆けて行った。

 健祐はその光景をぼんやりと目で追っていた。

「可愛い子だね」

「そうね」

「フミちゃんにも、あんな頃があったのかな?」

 文の顔を覗き込み、冗談めかした。

「まあ、失礼しちゃうわ。私だって、可愛かったのよ」

「そうなの?」

 健祐は声高に笑った。

「まあ、ひどい人」

 文の表情は幾分強張っているように見えた。

「フミちゃん、僕は大丈夫だから。ありがとう」

 文はこちらに笑みを向けた。

「さあ、帰ろう」

 文に言ったのではなく、健祐は自分に言い聞かせた。「支度してくるよ。部屋で少し休んでから行こう?」

 健祐は立ち上がると、自分の部屋を目指した。文も無言で頷き、あとからついて来る。


   *


 部屋に戻ると、健祐はコートを脱ぎながらベッドに向かった。コートは肩から両腕へと床に滑り落ちる。

 静かにベッドに腰を下ろし、そのまま仰向けに寝そべると、天井を眺めながら昨日からの出来事を振り返ってみる。僅か一日足らずの間に、一生分の人生が過ぎ去ってしまったように思われる。

 この街に帰って来た日、幸乃を見つけた。ほんの昨日だ。あのとき、章乃に必ず会えると確信し、喜びに打ち震え、我を忘れてしまった。

 なのに、なぜこんな虚無を味わうのか理解できない。

 ──章乃が死んだ?

 ──死んだのは……章乃?

 どうして章乃が死なねばならないのか、いくら考えても分からない。

 果たしてこれは現実の出来事なのか。誰かが書いたシナリオ通りに皆が演じているだけではないのか。だとしたら、何て意地悪なヤツらなんだ。人を追い込んで何が面白い。

 ──もうたくさんだ!

 力の限り奥歯を喰いしばり、頭を掻き毟った。

 こんな虚構の世界にはいたくない。誰か終演の合図をかけてくれるヤツはいないのか、引き戻してくれるヤツは。

 腹の底から煮えたぎった物が湧き出し、頭頂へと突き抜けるような感覚が駆け巡り、頭は朦朧もうろうとして天井が回り出す。

 頭を抱え、身悶えする健祐の脳裏に直接誰かが囁いた。

「夢……?」

 もしかして、これは夢なのかもしれない。そうだ、きっと夢の中の出来事ではないのか。

 ──それにしてはこの痛みはなんだ?

 重たい何かが乗っかっているような、胸が詰まり、掻き毟りたくなるような疼きは。夢ならば痛みなどないはずなのに。

 見開いていた目をゆっくりと閉じた。章乃の顔が遠くの方に小さく見える。突然その顔は近づき、急に大きくなって迫り、健祐の顔面に覆い被さって消えた。

「ああっ!」

 上体を起こし、目を見開いて大声で叫んでしまった。今、章乃をつかもうとしてつかみ損ねた。思わず両の掌を見つめる。血潮がこの瞬間も体内を駆け巡っているのだ。

 生きている。自分は生きている。それが切なくて許せない。

 俯くと、額から汗が滴り落ちた。仕方なく手の甲で拭う。ドアの方を見た。さっきから人の気配がする。誰かは察しがつく。

 静かにベッドから抜け出ると、ドアの前に立つ。ノブをつかみかけたがやめた。気配はしばらく続いて消えた。その場を離れたらしい。隣室のドアの開閉音がした。それを確認すると、またベッドに戻り、その縁に腰を下ろす。気配は直ぐに繰り返す。ドアの向こうに誰かが立っている。

 再びドアの前に行き、今度は躊躇なくノブを回した。

「大丈夫だよ」

 ドアを開けるのと同時に言うと、文は目を丸くする。

「汗、びっしょりだわ」

 文の声は微かに震えている。

「うん、夢を見たらしい」

 夢など見る訳がない。最早見るべき夢などないのに、そう口にしてしまった。

「そ、そう……」

「心配いらないよ。分かってる。ありがとう」

 健祐は文を諭した。「夕方の列車には乗ろう」

「ええ、分かったわ。だけど……」

 健祐は微笑んだ。文もようやく頷いて笑顔を作ると、部屋へ戻った。

 文が自分の部屋に入るのを見届けてからドアを閉め、窓際へ歩み寄った。ふと左の方を見ると、あの神社がある小山が目に入った。

「アヤちゃん……アヤちゃん……」

 健祐は何度も呼びかけた。「アヤちゃんが……」


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