◆3

 もう、どれくらい経つのか。ふと気づくと、列車はトンネルの中だった。腕時計は既に十時半を回っている。乗車して二時間が過ぎていた。

 眠ったらしい。健祐は欠伸をしながら、車窓に顔を向けた。曇ったガラスを手の甲でこする。

 額にかかった前髪を手櫛てぐしで掻き上げた。立ち上がった広めの額に、少々落ちうぼんだ眼窩がんかの奥から鋭い眼光がこちらを捉える。まさしく己の記憶に残る父の面影を見た。

 幼い頃は自他共に認める程の母似であった。確かに幾分座りのよい鼻と、両の口角が常に笑みをたたえたあたりは、母を彷彿ほうふつさせるが、今こうして車窓に映る己の容姿は父そのものである。

 眉を上下に動かしてみる。眼窩の縁に乗った少々太く濃いめの長い眉も父譲りで、これが九州人特有なのかは定かではない。九州出身者は知人にも数人いるが、眉なんて左程濃くも太くもないありきたりの形だ。母親が九州出身の公子だけは例外だが、それでも九州人だから、などと一括りに片づけてしまうのは乱暴のような気もする。ただ、公子は目鼻立ちがはっきりして凛とした雰囲気の、世間で言うような典型的な九州美人だ。多少おっとりした性格とはギャップがあって、そこが魅力的だと健祐は分析する。公子は誰かを連想させるのだが、これまでとんと思い浮かばなかった。相変わらず車窓の方を向いて眉を上下させ続けるうちに、ふと頭に浮かんだ。

 ──そうか博多人形か!

 今、ようやく合点がいき、思わず口元が綻んだ。子供の頃、自宅玄関先の下駄箱の上に飾ってあった、置き土産の稚児ちご人形に公子はそっくりだったのだ。これで長年の胸に巣くったもやが晴れた。

 そんなどうでもいいことを考えながら、もう一度己の顔をじっくり覗くと、車窓に映ったこの顔がやけに老けて見える。車内灯の光の加減かもしれないが。

 列車は、ようやく長いトンネルを抜けた。

 目に飛び込んできたのは、黒の濃淡だけで配色された雲が、空一面を覆っている景色だった。それとは対照的に、山々は紅葉している。広大な枯れた田園の畦道を歩く黒い人影が小さく見える。頭頂から白い息が漏れていた。

 ガラスが曇ってきた。またそれを拭う。車窓を叩く雨粒の向こうで、どこかモノクロームの映画の一場面のような風景が流れていた。

 あと二時間足らずで古里の駅に着く。故郷に着いたら一目散に公子に会いに行こう。もしかしたら、今度こそ章乃の行方を知るかもしれない。同時に、もし期待外れだったら、との不安も募る。はやる気持ちと、このまま永遠に旅を続けたい願望とが、交互に押し寄せては消え、健祐の心をえさせる。

 しばらくして、車内アナウンスが次の駅への到着を告げる。

 列車はホームに入ると、速度を落としながらゆっくりと停まり、ドアが開くと同時に人の波が車内に押し寄せる。出発当初はまばらだった乗客も、この車両全体に溢れてしまった。

