◆3

 幸乃は前のめりに叫ぶように言うと、そのまま畳の上にうずくまった。背中が小刻みに揺れる。

 健祐には今幸乃が放ったその言葉の意味がよくつかめない。

「アヤちゃんはどこ?」

 幸乃の丸まった背中を見つめながら、もう一度章乃の行方を訊いてみた。

「健ちゃん。今まで隠して、ごめんなさい。章乃の頼みだったの」

「誰が……?」

 健祐には訳が分からなかった。「どうしたの?」

「健ちゃん。章乃は、いないの」

「どこにいるの?」

「健ちゃん、ごめんなさい」

「なんで謝ってるの? これはなに?」

 健祐は仏壇の章乃の写真を指差すと、ジャケットの内ポケットから、手帳に挟んだ同じ写真を取り出した。「僕も持ってる。僕が撮った……」

「そうね、章乃の一番好きな写真よ」

 幸乃は、仏壇の引き出しから健祐が写った写真を取り出して手渡した。「章乃も健ちゃんの写真を、肌身離さず持っていたのよ。同じ日に撮ったのね」

「そうさ、僕が、僕が……」

 健祐が顔を上げたとき、部屋の片隅に文を見つけた。「フミちゃん、なんで泣いてるの?」

 文は一層激しく嗚咽する。

「健ちゃん。章乃は、死んだのよ。分かる?」

「アヤちゃんは……どこ? どこにいるの?」

 健祐は同じ言葉を繰り返した。「どこ? どこ? どこに……?」

 幸乃はハンカチで涙を拭うと、健祐の手を両手で握り締めた。

 健祐は、その力強さに驚いた。仏壇に視線を向けると、章乃は微笑んでいる。自分の手にある二枚の写真と仏壇の写真を見比べてみた。

「アヤちゃんは……いない……」

「そうよ、健ちゃん」

「アヤちゃんが……アヤちゃんが……」

 しばらく何度も同じ言葉を呟きながら考え続けたが、どうしても理解できない。

 文のすすり泣く声がどこからか聞こえてきた。健祐はその方向を見る。

「立花さん……」

 文は健祐に顔を向けたが、健祐が微笑むと、言葉を詰まらせて両手で顔を覆った。

 健祐は手にある二枚の写真にまた視線を落とすと、呟くように尋ねた。

「いつ? アヤちゃんは……?」

「高校二年の暮れに。この写真を撮った年の大晦日に……」

 呼吸をする度に手の中の写真が揺れた。顔を上げると、仏壇の中から章乃は尚も健祐に微笑みかける。

「夏に撮った」

 口元から言葉が漏れ出たが、自ら放った言葉になど意味はない気がする。言葉など死んでしまった。

 手元の章乃に視線を向け、再び顔を上げると、目の前の光景がコマ撮りの映像のように次から次へと頭の中ですりかわってゆく。雲の上でも歩いているように全身が気怠い。

「そうね、夏休みに健ちゃんに会いに行ったときね」

「半年も経ってないじゃないか」

「ええ」

「この街を離れるって、最後に貰った手紙に書いてあった。直ぐに返事を書いた。だけど、送り返されてきた。それっきり連絡も……」

 ジャケットの内ポケットから、章乃からの『最後の手紙』を取り出して幸乃に見せた。

「そうね、章乃が入院中に書いたの。私が出したのよ。郵便転送の手続きもしなかった……」

 幸乃はハンカチで目頭を押さえながら大きく息を吐く。

「どうして!」

 健祐は思わず語気を強めた。「でも、年賀状は毎年届いたんだよ。アヤちゃんの字に間違いないのに」

「章乃は十年分の年賀状を書いていたの。それを毎年私が送ったの。健ちゃんの新しい住所は公子ちゃんに訊いてね……」

「なぜ! なぜ、そこまでして……」

 健祐は肩を落とし、膝の上で両の拳を握り締める。

「健ちゃんを悲しませたくなかったのね。章乃は……自分がもう長くはないと……悟っていた……そうとしか思えないの。もし手術が失敗したら……しきりに口にしてた。でも、でも、手術も受けないうちに……あの日が……あの日が来るなんて……」

