第二章・足 跡

◆1

 文は窓際の席で手紙に視線を落としている。日差しが文の手元を照らす。車窓からは雲ひとつない真っ青な空が見えるだけだ。

 早朝、呼鈴が鳴り、玄関のドアを開けると、いつものスーツ姿で文が立っていた。

「先輩、早く準備して」

「えっ、どこの現場だっけ……?」

 起き抜けの覚め切らぬ頭を巡らせてみる。土日、休日出勤は当たり前の業界だが、いくら考えてもはっきりとは思い出せない。クライアントとの約束はまだ先のはずだ。健祐は文に首を傾げて見せる。

「寝ぼけてないで、さっさと着替えて!」

 文のいきなりの怒号に健祐の神経は目覚めた。

 健祐が慌ててビジネススーツに身を包み、準備を終え、玄関の外で待つ文の傍へドアを開けて立ったとき、左手をつかまれた。鍵をかけ終わるのを見届けた文に、そのまま有無も言わせぬ迫力で引きずられるようにマンション前に待たせてあったタクシーに押し込められ、あれよあれよという間に新幹線に飛び乗っていたのだ。

「どこへ……」

 座席に腰かけると、直ぐに尋ねた。「行くの?」

「章乃さんの捜索に決まってるでしょ! 分かり切った質問しないで、全く……」

 一喝された。

「もしもし、フミちゃん……」

「お節介なのは分かってる。でも、見てられない。だから、なにがなんでも明日までに捜し出してみせる!」

 文は健祐とは視線を合わさず前を向いて言い放った。「ねえ、先輩、あの手紙……」

「手紙?」

「ええ、章乃さんからの最後の……まさか、今、持ってる?」

「あ、ああ……」

 唐突に健祐に向き直り、迫ってくる文にのけ反りながら頷いた。

「肌身離さず……なのね。ま、いいわ。読ませてもらっても……いい?」

 文は多少遠慮がちに訊いた。

「構わないけど……」

 健祐が背広の内ポケットに指を忍ばせ『最後の手紙』を引き抜いて渡すと、文はしばらく黙って読み続けた。その間、健祐は腕を組んで目を閉じ、文が読み終えるのを待った。

 長い時間が経ち、ふと隣を見ると、文も目を閉じていた。と、突然健祐の左肩に頭をもたれかけてきた。健祐は文の顔を覗き込み、頭部を優しく突く。

「フミちゃん……タヌキさん、タヌキさん」

 文は舌を出して肩を竦めながら目を開け、頭を健祐の肩から持ち上げた。健祐の肩に一瞬重みが増したあと、ふわりと軽くなった。

「私、タヌキには似てないわよね。タヌキ寝入りしてただけよ」

 呟きながら車窓を鏡代わりに確認し終えると、突然健祐に顔を向け、片方の口角を持ち上げて笑った。直ぐにまた手紙に視線を落とし、しきりに首を捻り出す。

「なにか気になるの?」

 そう問いかけるや、『最後の手紙』を健祐の目の前に差し出し、一文を人差し指でなぞってみせる。

「この追伸の部分、おかしいと思わない?」

「えっ、どこが?」

「先輩は、章乃さんがこの手紙書いたのは故郷の病院だと思ってるのよね?」

「ああ、間違いないと思うけど……」

「だったら、なぜ『あの街を離れなければ』って……『あの街』なの? 『この街』じゃなくて……」

「あの街……? この街……じゃなくて……」

 健祐は呟きながら少し考えてみた。言われてみれば確かに文の言う通りだ。そんなことなど今の今まで気にも留めなかった。

「故郷の病院じゃないのかも……。ねえ、先輩、なんか心当たりでもない?」

 健祐は文の方を向いた。腑に落ちない表情を浮かべる文の顔を見つめたまま頭を巡らせる。が、章乃が子供の頃、一度だけ心臓の検診を受けた病院を知っているに過ぎない。

「アヤちゃん、父方の実家近くの市民病院で、診てもらったことがあるけど……」

「そこだわ! きっと、そこに入院してたのよ」

 文は目を輝かせる。「その市民病院ってどこにあるの?」

「今、向かってる」

「あっ!  そうか、私が切符買ったんだ」

 文はそう言ったあとで笑い出すと、腕を天高く突き上げ、欠伸しながら伸びをする。「着いたら起こしてくださらない?」

 手紙を健祐に返すと、窓際の方へ身を寄せ、腕と脚を組んで目を閉じた。

 健祐も文につられ、思わず欠伸が出た。手紙をポケットに戻してから静かに目を閉じる。


   *


 新幹線がF駅に到着したときにはまだ昼前だった。

 下車した二人は改札口を抜け、駅員に市民病院の所在と所要時間を尋ね、地下街へ潜り、レストランに入った。カレーライスを注文し、手っ取り早く朝食を兼ねた昼食を済ませ、タクシー乗り場へと急いだ。