「ここ、よろしいでしょうか?」

 声の方を見ると、一見、粗末な身なりだが、品の良い物腰と人懐っこい笑顔の老婆が立っていた。日焼けした顔に、深く幾重にも刻まれた皺が浮かび、背中が少し丸まっている。

「ええ、いいですよ。空いてます」

 幾分事務的に答え、窓際へ寄った。

「ありがとうございます」

 老婆は頭を下げると、風呂敷包みを膝いっぱいに抱えて座った。「ご親切に、すみませんねえ」

「どこまでですか?」

 手持ち無沙汰から仕方なく尋ねてみた。

「次で降りますの。お宅様はどこまで?」

「私も、次で乗り換えなんです」

「さようですか。お里帰りで?」

「そうなんです」

「わたくし、孫に会いに行くんでございますの。次男に娘が生まれまして」

「それは、おめでとうございます。初めてのお孫さんですか?」

「いいえ、ほかに三人おりますの」

「そうですか、さぞかし、可愛いでしょうねえ」

「はい、そりゃあ、もう……」

 孫の話をするとき、老婆の顔は綻んでいる。

 老婆とのやり取りのあと、健祐はまた車窓に視線を戻し、黙り込んだ。

 依然モノトーンで表現された場面が次々と車窓に展開して数分後、またアナウンスが流れた。それと同時に老婆は立ち上がり、健祐に一礼した。

「どうも、ご親切にありがとうございました」

 健祐もそれに応え、「いいえ」と言いながら首を折る。

 そのとき、何気なく見た老婆の手に目が止まる。皺くちゃだった。節々が太く盛り上がった短い指。小さいが厚みのあるふくよかな掌だ。祖母の手と同じだった。

 老婆は風呂敷包みを右手に提げ、乗降口へと向かった。

 健祐はその後姿を目で追った。しばらくして自分も立ち上がると、慌ててコートを左手につかみ、バッグを右手に提げ、老婆に追いつこうと乗降口を目指した。途中、下車する乗客の列が健祐の前後を塞いでしまって身動きが取れない。

 老婆の姿は健祐には見えないが、列の先頭でドアが開くのを待っているはずだ。

 あれは、まさしく農婦の手だ。長年、昼夜を問わず酷使してきたに違いない。健祐には分かる。同じ手に養われてきたのだ。

 健祐の脳裏に、祖母との二人だけの生活が蘇ってきた。


   *


 初めて訪れた母の古里を、ひと目で気に入った。また、生活するうちに、ひなびた里山の景色が一層好きになっていった。豊かな自然は人の心をいやす力を持っている、と思うようにもなった。

 それと比例して裏腹の感情も湧いてくる。

 ──人も回帰する動物なのか?

 いつか帰りたい。章乃が住む、あの懐かしい故郷へ。日増しに抑え難くなる感情を胸に秘め、それだけを夢見るようになっていった。それ以来、今日まで十二年の歳月が流れてしまったが。

 身寄りはこの年老いた祖母のタツひとりだけだった。

 タツは健祐を慈しみ、こよなく愛してくれた。ひとり娘の健祐の母を亡くした悲しみはいか程であったろう。健祐にも察しはついた。気丈にも、健祐の前では、涙ひとつ見せはしなかった。

 健祐もそんなタツを慕い、大切にした。

 タツは早朝から夜遅くまで働いた。他家での農作業の手伝いや、そのほかにも肉体労働などで健祐を養ってくれた。

 タツから貰った初めての小遣いは、使うことなく今でも肌身離さず大切に持ち歩いている。赤い紐が巻きつけられた、掌にすっぽりおさまる程の黒革のガマ口の中に、旧紙幣で千円札と五百円札、それに百円硬貨が五枚の合計二千円と、平仮名と片仮名の入り交じった、たどたどしい字で綴られたメモが添えられていた。

『スキナもノお、かイナさイ』

 くじけそうになったとき、今でもそれを見ながら自身を鼓舞してきたのだ。

 高校の入学式前日のことだった。健祐は隣町の市立工業高校の建築科に入学した。

 健祐が高校一年の夏休みに、建築科の主任であった担任教師の口利きで大工の棟梁を紹介してもらい、その元でアルバイトを始めた。たったひと月だけの約束だったし、取り立てて打ち明けることもないと思い、タツには内緒だった。それが知れたとき、タツは初めて健祐の前で涙を流した。

「学生の仕事は、勉強やぞ」

 タツは優しく健祐をさとした。

 少しでも家計の助けになればと思ったのだが、少年のひと月やそこらの稼ぎでは高が知れていた。タツの心を踏みにじった己の浅はかさが腹立たしかった。それ以来、健祐は卒業までの期間、一心不乱に勉学だけに励むようになった。