 幸乃の目にまた涙が溢れ出し、体が小刻みに震える。「章乃は、健ちゃんのことが一番気掛かりだった。健ちゃんが、好きで好きでたまらなかったのよ」

 健祐は俯いたまま聞き入っていたが、顔を上げると、肩で呼吸を繰り返す。息を整え、ゆっくりと口を開いた。

「でも、今までなにも知らないなんて……捜したんだよ。あのとき、キミちゃんにも会いに行った。キミちゃん、なにも言わなかった」

「そうね、章乃は健ちゃんの幸せを公子ちゃんにも託していたの。手紙にしたためて。公子ちゃんから聞いたわ。泣きながら話してくれたの。公子ちゃんにも辛い思いさせたわ。公子ちゃんのこと責めないであげてね。章乃との約束を果たしてくれただけなの」

「この十年間、アヤちゃんに会える日を楽しみにしてた。それだけが生きる希望だった。なのに、なのに……残酷だよ!」

 健祐は、全身から力が一気に抜け落ちるのを感じた。

 しばらく室内は静まり返り、重たい空気に押さえつけられたように身動きが取れない。

 文は部屋の隅ですすり泣いていたが、健祐の傍まですり寄ると、手の甲で涙を拭きながら口を開いた。

「章乃さんのお母さん、いいですか?」

 文は断りを言って先を続けた。「立花さんは、章乃さんとの恋を成就させるために帰って来たんですよ。章乃さんのことしか頭にはないんです。誰ともつき合おうともしない。上司から持ちかけられた縁談も断り続けるし。私も最近知ったばかりなんです、章乃さんの存在を。今、お話を伺って、私も残念でなりません。やり切れません。章乃さんがお気の毒で……立花さんの気持ちも……ごめんなさい、余計なことを。申し上げる立場ではないんですけど」

 幸乃は静かに文の話を聞くと、大きく頷いた。

「フミさん、ありがとう。そうだったの。健ちゃんは、章乃のことをずっと……」

 幸乃は深くこうべを垂れた。「ごめんなさい。許して、健ちゃん」

「おばさん、顔、上げてよ。おばさんも、辛かったろうね。ごめんね」

 健祐は幸乃を優しく抱き起こした。「アヤちゃんは、もういないんだね。捜しても、どこにも……」

「立花さん」

 文が健祐を気遣ってくれた。

「フミちゃん、ありがとう。アヤちゃんは、もういないんだって」

 健祐は文に微笑んだ。「フミちゃん、泣かないで。ごめんね」

 文は、また口を手で覆って嗚咽する。

「おばさん。訊いてもいい?」

「なにを?」

「アヤちゃんのこと」

「章乃の?」

「そう。アヤちゃんの……最期さいごが知りたい。辛いだろうけど、おしえてくれる?」

 幸乃は小さく頷き、胸に手を当てて一度深呼吸をした。そうして息を整えると、章乃の最期を語り始めた。


   *


 健祐は手元の章乃の写真に視線を落としたまま、幸乃の言葉を心の中で復唱しながら全身の神経を耳に集中して聞き入った。

 ──真新しい純白の着衣。

 ──真紅のスカート。

 ──前年のクリスマスに健祐自ら贈った赤いダッフルコート。

 ──赤紫色のマフラー。

 健祐の目の前にそれを身にまとった章乃が姿を現した。

「……初詣に行くと言ってね。私は反対したんだけど、章乃はどうしても譲らなかった。お風呂に入ってから、用意した新品の服に着替えて……。今思えば、みそぎのつもりだったのね。それから、年が明ける時間が近づくと、出かけて行った。直ぐに戻ると言い残して。それが、私が見たあの子の最後の姿だった……。だけど、なかなか戻らなくてね。心配になって、街の神社まで捜しに行ったけど見つからなくて。それで、公子ちゃんに連絡して、やっと、あの街外れの神社だと分かったの。公子ちゃんと駆けつけたときには……もう遅くて……社殿の前でうつ伏せに倒れていた。章乃の体には薄ら雪が降り積もって、ベールに包まれたように、まるで、羽衣を纏った天女にでもなったかのように天に昇って行った。神々こうごうしくて……章乃を抱き上げたとき、穏やかで幸福な笑みを浮かべ、頬は紅潮して、とても……とても……死んだなんて……」

 幸乃は入院中の章乃の詳細な病状も、公子に自分の死を口止めしたことも説明してくれた。

 公子との連絡が健祐の一方通行になった理由も今初めて理解できた。公子は章乃の最期の願いを聞き入れ、その死を健祐に必死に隠そうとしていたのだ。健祐が事ある毎に公子に連絡を取った際、章乃の所在が判明すれば必ず自分に知らせるよう念を押していたことが、次第に公子を追い詰めていった。ほかならぬ幼馴染の健祐に嘘をつかねばならぬことに耐え兼ねていた。何度となく幸乃に相談していたのだった。

