◆3

 ホテルは、健祐がこの街に暮らしていた頃はまだ外観も見栄えはよかったが、遠目でも五階建ての鉄筋コンクリートの白壁は薄汚れ、近づいてよく見ると、塗装が剥がれかけている箇所も見て取れた。

 健祐も中へ入るのは初めてだ。エントランスには、どこかでよく見かける有名な西洋絵画の写しが、堂々と額入りで宿泊客を歓迎してくれる。自分の趣向とは随分とかけ離れていて、内部の落ち着いた雰囲気とも少々そぐわない印象を与える。それを除けば、庭に面した南向きの窓は、天井まで届く程大きく開放感に優れ、フロアは明るく、敷き詰められた絨毯じゅうたんも充分な厚みがあり、踏み締めた感触は殊の外心地良い。中は外観程の安っぽさは感じられなかった。従業員も割合愛想がいい。

 チェックインを済ませた二人はエレベーターで三階まで昇り、部屋へと案内された。

 部屋は隣同士で、それぞれの部屋に荷物を置くと、二人して街へ出た。健祐の後ろから文はついて来る。街に入ってから身を切るような大気の冷たさが、秋の終わりを物語っている。南国の街だが、標高が高いために冬の寒さは厳しい。

 ホテル正面の坂道を下りながら川を挟んだ向かい側の街並に目を向けた。鉛色の雲の底で、低い民家の瓦屋根の幾重にも波打つ景色が、街から望む山々の紅葉と相まって見事なコントラストを成している。

「ねえ、先輩のおうち、どの辺り?」

「あの川を渡って、川沿いを少し上流へ行くと、坂道があって、その坂を上って、横道に入って奥まった所」

 指で道をなぞって説明した。

「えっとー? まあ、いっか。とにかく行けば分かるでしょ」

「まだ、あるかな?」

「章乃さんのお家は、近く?」

「いいや、ちょっと遠いよ。アヤちゃんの家は、こっちの方」

 反対方向を指差す。

「アヤちゃん……か」

 文のか細い声の波動が尻すぼみに耳元を流れた。

「なんか……言った?」

 聞こえない振りをして訊き返す。

 文は立ち止まり、無表情でこちらを一瞥しただけで無言でまた歩き出す。

 二人は橋を渡って川沿いを歩いた。川の流れは、さっき食堂を出て見下ろした下流域よりも、かなり速くなっている。緩いカーブを描いた場所では川岸側の流れが遅く、不規則で小さな渦を形成している。

 健祐が立ち止まって護岸の上から下を覗き込むと、文もそれにならう。

「きれいな流れね」

「そうだね。もっと上流へ行くと、蛍がいるよ」

「蛍? 行ってみましょうよ」

 文は目を輝かせる。

「今はいないよ」

「どうして?」

「夏じゃないもん」

「あっ、そうか」

 そう言って快活に笑う文の顔を覗き込むと、健祐は大袈裟に肩を竦めてやる。

「まあ、意地悪ね」

 健祐はまた文の先を歩き、しばらく行って立ち止まった。

「この上だよ」

 坂道を見上げる健祐を一瞥した文は、さっさと坂を上り出したが、健祐は突っ立ったままその場に留まり続けた。

 文は健祐がついて来てないのに気づき、振り返る。

「ねえ、先輩。早く行きましょうよ」

 文の手招きを見て、健祐もゆっくりと坂を上り始める。その場に待っていてくれた文に追いつくと、文は横につき、歩調を合わせる。

 丁度坂道の中あたりに横道が通じている。そこを右に折れ、三十メートル程奥まった場所に、当時家族で暮らした借家は建っていた。木造平屋建ての二軒連なった、かなり古めかしいつくりで、向かって左側の部屋がかつての我が家だ。六畳と四畳半の二間だけの狭い間取りである。煮炊きできるだけのちょっとしたスペースと流しが玄関横にあり、学校から帰宅すると、決まってその窓ガラスに夕食の支度をする母の影が映っていた。健祐の鼻腔びこうは、今、焼き魚のにおいをいだ。

 表札は見知らぬ名前だった。建物の外観は、左程変わった様子はない。隣室との境界にヤツデが植えられてある。当時と何ら変わりない。健祐の耳に父母の笑い声が届く。

 本当にここで暮らしていたのだろうか。健祐には実感が湧いて来ない。何か他人事ひとごとのようにも思われる。ここでの生活は努めて思い出さないようにしてきたし、確かに懐かしい佇まいではあるが、懐かしさよりも、幼い健祐にとって、あまりにも辛いことが多過ぎた。父と母の最期を看取った家なのだ。二人の葬送の風景が蘇る。