 外へ出た健祐は、振り返って駅ビルを見上げてみる。現代的な建築に変貌を遂げていた。建て替えられたばかりとあって、どこかよそよそしささえ漂っている。以前の風景を目にしていた健祐には、駅ビルはまだ周りの景色に馴染んでいないように映った。ビルの中央に、円形の時計が午後零時半を指している。

 正面のビル群は以前のままだ。

 右手には交通センタービルがそびえ、バスがビル内を出入りしている。高速バスがビルの中段から姿を現し、ビルから伸びるスロープを下り切った先で信号待ちをしたあと、右折して一直線の道路を遠ざかって行った。

 土曜日の昼下がりとあって、観光客や親子連れの姿が目立つが、スーツ姿の男女も多いのが大都市のオフィス街を物語っている。皆、二人の前を急き立てるように交差して行く。

 左右からの人の流れを掻き分けるように二人は雑踏の直中を進み、迷わず左端の十メートル程連なった列の最後尾についた。どれも長蛇の列で、ここが格段短かったからではない。意識はしなかったが、単に一歩でも先に進みたいと言う気持ちの表れなのかもしれない。

 列は規則正しい時間間隔で徐々に短くなり、二人の背後にまた長く伸びつつある。数分間待ち、文を先に乗車させ、自分も乗り込むと、健祐は直ぐさま目的地を告げた。

 タクシーは滑り出した。

 ビルの狭間を縫うように都心部を抜ける。目的地までは大した距離ではなかったが、渋滞した道路に苦慮しながらビル街から住宅街へと進み、三十分程かけてタクシーは市民病院の玄関前に乗りつけた。

 二人は玄関のパネルで病棟を確認し、裏手に建つ病棟へ向かった。

 病棟を移ってエレベーターで三階まで上がり、章乃がいたであろう病室を求め、一室ずつ確認して回ったが、手紙の文面に沿う病室はない。仕方なく、文がナースステーションで事情を簡潔に説明し、尋ねると、十年前の循環器内科、心臓血管外科病棟はここではなく、現在、整形外科がある病棟だと年配のナースが教えてくれた。名札には看護部長と記されている。先程までいた病棟だ。二人は急いで引き返した。

