◆5

 息を切らせながら列車に乗り込むと、車内を見回した。乗客はまばらだ。三両編成の最後尾から先頭の車両に移り、最前列の左側の座席が空いているのを確認して、そこを目指す。

 バッグを窓際の床に置き、腰かけた。少し腰を浮かせ、フックにコートをかける。老婆から貰ったオハギの包みは膝の上に載せた。肩で息をつきながら一度深呼吸をした拍子に発車のベルが鳴り、ドアの閉まる音がした。列車は一度ガタンと揺れると、滑るように加速を始める。額の汗を手の甲で軽く拭い、呼吸いきを整えた。

 しばらく車窓から流れる風景を眺めていると、突然、右目の視界を人影が掠めた。何気ない振りをしてそちらに視線を滑らせてみる。

 隣に若い女性が座った。

 ダークブラウンのスエードコートの襟元から薄手の白いハイネックセーターが覗く。膝丈のコートの裾からすらりと伸びた脚に、細身のブルージーンズがピタリと張りついている。肩まで垂らした髪は、目深まぶかに被ったつばの広めの黒い帽子で押さえられ、横顔を隠し、濃い茶色のサングラスの下の表情は見えない。

 強烈な香水の刺激臭が、鼻腔を襲ってきた。思わず顔を背け、右手の人差し指で鼻を軽くこする。

 腰を浮かせ、背もたれ越しに周りを見渡してみた。やはり空席の方が目立つ。首を傾げ、座り直すと、隣人を横目で見やった。

 席を移ろうかとも思案したが、隣人は荷物の上に脚を組み、首を垂れている。いかにも、これから寝ようか、という体勢で、あたかも通せんぼをしているかのようだ。こっちが優先なんだし、別に移る必要もないか、と健祐はそこに籠城を決め込んだ。

 それでも、やはり気になってしまう。もう一度横目で隣人を一瞥する。すると、隣人は健祐の方に大きく上体をくねらせながらじわりとすり寄って来た。健祐は少したじろいで、声をかけようか迷ったが、隣人をうかがうと、直ぐに身動きひとつしなくなった。仕方なく諦めて窓際に寄り、窓枠の縁に肘を当て、頬杖を突いた。車窓の風景を楽しむことにした。

 しばらく流れる風景を見ていたら、腹の虫が鳴いた。腕時計を見ると、もう昼近かった。今朝から、飲み物以外何も口に入れていない。

 早速包装紙を丁寧に広げ、折り箱の薄い蓋をそっと引き剥がす。蓋の裏に小豆のあんが所々ついている。それを右手の薬指でなぞるようにすくい取り、口に運んだ。仄かな塩味しおみの中に上品な甘さが引き立つ。甘さ控えめでどぎつさは全くない。いい味だ。赤子の拳よりもひと回り程大きめのオハギが五個、所狭しとぎっしり並んでいる。

 隣人は相変わらず腕組みをしてこうべを垂れたままだ。

「あのう、さっき貰ったんですけど……いかがですか?」

 一応隣人にも勧めてみたが、無言で首を横に振った。

 ──起きてたのか!

「そうですか」

 隣人を気にしつつも、健祐は一個ずつ味わいながら食べ始める。

 健祐が思わず「うまい」と呟くと、一瞬、隣人がこちらを見た気がしたので、そちらに視線をやる。確かに、今、こちらをうかがっていた。健祐が顔を向けると、隣人は慌てて顔を伏せ、元の体勢に戻したのだ。

 ──おかしな女だな?

 何度か隣人の様子をうかがいながら次々に口に放り込み、五つ目の最後のひとくちを口に運ぶと、喉に詰まりそうになって咳き込んでしまった。

 すると隣人は、カバンの中からペットボトルのお茶を健祐の目の前に差し出した。

「いや、大丈夫です」

 咳き込みながら断ると、ボトルの蓋を開け、健祐の手を取って強引にそれを握らせた。

 健祐は目礼してひとくち喉に流し込む。息をフウッと吐いて整えたあと、もう一度女性の方を向いた。

「ありがとうございました」

 礼を言い、女性を見ると、また元の体勢を保っている。「あなたの分、僕があとで買ってきましょう」

 女性はもう一度かばんを開け、中からもう一本取り出すと、左手を振って健祐の申し出を断った。なぜかそっぽを向いたまま口を利こうとはしない。

 健祐は「そうですか」と恐縮しながら折り箱を小さく畳み、包装紙でくるむと、バッグのポケットに差し込んだ。お茶をもうひとくち飲んで蓋を閉め、バッグの上に静かに置いた。シートに深く座り直し、脚を組んだ。欠伸をしながら顔をゆっくり三度両手でこすって腕時計を覗く。

 ──もう少しだ。

 心の中で呟くと、腕組みをして目を閉じた。


   *


 列車はひと駅ごとにゆっくりとではあるが、確実に故郷に近づいている。指を折って残りの駅数を数えてみる。あと小一時間程で着くはずだ。

 窓から空を見上げると、相変わらずどんよりとした空模様だった。故郷に近づくにつれ、天候が一層怪しくなってきた。天気予報では、今日一日、自分の住む地方はかなり広範囲に渡って穏やかな晴天に恵まれるはずなのに、高気圧のへりすら故郷の街までは届かない。随分と遠い距離なのだと改めて思った。

