◇4

 浴室を出ると、母から化粧箱を借りて自室に籠もった。

 机上に据え、椅子に静かに腰かけた。一度だけ深呼吸をして蓋を開けたら、湯に蒸され幾分紅潮した顔が、その裏の鏡に映し出された。さっそく鏡を覗きながら化粧を始める。時間をかけ、慣れないぎこちない手つきで丁寧に薄化粧を施し、最後に紅を引くと、しばらくぼんやりと映る己の顔を見つめた。鏡像もうつろな眼差しをこちらに送ってくる。悲しげな目だ。人がこんなにもうれいを帯びた色をたたえるもうひとつの理由は決まっている。誰かを恋い慕うときだけだ。

 章乃も虚ろな視線を相手に向けたまま左の指を唇に近づけた。花弁を微かに開き、そっと触れてみる。若い弾力が指を撥ね返す。今にも薄皮を破って弾けんばかりの熟し切った果実でもまさぐるように、薬指で輪郭を優しくなぞった。目を閉じ、唇が捉えた感覚を確かめながらその行為に夢中になった。いつしか胸は高鳴り、健祐の唇の感触がついに蘇ってきた。その瞬間、章乃は突然目を見開いた。

「ウソ! ウソよ! ぜんぶ夢なんだわ……」

 膝の上で両の拳を固く握り締めた。全てが夢幻の世界の出来事に過ぎない。もう二度と叶えられることのない喜びの一瞬なのだ。

 空虚と寂しさと絶望が急激に膨らんで、章乃を呑み込んでゆく。憤怒にさいなまれ、身は激しく震え出す。むしばまれ続ける心のやり場を求め、何度も何度も胸を掻き毟った。

 しばらく経って何とか心をおさめ、もう一度鏡中の自分と対峙たいじする。激しい眼光が章乃を射抜く。目の焦点を相手の瞳に合わせ、微笑みかける。

「章乃、とても綺麗よ」

 そう呟いて立ち上がり、湯上り用にしているタオル地のシャツとパンツの揃いの上下を脱いで下着姿になった。今夜着用する服に目を向ける。入浴前にベッドの上に用意しておいたのだ。

 白いタートルネックセーターに袖を通し、母が用意してくれた白いストッキングを素足に履いた。章乃の真っ直ぐ伸びた細身の脚をピタリと引き締めた。膝丈より少し短めのタイトスカートを身につける。真っ赤な明色のウール地である。母が縫ってくれた章乃のお気に入りだ。

 一連の儀式を済ませた章乃は、ベッドの縁に腰かけ、目覚まし時計を見た。まだ十時前だった。十一時になったら母に断って出かけようと決めている。それまでは、この部屋で時をやり過ごすつもりだ。

 慣れ親しんだ部屋の隅々まで、ひと通り視線を巡らせてみる。最後に宝箱に視線を向け、目を閉じると、瞼の裏に健祐の面影が浮かんだ。健祐の優しい笑顔しか章乃には見えなかった。


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