 昨晩の公子の態度がようやく健祐には合点できた。

 幸乃は章乃を納骨したあと、Y市のアパートへ戻り、実家の母親を看取るまでの二年間をそこで過ごした。アパートを引き払うと、方々を転々とした。どうしても我が子と死別したこの街で暮らす気にはなれなかったのだ。毎年、命日にだけはこの家に帰って、たったひとり章乃を弔ってやった。七回忌を済ませ、ようやく決心がついた幸乃は、一昨年の秋から再びこの家で暮らしていたのだった。

 ふと文を見ると、健祐を見つめて泣いていた。章乃に対する同情もあったかもしれないが、自分をおもんぱかっての涙だと健祐には分かっている。

 健祐は章乃からの『最後の手紙』を思い起こした。

 ──十七才の晩秋。

 晩秋。人生の終末を晩秋になぞらえていたのか。十七歳で命が尽きることを、章乃は悟っていたというのか。

 健祐は、今、初めてその言葉の意味を知った。

 自分はこれまで章乃の幻を追い求めて来たという訳か。それでも今、無性に章乃が欲しい。章乃を抱きたい衝動に駆られた。あまりにも滑稽こっけいだ。健祐は自分を嘲笑した。

 自分だけが知らなかったのだ。昨日再会した旧友たちは皆、そのことを知っていたのに。自分を気遣い、章乃のことには触れないでいてくれたのだ。健祐は思わず声を出して笑っていた。

「立花さん! どうしたの?」

 文は心配げな面持ちで健祐を見る。

「いや」

 健祐は笑いながら首を横に振った。

 突然、幸乃が立ち上がろうとしたが、よろめいて畳に片手を突いた。傍に座っていた文はその手を取って支え、立たせてやる。と、幸乃は襖を開け、部屋を出ようとして、またその場に膝を突いてしまった。文は幸乃の手を自分の肩に乗せると、自らの腕を相手の背中に回し、抱きかかえるようにして一緒に仏間を出た。

 しばらくして二人は戻って来た。幸乃はひと抱えの木箱を持っていた。文はそれの下から手を添えて介助している。健祐の目の前にそれは置かれた。

 健祐には見覚えがある。章乃が『宝箱』と呼んでいた木箱だった。

 幸乃は蓋を開け、畳の上に置くと、中から白い封筒を取り出して健祐に差し出した。

「章乃から託された手紙よ。健ちゃんが、いつか訪ねてくれたときに渡すようにと……」

 健祐は二枚の写真と『最後の手紙』を畳の上に置くと、その封筒を手に取った。

“立花健祐 様”

 表に宛名だけが記され、封がしてあった。

「健ちゃん、読んでみて」

 健祐は無言でしばらく表の文字を眺めた。章乃の字に間違いない。

 丁寧に指で封を切り、中の便箋を引き抜いた。折りたたまれた便箋をゆっくりと広げ、文字を辿る。読み進むうちに、これが『遺書』だと分かった。健祐に対する十七歳の切ない恋心も綴られていた。

 健祐は読み終えると、幸乃に返そうとしたが拒否された。

「これは、健ちゃんが持ってて」

 健祐は頷いてもう一度手紙に視線を落とすと、字面を追った。文面の最後の日付を確認する。

“十一月二十五日”

「おばさん、同じ日に?」

 健祐は、『最後の手紙』を視線で指し示した。

「そうね。あの日は、とても体調が良くてね」

「そう、同じ日に……」

 これを書いている章乃の姿を思い浮かべた。「もう長くはないと……?」

「覚悟してたのね」

 幸乃は小さく頷くと、俯いた。「見た目よりも相当辛かったんだと思うわ。あの子、我慢強かったから……」

 俯いた幸乃の表情はとても悔しそうだった。

 長い沈黙のあと、健祐はもう一度仏壇の写真を見た。ビロードのワンピースが視界に入る。目は鮮やかな青色に釘づけになる。章乃の一番好きな色だ。

「私が縫ったのよ。丁度、あの大晦日に仕上がったの。直後にあの子の声が聞こえてね……あれは錯覚だったのかしら? 章乃、健ちゃんに再会する日の晴着にするんだ、って……。だから今日、章乃に着せてあげたくて、さっきここにかけておいたの。この生地を選んでやった頃は、あんなに張り切ってたのにね……」