 この辺りは標高も高いせいもあって、秋もかなり深まりつつある。山々の紅葉の度合いも平地に比してより進んでいて、鮮やかに色づいていた。

「この辺はまだ田畑が多いな」

 独りごちながら、流れる風景をぼんやりと眺めていた。故郷を離れた日、同じ景色を目にしたはずなのに、この辺りに記憶は全くない。あのときは、章乃との別れの辛さしか健祐の胸にはなかったから、景色など目には映らなかったのだ。

 列車は停車する度に、乗降客の入れ代わりも激しさを増す。次第に民家の数も増えてきた。故郷の街に近づいた証でもある。幾つかの駅が次々に過ぎ去り、列車はトンネルに入った。耳が詰まる。視線を窓から足元に移し、唾液を飲み込み、耳抜きをした。また窓の方を向いたとき、突然視界が開けた。

 ふと列車の進行方向を見た己が体は硬直した。故郷の街の全景が、この目に映っている。瞬きも忘れ、目を見開いたまま景色に釘づけになる。次第に街並みが迫る。遠ざかる風景しか覚えがなかったが、今、まさに近づいている。その様を食い入るように見た。まるで、時間を逆行しているかのようだ。街を去った日の感情が蘇り、胸が熱くなる。

 車内アナウンスが流れている。その内容までは聞き取れない。多分故郷の駅への到着を告げているのだろう。

 数分後、列車は減速を始め、ホームに進入し始めた。

 健祐は目を閉じた。

 列車は停まった。と同時に目を開け、機敏な動作で立ち上がり、荷物を持って座席を離れた。隣席のあの女性は消えていた。急いで乗降口へ走る。

 ドアが開く音がする。

 三両編成の真ん中の車両に移り、乗降口の前に立ち、深呼吸をして一歩を踏み出す。そのまま降り立った場所に留まり続けた。正面に改札口がある。

 背後でドアが閉まり、列車がホームを離れる音だけがする。次第に列車の音は遠ざかり、健祐の耳にはもう届かなくなった。

 駅舎を見渡してみた。あのときと何も変わっていない。古い木造の小さな駅舎は、健祐を迎え入れるように、改札口を大きく開けて建っている。

 くるりと身を翻すと、反対側のホームを見た。この目ははっきりと章乃の姿を捉えた。

 自分がこの街を去る日、見送りは章乃と幸乃しかいなかった。ほかの皆には、あの日ここを去ることは伏せておいたのだ。章乃は最初、涙を堪えていたが、健祐が列車に乗り込んだ瞬間、堰を切ったように泣き出してしまった。その章乃を、健祐は優しくなださとした。無情にも突然ドアは閉まり、否応なく二人の心を断ち切って、列車はホームを離れたのだった。

 健祐はその場に立ち尽くし、あの日の別れ際の章乃の姿に心奪われてしまった。最早身動きなど叶わない。その方法すら思い出せぬまま呼吸は停止し、胸が締めつけられる。挙句には吐くのを忘れ、勢いよく二度連続で息を吸い込んだためにしゃくり上げたものだから、肩が酷く痙攣した。

「あのう、お客様……」

 背後から声がして、突然こちらの世界に引き戻された。振り向くと、駅員が自分をうかがっている。

「ああ、すみません、直ぐに……」

 改札口へと進んで切符を渡すと、駅舎を出た。

 眼前の風景をひと通り見渡してみる。

 正面には、相変わらず山々がそびえ立つ。駅舎前の車道は緩やかな半円を描き、それに沿うように建物が連なっている。車道を挟んで、半円の中央部には円形の花壇があって、そこに古い時計台が建つ。午後一時半を指している。直ぐ目の前はバス停で、小さなベンチが設置されている。

 左手には駅舎と沿線に延びる狭い歩道を挟んで三階建てのビルが二棟並び、その前のタクシー乗り場にタクシーが一台客待ちをしていた。

 右手には駅舎に隣接して土産物屋、その先に木造二階建ての小さな食堂が一軒だけある。

 正面のガードレールの左右に、小高い山を削って造られた県道が延び、故郷の町と隣町を連絡する。健祐の故郷へは右へ折れ、一直線である。ガードレールの先は崖で、眼下に清流を見下ろす。

 もう一度食堂を見た。『駅前食堂』の年季の入った看板が大きく掲げられている。

「懐かしいな。お婆ちゃん、元気だろうか?」

 食堂目指して足を踏み出した。二、三歩程行ったとき、駅舎の方から誰かが躍り出て、突然健祐の行く手を遮った。

 隣席の女性だ。健祐の目の前で、正面の山を見上げながら、背伸びをする。

「ああ、気持ちいいわね。空気が美味しい!」

 健祐は首を傾げた。どことなく声に聞き覚えがある。

 女性は帽子とサングラスを取ると、また背伸びをした。徐にサングラスを握った左手で髪を耳の後ろまで掻き上げた。横顔があらわになる。

 健祐は目を見張った。


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