「ヤツデか……」

 文が不意に声をかけた。「先輩、ここなの?」

「ああ」

「チャイム押してみようか?」

「よしなよ。フミちゃん、行こう」

「もう?」

 これ以上この場所にはいたくなかった。胸が押し潰されるような気持ちだ。健祐はひとりさっさとそこを離れたが、文は玄関先をうかがったまま、健祐が去ったことに気づいていない。健祐が声をかけようとしたとき、ようやく気づいて小走りに駆け寄って来た。

「先輩、置いてかないで」

「さあ、戻ろうよ」

「どこに?」

「どこにって……ホテルだよ」

「ダメよ! 章乃さんとこ行ってみなくちゃ」

「行こう。時間もなくなるし」

 健祐は腕時計を見た。同窓会まではかなり時間はあったが、慌ててそう言った。章乃の家には文に気づかれないようこっそりと行くつもりでいる。

「なに言ってるの? 章乃さんとこ寄っても、まだ余裕でしょ、そんなのダメダメ」

「いいよ」

「なにが『いいよ』なの。なんのためにここまで来たのよ!」

 文は健祐に詰め寄った。「章乃さんに会うためでしょ?」

「いや、同窓会に……」

「今更なに? 呆れるわね!」

 文は腹立たしげに腰に両手を当てた。「章乃さんとの恋を成就させるためでしょうに!」

 健祐は文の強引さにたじろぐばかりだ。

「アヤちゃんは、ここには……」

「そんなこと、分かんないじゃないの! なんか見つかるかもよ、手掛かりが」

 文は健祐の言葉を遮ってまくし立てる。「私だって、見届けに来たんだもの。このまま引き下がれますかって!」

「フミちゃん……」

 健祐は文の迫力に呆気にとられ、言葉を失くした。

「さあ、行きましょう。ほら、早く」

 健祐を急き立てると、今度は文が健祐を置いて歩き出した。

 健祐は文を追って路地を出た所まで来て、立ち止まった。文は坂をかなり上の方まで上ってしまった。まだ上り続けている。

「フミちゃん!」

「なに? 私、忙しいのに!」

 文が振り向くと、坂の下手しもてを指差して、健祐は坂道を下り始める。振り返ると、文は両手を腰に当て溜息をついた。

「まったく。先輩、待って! 早く言ってよね!」

 文の駆け寄る足音が、背後から聞こえる。健祐はお構いなくさっさと先に進みながら思わず吹き出した。

 文が追いついてピタリと横につく。荒い息遣いだ。

「先輩、なに笑ってるの! 人の不幸を笑うなんて……」

 文はこちらの顔を覗き込む。「もう、イジワル!」

 隣で睨む文の視線を余所目よそめに、顔を背け、笑いを堪えながら健祐は歩いた。


   *


 章乃の家は、川をほぼ直角に貫く大通りの向こう側にある。この通りが中学の学区を分岐する境界だ。二人は玉川大橋のたもとの横断歩道を渡り、川べりを川下へと進んだ。

 健祐の家から章乃の家までおよそ三十分程要する。ようやく章乃の家が面する通りにやって来た。章乃の家は、この通りと狭い路地との十字路の角にある。

 健祐は心なしか歩みを緩めたことに気づいた。さっきからやけに足運びがもどかしく感じられていた。

 文は相変わらず健祐に寄り添うようについて来る。

 健祐の右手前方に章乃の家の屋根が視界に入ってきた。気が遠くなりそうで、自分の行動がどこか現実味に欠けているような錯覚がした。ゆっくりとそこを目指す。次第に家屋の全形が現れる。しばらくしてとうとう章乃の家の前までやって来た。立ち止まり、二階の章乃の部屋を見上げてみる。

 木造二階建ての、こじんまりとした古い洋館だ。当時から随分モダンな印象だった。かつては章乃の父、章の友人宅だった。その人の妻は外国人で、妻の国に移住することになったのを機に、章が生前買い取った、と章乃から聞いた。室内は外観の西洋風の様相とは随分と違っている。一階は、リビングと幸乃が仕事部屋にしている部屋を除いて六畳の二間は和室だ。畳部屋はその人のこだわりだったらしい。健祐の目には、そこに暮らす章乃と幸乃親子がくっきりと映し出される。

 玄関先に佇むと、すかさず表札を確認する。

「田代……?」

 表札は元のままだった。高校を卒業してここに来たあのときには確かに外されていた。他人に貸したはずだ。当然、別の名があるとばかり思っていた。健祐は首を傾げる。

 不意に庭の方で人の気配がする。誘われるように家の角を右に折れ、路地に入り、垣根越しに庭を望むことのできる場所に出た。庭先をうかがうと、人影が屈んで花壇の手入れをしている。庭木の陰で顔は見えない。しばらくその光景を眺め続けた。

 突然、人影は立ち上がり、顔をこちらに向けた。健祐は目を凝らした。顔を確認した瞬間、思わず叫んでいた。


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