◇6

 章乃が宝箱を片づけに自室に戻って程なくすると、玄関の呼鈴が鳴った。

「章乃。公子ちゃんが来てくれたわよ」

 階段の下から母の声だけが駆け上がった。

 章乃は机の引き出しから工藤公子宛の手紙を手にすると、パジャマのポケットに入れ、部屋を出た。

 一階へ下りると、既に公子がストーブに手をかざし、暖を取っていた。

「キミちゃん、しばらくね、どうしてた?」

「相変わらず。アヤちゃん、顔色よくなったね。見違えるわ」

 公子はぽっちゃりした頬が愛らしい女の子だ。

「そう、そんなに?」

 章乃は炬燵に足を突っ込みながら、ここへおいで、と自分の隣の畳を右の掌で叩いた。

 公子が章乃に従い、隣に座ろうとしたところを、すかさず母が座布団を敷いてやると、公子は「すみません」と言いながら母に向けて感謝を微笑みで示した。

 ももと腿が触れ合う。密着した公子の体温が伝わってくる。お互い顔を見合わせ、笑みを交換する。

「おばさん、これ対馬つしまのお土産、『かす巻き』よ」

 台所へ立とうとした母に公子は紙袋を差し出した。


   *


 公子の母の里は、九州と朝鮮半島の間に浮かぶ国境の島、長崎県の対馬である。

 晴れた日には釜山の街並が望まれる程、九州本土より韓国の方が近い。その距離約五十キロメートル。

 一九〇〇年(明治三十三年)艦船を通すため、島を真っ二つに引き裂き、万関まんぜき瀬戸を築いた。西部の浅茅あそう湾と東部の三浦湾を接続する運河である。日露戦争時、重要な役割を果たす。そこに架かるのが万関橋で、上島と下島を結ぶ。

 隣島の壱岐と比べ、島内最高峰の矢立やたて山(648.5メートル)を筆頭に比較的高く険しい山々。殊に、特徴的な地形は上島と下島の間のリアス式海岸に囲まれた浅茅湾である。その冠たる眺めの壮麗さは名状し難い程の迫力がある、と幼い頃より公子から聞かされ、自ずと章乃も憧れを持ち続けている。いつか公子と二人で訪れることを楽しみにしてきたのだった。国指定の天然記念物のツシマヤマネコやヒトツバタゴ(別名ナンジャモンジャ)などの珍しい動植物も章乃を惹きつける要素である。

 『かす巻き』は対馬の名産品のひとつで、カステラ様の生地で餡をくるんだ蒲鉾大の和菓子だ。黒餡と白餡がある。章乃は比田勝ひたかつという街のとある店のそれが好きだ。カステラとは少々違う独特の生地の風味としっとりした歯触り、餡も甘過ぎず全体的にバランスの取れた甘さ控えめのところが絶品だと思う。

 公子の母は実母の病気見舞いのため、博多港から壱岐経由のフェリーで五時間以上かけて、対馬の玄関口、厳原いずはら港で下船し、港近くの病院へ行った帰りに、比田勝へもわざわざ立ち寄り、土産を買って来てくれたのだ。

 島と言っても、厳原から比田勝までは車でゆうに一時間以上は要する程の距離だ。比田勝港からも小倉行きのフェリーは出てはいるが、博多、厳原間よりも船に揺られる時間は長い。夜、比田勝港を出航し、早朝小倉へ到着。JR小倉駅から上りの新幹線と在来線と私鉄の鈍行を乗り継いで昼過ぎに帰宅し、休むいとまもなく店に出て、閉店時間まで働きづめだったと言う。

 公子の家は商店街の一角で総菜屋を営んでいる。年末の書き入れ時の多忙な中、一日を余計に費やして自分のために心を砕いてくれる。そんな人たちの優しい心根が章乃には何よりの財産だと思う。心は感謝でいっぱいになる。


