◆5

「戻ってたんだね!」

 健祐は興奮した。垣根越しに懐かしい人の顔がある。

 最初、彼女は怪訝けげんな表情を浮かべながらこちらに歩み寄った。

「どなたかしら?」

 懐かしい声だ。健祐は無言で彼女を見つめる。胸が詰まって声が出せない。微笑むのが精一杯だった。

「どなたかしら?」

 彼女はもう一度尋ねた。

「僕だよ……」

 健祐は声を絞り出した。「健祐だよ」

 彼女は急に足を止め、その場に立ち尽くしたまま唇を微かに動かした。

「健祐……さん?」

 健祐は大きく頷いた。

 いっとき二人を取り巻く空間は静まり返った。健祐は微かに震える胸に息を吸い込み、発声の準備を整える。

「会いたかった」

 自身の声はかなり震えてしまった。上下の奥歯が小刻みにぶつかり合うので、歯を喰いしばり、口を真一文字に結ぶ。

「健ちゃん! 健ちゃん……なの?」

 彼女は目を見開いてこちらを見る。

 もう一度健祐はゆっくりと大きく頷く。

「健ちゃん……なのね……」

 彼女も声を詰まらせ、語尾がうまく言葉にならない。その目に涙がにじんだ。

「いつ……いつ戻ったの? どうして……どうして連絡くれなかったの?」

 健祐は息をするのも忘れて一気に言葉を吐き出した。

「ごめんなさいね……」

 彼女の目には涙が溢れ、瞬きをする毎に次々と零れ落ちた。「健ちゃん……立派になったわね」

 健祐は必死に涙をこらえた。目の前がゆがんで見える。

 ついにこの日が来たのだ。健祐が待ち望んだ日が。十年の歳月を経て、一途に思いを募らせ、この世で唯一愛も命も分かち合える女性との再会の瞬間が。健祐にとってこれ以上の幸福は最早なかった。


   *


 健祐の胸は高鳴った。これまでの不安はこの一瞬に吹き飛んで行った。やっと辿り着いたのだ。

「あの頃は……色々とお世話になって……ありがとうございました」

 健祐は途切れ途切れに言うと、深々とこうべを垂れた。その目からひと粒だけ涙が零れてしまった。

「なに言ってるの、そんな真似しないで。章乃……章乃の方こそ、ありがとう」

 章乃の名を、今、母親の幸乃の口から聞いたことが何より嬉しかった。

 ──もしかすると?

 一瞬また健祐の心を過ぎった。いや違う。もうそんな問いかけは必要ない。章乃はいる。章乃に会える。会えるのだ。今日、全てが報われる。最早疑う余地などあろうはずがない。今、章乃の息遣いを間近に感じた気がする。直ぐにでも章乃の命の息吹を抱き締められるだろう。この腕の中に章乃をいだき、全身で体温を感じ取りたい。そう思うだけで今は幸せだった。長年の夢が現実になるのだと確信できたこの瞬間、健祐の心は満たされていた。

「おばさん、アヤちゃんは?」

 幸乃はしばらく無言で健祐の顔を見つめたまま目頭を押さえた。

「待っていたのよ……健ちゃんを……」

 途切れ途切れに言葉を発しながら、幸乃は垣根越しに手を伸ばし、健祐の手を取った。「章乃は……いないの」

「アヤちゃん、戻ってないの?」

「ごめんね、健ちゃん」

「いや、いいんだよ。でも、早く会いたいなあ」

「本当に懐かしいわね。健ちゃんは、どうして、ここに?」

 幸乃はなく溢れる涙を拭った。

「中学の同窓会に出ようと思って」

「そう。あの子も、みんなと会いたかったでしょうね……」

「仕方ないよ、また、いつか必ず会えるんだし」

「健ちゃん、いつまでこちらに?」

「明日、夕方には戻らないと」

「そう、また帰りにでも……寄ってくれる?」

「ああ、必ず。おばさん、元気そうでよかった。アヤちゃんも元気?」

「また、寄ってくれたときに、お話しましょうね」

「そうだね」

「……この方は?」

 幸乃は健祐の隣の文に視線を向ける。

「はじめまして、私、三枝文と申します」

 健祐が紹介するよりも先に、文がすかさず口を開いてお辞儀をした。

「可愛い方ね。健ちゃんのガールフレンド……かしら?」

「とんでもないです。私、会社の後輩でございます」

 健祐が幸乃の言葉にどぎまぎするうちに、文自ら説明する。

「そうなの? 健ちゃん、お仕事は?」

「私どもは、建設会社の設計課に勤務しておりまして、立花は一級建築士、私は二級建築士でございます。かねてより、立花から、こちらの環境の素晴らしさを聞いておりまして、私も仕事柄大変関心がありましたもので、今回、同行した次第でございます」

 健祐が答えるより早く、また文が口を開いた。

「そうなの。ごめんなさいね、変なこと言って……」

 文は穏やかな笑顔で首を横に振って見せた。

 健祐は思わず首筋を掻いていた。

「健ちゃん。その癖……直らないみたいね」

「はい、そうです」

 文が答えた。「立花さんって、分かり易い人です。嘘もすぐ見破られますから」

 健祐は文を見て目を見開いた。文は笑っている。

 幸乃も微笑みながら文を見て頷く。

「おばさん、もう行かないと」

 健祐は腕時計を指した。

「先輩、お逃げにならなくても……」

 健祐は文を無視して半身だけを路地側に向ける。

「明日の朝にでも、また、必ず寄るよ」

「そうね。そのときに、お話しましょう」

「じゃあ、もう行くから」

「同窓会、楽しんで来てね」

「そうするよ。今日、アヤちゃんに会えないのは残念だけど、また近いうちに会えるから。じゃあ……」

 健祐は一礼して、手を振りながらその場を離れ、同窓会会場へと足を向ける。

 文も、幸乃に丁寧に暇乞いとまごいをすると、健祐に続いた。


   *


 健祐の胸は弾んでいた。

「先輩、よかったわね」

 文は優しく微笑んでくれた。

 また首筋を掻きながら、健祐も微笑を返す。

 健祐の心に一条の光が差し込んでいた。今、全身でその温もりを感じている。ほとばしる喜びを、誰にはばかることなく叫びたい衝動に駆られた。

「ねえ、私の言うこと、聞いてよかったでしょう? 感謝しなさい」

 文は冗談めかして健祐の顔を下方から覗き込んできた。悪戯な笑みを浮かべながら、しばらくそのままの状態を保った。

 健祐は息苦しさの余り、天を仰いでまた首筋を掻いてしまった。

「その癖、お直しになった方が、よろしくってよ。なに考えてるか、お見通しだもん」

 文は健祐の仕種しぐさを真似て冷やかした。

「い、いやあ……」

 健祐は苦笑して瞬きを繰り返すだけで何も言えない。

「でも、残念ね……」

「なにが?」

「私も会いたかったわ、章乃さんに」

「いつでも会えるよ」

「そうね……」

 文は真顔で頷くと、直ぐに表情を崩した。「じゃあ同窓会、行きましょうか?」

「フミちゃんも?」

「なによ! ご一緒しては、ご迷惑?」

 文は不機嫌な口調で、づかづかと健祐に詰め寄った。「私じゃ不服かしら? アヤちゃんじゃなくて……」

 ぐんぐん迫ってくる文の顔を、健祐は半身を引いてかわしながら後ずさった。


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