 しかし、こんなことがあって却ってお互いの情が堅固なものになったのかもしれないと思っている。

 高校を卒業して直ぐに働こうと思っていたが、タツは猛反対した。これ以上、タツに負担をかけたくはない。それに大学の勉強くらい独学でやる自信もあった。それでもタツは強く進学を勧めてくれた。

 そこで、夜間部のある大学を探した。丁度この家からの通学圏内にその大学はあった。正規の四年制大学で、私立だが学費も国公立大学よりも多少安かった。健祐は商学部に入学すると、高校時代に知り合った、例の大工の棟梁に頼み込み、昼間はそこで働かせてもらい、夜は学業を続けることができた。そのお陰で、四年間の実務経験も積むことができ、卒業と共に二級建築士の資格も取得し、県内の建設会社に、設計士として就職を果たした。

 就職して二年目の盆休み。帰省して二日目の早朝、タツはいつものように畑へ出かけた。数分も経たないうちに戻って来て、玄関先から満面の笑みを浮かべ、穏やかな表情を健祐に向けた。

「イイモンニ、ナレヤー」

 なぜわざわざ戻り、そんな言葉をかけたのか、そのときは気にも留めなかった。

 朝日がギラギラとタツの顔を照らしていた。朝から暑い日だった。

 その日の昼過ぎに、近所の人がタツを担いで家まで運んで来た。畑に倒れていたという。そのとき、タツの体は熱かった。

 誰かが医者を呼んでくれたらしく、直ぐに医者はやって来た。

 健祐の正面に医者は座り、タツの脈を取り続けていた。

 健祐はタツの胸辺りに視線を落とし、掛け布団が微かに上下するさまをじっと見つめた。と、突然タツの手が伸び、健祐の手に触れると、健祐はすかさずその手を両手でしっかりと包み込んだ。タツは健祐の方へ首を回し、薄らと開いた瞼から瞳に輝きを込めた。

「もうええ……」

 部屋中にこもった重苦しい空気に溶けそうな程くぐもった声で言うと、健祐に微笑んだ。微笑んだまま息を引き取った。間際、微かに唇を動かし続けたが、耳に届いたのはそこまでだった。健祐にはタツが何を言いたかったのかは承知だ。

 医者の言葉は素っ気ないものだ。あの常套句を告げられたとき、医者に対して腹が立った。

 近所の人達が入れ替わり立ち替わりやって来る。

 健祐はタツの枕元に座り続けていた。日も暮れて外はすっかり暗くなっていた。何気なく無言のタツの額を軽く撫でてやる。さっきまで、あれ程熱かったのに。

 ──この冷たさはなんだ!

 健祐は愕然とした。

 末期まつごに放ったタツの声が頭の奥深くで渦巻き、怒りを抑え切れなくなって思わず叫んでいた。通夜に来てくれた人たちはそれぞれ声をかけてくれたが、最早健祐の耳には届かない。

 健祐は、タツを荼毘だびし、ひっそりと納骨を済ませて、主がいなくなった家にひとり戻った。涙が止め処なく溢れてくる。父と母が死んだときも、これ程は泣かなかったのに。悲しみ、絶望、喪失感といった感情の波が一気に押し寄せてきたとき、全てを悟った。ひとりぼっちになった、と。もう誰もいない。想い出を語り合う肉親は、最早自分には存在しないのだ。この世にたったひとり取り残されてしまったのだ、と。この日が来るのを、よく分かっていたはずなのに、覚悟を決めていたのに、それでも涙はとどまることを知らない。こんなにも悲しいことだったのか。今更ながら驚き、それが哀れでもあり滑稽こっけいでもあった。