   *


「さっき店に寄ったら、早く持ってけって言うから、すっ飛んで来ちゃった。アヤちゃんの好物でしょう……比田勝のお店のよ」

「まあ、わざわざ? ありがとう、公子ちゃん。お母さんにくれぐれもよろしく言っといてね」

 母は紙袋を受け取ると、両手を突いて公子に頭を下げた。

「いいえ、こんなことぐらいしかお役に立てなくて……」

 公子も咄嗟に正座すると、ほんのり頬を紅潮させながら恐縮して母に頭を下げる。

「キミちゃん、なんてこと言うのよ。いくら感謝しても足りないくらいよ。ありがとう」

 章乃は公子の肩を抱き寄せる。と、公子は「フフフ」と照れて頬を更に赤らめる。

「熱は……? ないね、よかった」

 公子は章乃の額に手を当てると、天性ののんびり屋らしく、ゆったりとした動作でその手を炬燵の中に引っ込めた。

 出会ってかれこれ十二年になる。同じ高校に入り、今年ようやく小学校以来、念願のクラスメイトが叶ったのに、章乃が休学してしてしまったせいで公子は残念がっていた。

「学校はどう?」

「変わりない。ひとつも面白いことなんてないよ」

「そう、それは残念ね」

「アヤちゃんがいないと寂しいもん。早く戻って来てね」

「ええ。直ぐに、と言いたいけど……」

「こんなに元気になったんだもん、もう直ぐよ」

「そうね、ありがとね」

「とーんでもない」

 公子は首を横に振って炬燵を出ようとした。「さて、帰ろうっと」

「ええっ! もう? 来たばかりじゃない」

 章乃は目を瞬かせた。

「アヤちゃんが無理するといけないでしょ」

 公子はゆっくり立ち上がって台所を覗いた。「おばさん、お邪魔しました」

「公子ちゃん、もう帰るの? お茶れるから……」

「アヤちゃん疲れるといけないから……」

 公子はそう言うと、玄関へ向かいかけた。

 章乃も立ち上がろうとした。

「アヤちゃん、いいから休んでて。見送りはいいよ」

 公子は章乃を制して、さっさと部屋を出た。

「大丈夫よ、気を遣わせてゴメンね」

 章乃は立ち上がり、公子の背に向かって言葉をかけながらあとを追いかける。

「水臭いこと言いっこなしよ」

 公子は濃紺のスクールコートを羽織り、靴を履き終わると、二人を追って章乃の横に立つ母にお辞儀をしながら暇乞いの挨拶をした。

「公子ちゃん、ありがとう。ご家族にくれぐれもよろしくね」

「はい、おばさん」

 微笑みかける母を見て頷くと、公子は章乃に視線を向けた。「お大事にね」

「うん、ありがとう。もう少しいてくれればいいのに……」

「また今度、アヤちゃんが元気になってから……じゃあね。おばさん、また伺います」

 公子が玄関のドアを開けると、章乃もツッカケを履いて何も羽織らず追いかけた。

「キミちゃん、待って」

 章乃は外に出ると、ドアを後ろ手に閉める。ポケットから手紙を取り出し、公子に差し出した。

「手紙?」

「お願いがあるの」

 章乃は公子に手渡すと、囁くように言葉を続けた。「私がここを離れてから……いいえ、私がいいって言うまで読まないで。それまでは絶対に開けないで。これを開ける日は自然と分かるから……」

「どうして? 面と向かって言えばいいじゃない。こんな水臭いことしないで……」

「手紙だと……言えないことだって言えたりするものよ」

「ふうん、そんなもんかなあ。で、なにが書いてあるの?」

「そんなこと……言えないから、手紙書いたんじゃない」

「あっ、そうか」

 公子は肩を竦めながら笑った。

 公子が笑うと、太めながら形のよい三日月眉は垂れ下がり、瞼が膨らんで大きな瞳を隠してしまう。何とも可愛らしい顔だ、と章乃の表情も自ずと綻んだ。

 二人はしばらく見つめ合い、笑顔を交換し終えると、抱き合って別れを告げた。

「気をつけて帰るのよ。転んじゃダメよ」

 おっとりにもかかわらず、そそっかしい公子に章乃は念を押した。「足元よく見るのよ」

「へへへ……大丈夫よ。他人の心配より、早く戻って。そんな格好で……風邪ひくよ」

 そう言い残して公子は帰って行った。


   *


 自分の単なる取り越し苦労で終わればいい。そのときは公子と手を取り合って、今日を笑い飛ばすことができるだろう。

 ──でも、もしそんな日が永遠に訪れないとしたら?

 公子にも随分と辛い思いを強いることになる。それを思うと胸は張り裂けそうだった。

 章乃は心の中で手を合わせ、公子に詫びた。詫びながら、これまでよりも尚一層、生への執着を強固にしつつ、その意味を噛み締めた。


   *


 旧友とのしばしの対面もあっという間に終わった。

 章乃は家の中へ入ると、しばらく公子の出て行った玄関のドアを見つめた。やはり、ひとり病室での生活は寂しい。いつも人恋しくなる。せめて公子が傍にいてくれたら、といつも思ってきた。

「もう少し話したかったのに……」

「さあ、寒いから戻りましょ。いつでも会えるわ」

 玄関先で章乃を待っていた母が、そっと肩を抱いて腕をさすってくれる。

「そうね……」

 章乃は今日だけはいつまでも語り明かしたい気分だった。

 今夜は何となく人恋しさが募る。


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