◇2

 やはりこの街が一番好きだ。

 砕氷風さいひょうふう[※作者の造語です]の匂い。川面の反射。天高くどこまでも落ちて行く感覚。身を切る白の世界。季節を肌身で感じることができる。

 章乃はベッドの中で空を眺めながら胸に手をあてがって鼓動を掌で聴いてみる。

 心室中隔欠損症しんしつちゅうかくけっそんしょう。つまり心臓の左室さしつ右室うしつを隔てた壁に生まれつき穴が開いていた。先天性の心疾患でも、左程珍しくもない病気だと聞いていた。ある程度の大きさがあると二十歳前頃に手術でふさがなくてはならない。章乃の場合、父の実家がある隣県の市民病院で検査したところ、穴は塞がっていて、いつの間にか治っていると診断された。十二歳のときである。

 大喜びで帰宅したあと、健祐と公子をあの神社の境内に呼び出し、そのことを告げると、二人は章乃の手を取り、祝福してくれた。三人は肩を組み合ってその場で小躍りを始めたのだった。

 それなのに今年、この街の総合病院の定期健診で、大動脈弁から血液の逆流が認められた。

 大動脈弁閉鎖不全症、との診断が下される。これは生まれながらの心疾患からくるもので、実のところ、穴は塞がっていなかったのだ。軽度の心不全状態にあった。早めの心室中隔欠損閉鎖手術と、必要なら大動脈弁形成術も強く勧められた。放置すれば大動脈弁を換えなければならない場合もあるらしい。県内のY大学病院を紹介された。母の実家からそう遠くはない場所にその病院はある。

 この際、治療に専念するため、母とも話し合い、しばらくの間この街を離れ、秋頃Y大学病院のある街へ移り住むことにした。

 叔父は、自分の家、つまり母の実家から通えばいいと言ってくれたが、寝たきりの祖母の介護で大変な上に、章乃たちの面倒まで叔父夫婦に負担をかける訳にはいかない。どこか病院近くにアパートを借りることにした。その手配は全て叔父がやってくれた。

 章乃は夏休み前、休学届けを高校に提出し、この住み慣れた古里でいっとき静養してから向こうへ行くことに決めていた。

 もし手術が失敗したら、という不安が章乃の脳裏をよぎる。そうなれば、健祐には二度と生きては会えなくなる。懸念した章乃は、いてもたってもいられず、夏休みになるのを待って、その初日、健祐の元へと列車に飛び乗ったのだ。

 それから三ヶ月後、章乃が自宅で静養していると、微熱が続き治らない。ただの風邪だろうと気にも留めなかったが、熱は次第に高くなり、その後一週間程持続し、中々治まる気配がない。十月も下旬、総合病院を受診する。診断結果は、

“感染性心内膜炎”

 聞き慣れない病名を告げられる。

 大したことはないと高を括っていたら、この病気は一刻を争うとのこと。放置すれば必ず死に至ること。これもまた心室中隔欠損症、弁逆流がある患者がかかり易いことを知る。

 古里を離れるのはもう少しあとの予定で、繰り上がったのは残念だったが、命には代えられない。直ぐに叔父が車で迎えに来てくれて、医師の紹介状を持参し、Y大学病院へ急いだ。途中、これからしばらくの間、母と暮らすアパートへ立ち寄り、概観をひと目見てから病院へ赴いた。去り際、アパートの駐車場の隅からヤツデが大きな手を振ってサヨナラをしてくれた。ヤツデは健祐のアパートの隣室との仕切りにも植えられていた。章乃は健祐の顔を重ねながら手を振り返した。裏の神社の森から聞こえる野鳥のさえずりを耳にしながらその場を離れた。

 精密検査で原因菌を同定し、菌に応じた抗生剤が選択されたのち、治療が施される。まず内科的治療で、菌を死滅させ、手術ということになる。

 入院生活が始まり、検査の結果、幸いにも直ぐに菌は同定された。点滴による大量の抗生剤投与が開始され、二ヶ月程の入院を余儀なくされたものの、治療は無事終了し、経過も良好だった。そして年明けには手術が待っている。

 章乃の場合、心不全も思いのほか進んでいるようで、少し体を動かしただけでも息切れや咳もはなはだしく、呼吸もいささか苦しい。このままここに留まって万全を期する方がいいのは百も承知だ。それを押してまでも今年の締め括りと新年だけは古里で過ごしたい、と半ば強引に我がままを通し一時帰宅したのだ。

 ここ数日間は体調は良かったが、気圧の関係で、今日は心臓の存在感が増しているように思われる。このところ章乃の心臓は気圧の変化、殊に高気圧から低気圧へと移行する境い目に不調をきたす。今日は動悸がするし、これまでには経験しなかった不整脈も出ているらしい。章乃は窓から空を見上げた。今は日差しも届いているようだが、直に低気圧に取って代わるだろう。やはりラジオの予報は当たりそうだ。不整脈のことは、心配するので母には黙っているつもりだ。

 鼓動を確かめながら、病室から見える範囲の殺風景な景色を思い起こしてみる。どこもかしこも灰色の中で、健祐宛に二通の手紙と年賀状を一通だけ認めた。手紙のうち一通は既に母に託し、投函してもらい、今一通は手元に残し、机の引き出しにおさめてある。

 ゆっくりと上体を起こし、ひと呼吸置いてからベッドを抜け出すと、机の前に腰かけた。引き出しを開けて便箋を取り出し、母と公子宛にペンを走らせる。書き終えたのち、白封筒を二枚引き抜いて各々の宛名を記す。便箋を丁寧に折り、それぞれ封筒の中へと滑らせ、封をして引き出しに仕舞った。

 章乃はしばらく机に頬杖を突き、ぼんやりと窓外に目を向けたまま健祐を思った。


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