第四章・予 感

◆1

 二人は仏壇に線香をあげると、別れを惜しむ老婆に挨拶をして食堂をあとにした。食堂の角を右に折れ、緩やかな下り坂になった道を辿れば、二十分程で健祐の生まれ育った街へ出る。ひんやりとした風が、坂の下手から右手斜面の樹々の枝を揺らしながら頬を掠めて吹いた。

「少し寒くなったみたい」

 文はコートのボタンを留めると、襟を立てる。「先輩、いい眺めね」

 健祐は文の後ろから左前方に広がる景色に見入っていた。景色を眺めながら頷き、文を見ると、健祐の視線に合わせて同じ方向を見ていた。その文の肩を軽く叩き、遠くを指差す。

「あの辺に僕の家があったんだ。あの川の向こうに」

 文は一旦こちらを向き、健祐の指の遙か先に視線を延ばした。

 二人はしばらくその場に留まって崖の上から街を見渡した。「さあ、行こうか」と健祐が促すと、文はうっすら笑みを浮かべたまま健祐のあとに従う。

 十分程行って健祐は立ち止まった。神社に続く長い階段を見上げる。初めて章乃と出会った場所だ。いっときそこでぼんやりしていると、先を歩いていた文が引き返して来た。

「先輩、どうしたの?」

 文の呼びかけには答えず、健祐は階段の先を見つめ続ける。

 文は横に立つと、同じように階段を見上げた。

「上ってみようよ? きっと、いい眺めだよ」

 あのとき、章乃にかけた言葉を口にしてみる。

「えっ、なに?」

 健祐の声が文には聞き取れなかったらしい。

「文ちゃん、上ってみないか?」

 文は無言だった。

 顔を文に向けると、文は直ぐに視線を逸らし、首を折って頷いた。俯き加減で何かをしっかりと捉えた目つきで自身の足元を見つめながら口角を持ち上げ、唇だけに薄ら笑みを湛えている。 

 健祐はゆっくりと階段を上り始める。

 文はいっとき間を置いてからついて来た。

 一番上まで来ると、鳥居の向こうに小さな社殿が建っている。時を飛び越えて、ようやく元の時代へと戻って来た旅人を出迎えてくれているように、全てが当時のままだ。何も変わっていない。

 文は健祐の背後で息を弾ませている。その声を背中で受け止めると、健祐は身を翻し、社殿を背に階段の上から景色を見やった。

 文もようやく追いついて横に立ち、荒い息遣いで健祐にならって街並みを眺める。

「いい眺めだろう?」

「ホント、きれいねえ! 章乃さん、この街が大好きだったのね。古里を懐かしんで『窓外の自然に親しんでいる』と手紙に書いたんだわ。ここに帰りたかったんじゃないかしら。きっとそうね。分かる気がするもの」

 瞼に焼きついていた景色と照らし合わせた。章乃と一緒に幾度となく眺めた懐かしい街並みが、眼下に広がっている。脳裏に章乃との想い出が次々と蘇り、溢れ出してしまいそうになる。

 文は荷物を置き、その場に座った。

 健祐も腰を下ろすと、そのまま後ろに倒れ込んだ。

「先輩、汚れるわよ」

「構わないよ」

 健祐は両手を枕に寝そべったまま空を見つめた。

 黒雲の隙間から、青空も覗いていた。

 ──もしかすると?

 胸は高鳴る。健祐はこれから起こる出来事に希望と喜びを見出そうとしたかった。

 ──もしかすると……


   *


 街に入ってしばらく行くと、高台に建つホテルの全形が現れた。

「もう直ぐだよ。ほら、あの建物がこの街で唯一のホテルさ」

 健祐は心なしか弾む声に、自分でも気づいた。「チェックインしたら、街を案内するよ。まだ時間あるから」 

「お願いします」

 文は歩きながら健祐の顔を覗き込んできた。「先輩、嬉しそうね、ヘヘヘ……」

「ええっ?」

「訊いてもいい?」

 そう言うなり文は、健祐の前に立ちはだかり、通せんぼをする。ニヒルな笑みを気取って健祐を上目遣いに見据えた。

「な、なに……?」

「あの神社、どんな想い出があるのかしら? 初めての……」

「えっ?」

「初めて、キスしたとか?」

「ち、違うよ、あそこじゃ……」

「えっ、あそこで、じゃないの? じゃあ、どこで?」

「い、いや、その……」

 健祐はどぎまぎして、首筋を激しく掻く。

「あらっ、ゴメンなさい」

 文は含み笑いをしながら、また健祐の顔を覗き込む。「どんな人か知りたいわ? 章乃さんに会ってみたくなっちゃった」

「直ぐそこだよ。さあ、行こうよ」

 健祐は文をかわす様に横をすり抜けると、必死に話題を変えようとした。

「先輩、章乃さんのこと、おしえて? ダメ?」

 文は執拗に悪戯な視線を向けながらせがむ。

 健祐の頬が熱くなる。それを悟られまいとそっぽを向き、コートの襟を立て、顔を埋めるように背を丸めながら歩を速めた。

「もうそこだよ」

 動揺を抑えてぶっきらぼうに放った己の声は微かに震えていた。

「おしえて、おしえて? ねえ先輩……」

 文を一瞥すると、声を押し殺しながら笑っていたが、仕舞いには腹に手を当てて高笑いを始めた。

「意地悪め!」

 呟くように言い放った健祐の声は、文の笑い声に遠方へと跳ね返されてしまった。

「はあ、楽しいわね」

 文は健祐をからかう様に舌を出したまま肩を竦めた。

 健祐がまた首筋を掻こうとしたら、すかさず文もその癖を真似て見せたので、健祐の右手は宙を彷徨いながら行方が定まらず、結局コートのポケットへとおさまった。


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