 健祐は後ろ髪を引かれる思いで帰路に就いた。

 自分のマンションに戻ってからも涙は止まらなかった。三日間外出もせず、タツとの想い出を噛み締めていた。タツは自分の役目をやっと終えたかのように天寿を全うした。八十四のよわいだった。

 健祐の涙が枯れたとき、タツのあの言葉が蘇ってきた。あの最期の言葉が。あのとき、タツは自分の死を悟っていたとしか思えなかった。

「イイモンニ、ナレヤー」

 『良い者』になれ。

 この言葉には深い意味が込められている。常日頃のタツの言葉を思い出した。

 『良い者』とは、偉い人間ということだ。決して、出世という意味ではない。人間として恥ずかしくない言動という意味だった。

 この遺言を、祖母が遺してくれた、かけがえのない財産を心のかてとして生きようと思った。健祐は歯を喰いしばった。ひとりぼっちになった今、これが健祐の唯一の支えになったのである。


   *


 列車は停まり、ドアが開く音がして、乗客の列がゆっくりと動き出した。

 乗降口を出ると、左右を見渡し、老婆を捜した。もう一度左を向き、改札口へ向かう後姿を見つけた途端、駆け出した。改札口をくぐる寸前で、直ぐ後ろまで追いついた。

「お婆ちゃん」

 老婆は足を止め、振り返った。健祐の顔を見ると、笑いかけてくる。優しい笑顔だと思った。

「そのう、お婆ちゃん……気をつけて!」

「まあ、なんてお優しいんでしょう。わざわざ、ありがとうございます。お宅様も、どうか、お気をつけてお帰りくださいませ」

 老婆は健祐に深々と腰を折った。丸い背が一段と丸まる。

「お婆ちゃん、時間がないので、これで失礼します。それじゃ、お元気で!」

 健祐はそう言いながらその場を去ろうとした。

「ちょっと、お待ち下さい」

 老婆は風呂敷包みの結び目を解くと、中から包装紙にくるんだ箱を健祐に差し出した。「どうぞ、お昼にお食べ下さい。オハギでございます。年寄りが作ったものですので、お口に合うかどうかは……」

「いえ、お孫さんにでしょ?」

 健祐は遠慮した。

「いいえ、たくさん作り過ぎましたもので。ご遠慮なくどうぞ、さあさあ……」

 固辞しようとする健祐に老婆はしきりに勧める。

「そう、ですか……それじゃ遠慮なく。オハギですか。私の祖母もよく作ってくれました。大好物なんです」

 包みを受け取ると、満面の笑みで感謝を伝えた。「ありがとうございます」

「それはよろしゅうございました」

 老婆は嬉しそうな表情をした。「お気をつけて」

「はい。ありがとうございます。お婆ちゃんも、いつまでもお元気で!」

 頭を下げると、老婆に手を振りながら逆方向へ走り出した。

 階段の下で振り返って見ると、老婆はまだその場にいて健祐に手を振って見送ってくれた。老婆の方へ向き直り、今一度お辞儀をして身を翻すと、急いで階段を駆け上がって反対側のホームに下り、改札口を出た。五十メートル程離れた私鉄の駅まで全力疾走する。途中、スラックスの右ポケットに手を突っ込み、五百円硬貨を探り当てながら。

 券売機の前に立ち、先に五百円硬貨一枚を投入し、札入れから千円札を素早い動作で抜き、吸い込ませてから料金表を見る。目的地までの料金を一瞬で確認し、ボタンを押す。切符を摘まみ、唇に咥えると、殆どが十円硬貨で構成されたお釣りの群れを引っつかみながら改札口へと急いだ。スラックスのポケットに釣り銭を押し込め、切符を右手に握り直す。片側だけ重みを増し、アンバランスとなったポケットの中の群れが、蹴り上げる度に、けたたましく騒ぎ立てた。ももをこする違和感を堪えながら改札口を抜け、ホームに待っていた鈍行列車に飛び込んだ。


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