 これを纏った章乃が、微笑みながら手を振り振りこちらに駆け寄って来る。健祐はその細い体を抱き留めつつ目を閉じ、章乃の体温を全身で感じ取った。

 ──アヤちゃん、とてもよく似合うよ。

「ありがとう、健ちゃん」

 章乃はいつもの優しい眼差しで応えてくれた。

 健祐は目を開け、仏壇の写真を見つめ続ける。

「田代家の墓に?」

「皆と一緒に眠っているの」

 健祐は瞬きも忘れ、章乃の写真に見入ったまま身動きひとつできなくなった。永遠に時が止まってしまったような気がする。

「フミさん。あなたには、嫌な思いをさせたわね。ごめんなさいね」

「お母様、そんな……」

 二人のやり取りに、健祐は再び時間の流れの中に引き戻された。ゆっくりと仏壇の章乃の写真から視線を外し、二人の顔を見比べると、文に微笑んだ。

「フミちゃん、戻ろうか」

 文は健祐を不安げにうかがっている。

「僕は、大丈夫だよ。そんな顔しないで、いつもの笑顔見せてよ」

 文は必死に、笑顔を作ろうとしてくれた。

 健祐は文に笑顔で二度頷くと、『遺書』を折り畳み、封筒に戻した。それと『最後の手紙』と章乃の写真を重ね、ジャケットの内ポケットに仕舞った。ゆっくりと立ち上がる。

「立花さん……」

「フミちゃん、さあ、行こうか」

 健祐は文に優しく声をかけて幸乃に向き直った。「おばさん、僕たち帰らなきゃ」

「そうね、見送るわね」

 幸乃も立ち上がった。

「おばさん」

「なあに?」

「ありがとう」

「健ちゃん。章乃はとても幸せだったのよ。健ちゃんのおかげで、幸せのまま、旅立つことができたの。ありがとう、健ちゃん」

 健祐は手を握り締められると、空いた手をその上にそっと添えた。

「おばさん、元気でね。行くよ」

 幸乃の目から涙が零れ落ちるのを見て、笑顔で別れを告げると文を見た。文はまだ座ったまま肩を落としている。

 健祐は幸乃の手を優しく解くと、文の肩に腕を回し、抱き起こすように立ち上がらせた。

 文は両手で自分の顔を覆ったが、大粒の涙が指の隙間から零れ落ちた。

「優しい人ね。章乃のために、ありがとう。さあ、フミさん、涙を拭いて」

 幸乃は文の顔を覗き込むと、顔を覆った手をゆっくりと引き離した。自分の両の掌を文の頬に当て、左右の親指で優しく涙を拭ってやる。

「さあ、帰ろう」

 健祐は文の肩を抱き寄せ、出口の方へ促した。

 文が手の甲で涙を拭いて頷くと、そのか細い肩を抱いたまま仏間を出て玄関へ向かった。

 二人が玄関で靴を履くと、幸乃が交互にコートを羽織らせてくれた。

「外は寒いわよ」

「ありがとう、おばさん」

 健祐は幸乃に向き直って礼を言い、文に目配せする。と、文も俯き加減で幸乃に頭を下げた。

 ドアを開け、外に出ると、外気が頬を突き刺した。影が短くなっていた。くっきりと地に貼りついていた影が突然薄くなる。天を仰ぐと、また鉛色の雲が次第に空を覆い始めていた。

「雪になるのかな?」

 健祐が呟いて振り返ると、文があとに続く。文の後ろから幸乃も、がっくりと肩を落とした文を気遣うようにその背に腕を回しながら何も羽織らず外に出て来た。

 健祐は玄関前の通りに出て、幸乃に別れを告げる。

 文は健祐の隣で幸乃に深々と頭を下げると、伏目がちに肩を震わせる。

 その文の手を優しく握り締め、幸乃は涙ぐみながら我が子を諭すような慈愛に満ちた声で語りかけた。

「フミさん、あなた、幸せになるのよ。必ず、幸せに……」

 文が幸乃に顔を向けたとき、そのまなこからも次々に熱い滴が頬を伝って、ふた筋の流れとなり零れ落ちた。

 健祐は二人の姿をシルエットにかえ、胸に投影すると、文に章乃を重ね、「アヤちゃん」と何度も何度も心の中で呟いていた。章乃は健祐の中で依然として生きていた。

「お母様、ありがとう、ございま……」

 ようやく文は呟くように声を発したが、語尾が上手く出せなかった。

「また、いつか会いましょう」

 文は無言で頷く。

「じゃあ、おばさん……」

 幸乃に努めて笑顔を向けると、文と並んで章乃の家をあとにした。

 ふと空を見上げた。鉛色の雲は風の速い流れに従って、空一面を覆い隠そうとしている。時の流れの上に、自分も確実に乗っているのだと、健祐は気づいた。


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