 再び病棟を移り、息を殺しながら同じようにまた全室調べてみると、一室だけ手紙と符号する病室を見つけた。お互い顔を見合わせ微笑み合う。

 健祐は胸を撫で下ろした。やっと見つけたのだ。章乃の所在がつかめるかもしれない。

 しばらく二人はその病室に留まり、窓から外の景色を見やった。と、文が突然首を捻り出す。

「ねえ、先輩、聞こえないわね……」

 入院患者の手前、文は小声になる。

「なにが?」

「幼い子供の声」

 文は窓の下へ視線を向け、ガラス越しに何かを探している。「どこにもない。保育園か幼稚園……もしかすると公園とか?」

「そうか……」

 健祐も外を確認してみる。と、ほぼ同時に、文は身を翻し、病室を出ようとしたのでそのあとを追う。

 廊下に出た文は病室の前で立ち止まり、首だけを左右に動かすと、右の突き当たりの病室から出て来た中年のナースの元へ歩み寄り、呼び止めた。

「ちょっとお尋ねしますけど……この病院に隣接している幼稚園か児童公園なんかはありませんか?」

 ナースは文に振り向き、首を傾げた。

「さあ、そこの大通りを右に、数分行った先には幼稚園はありますけど……」

「ここから、そこの園児の声、聞こえますか?」

「まさか。あんな遠くからは届きませんよ」

 ナースは微笑んだ。

「そうですか……」

 文は一度健祐を見てナースに向き直る。「十年前も同じですよね……」

「はい」

「ありがとうございます。お引止めしてすみませんでした」

 文は頭を下げた。

「いいえ」

 ナースは文と健祐に笑みを見せながら交互に視線を送り、顔を上げたままナースキャップを上下させると、足早に去った。

「そうなんだって……」

 文がこちらに顔を向けると、健祐は頷いた。

「この病院じゃないのかな?」

 健祐が首を傾げると、文は突然踵を返し、小走りにまたさっきの病室へ入った。健祐も早足であとを追いかけ、病室を覗くと、文は窓際に佇み外を眺める。

「窓外の自然に親しんだり……」

 健祐が横に立つや、文は囁きながら首を捻る。

「どうしたの?」

「自然と言えなくもないけど……」

「どういうこと?」

「章乃さんの言う自然って、こんな都会の申し訳なさ程度の緑地のことかしら?」

 確かに病室の窓から見える一角には樹木が茂っていた。ただ都会ならではの人工的な白々しさが感じられる雑木林もどきと言ったところだ。

「フミちゃんは、違うと思う?」

「ええ、ここは違うわ。ありえない」

 文は言い切った。「子供の声も……小鳥の声はするかもしれないけど、私には章乃さんが言う野鳥のさえずりは聞こえないわ」

 文は窓外から目を逸らし、健祐を見て大きく頷いた。

 仕方なく二人は病室を出て、来た方向とは逆に歩を進めた。ナースステーションを通り過ぎ、しばらく行って、文がついて来ていないのに気づき、健祐が振り返ると、文は足を止めた。

「どうしたの?」

 文は俯いて考え事の最中のようだ。顔を上げ、健祐を一瞥すると、ゆっくりと引き返した。健祐も文の歩く速度に合わせて追いかける。と、文は再び心臓血管外科病棟へ向かう、と言い駆け出した。

 また病棟を移ってナースステーションを覗き込んだ文は、さっきの看護部長に声をかけた。

「度々すみません、お尋ねしたいことが……」

「はい、なんでしょう?」

 看護部長は恐縮して頭を下げる文に歩み寄った。

「私ども人を捜しているんですが……こちらに入院してた、田代章乃さんという方なんですけど……所在を知りたいんですが……」

「患者さんのご家族ではありませんよね……」

 看護部長は眉をひそめながら訝しげな表情を見せた。

「は、はあ、そう……ですけど……」

「ご家族の承諾がない限り、第三者にお教えすることはできかねますが……」

「なんとかお願いできませんか? 私たち家族も同然だったんです」

「そう言われましても……」

 文は引き下がらなかったが、結局、看護部長と押し問答を繰り返すばかりだった。

「十年前に……当時十七歳だったんです」

「十年前……ですか?」

「はい」

「そんな前ですと、カルテも残っていないかと……」

「えっ! それじゃ、捜す手立てなんて、ないということですか?」

 看護部長は、肯定とも否定ともつかぬ穏やかな笑みを薄ら口元に浮かべる。

「フミちゃん、もういいよ。この病院じゃないんだよ、きっと」

「そうかもしれないけど……なにか手掛かりでもと思って」

「ありがとう。さあ、行こう」

 健祐が促しても、文は躊躇ためらいがちにその場を中々動こうとしない。

「Y大学病院なのかな?」

 健祐はふと囁くように口にし、看護部長に会釈すると、文に目配せしてその場を去ろうとした。

 文も仕方ないといった風に看護部長に一礼して、健祐のあとをついて来る。

「あのう、ちょっと……」

 突然、看護部長が呼び止めた。

「はい」

 文の声が背中に響いた。健祐はゆっくりと振り返る。

「十年前でしたら、当時Y大学病院には心臓外科の権威がいらっしゃいましたけど……」

 二人は顔を見合わせる。

「田代章乃は、子供の頃、この市民病院で一度診察してもらったことがあるんです。心室中隔欠損症で……」

 健祐はすかさず章乃の病状を詳細に説明した。

「先天性の心疾患ですね。でしたら、Y大学病院の方が間違いないかと。決してここの先生方がダメだと言っている訳ではないんですけど……」

 看護部長は笑いながら答えてくれた。

「Y大の先生は今でもおいでになるんですね?」

 文が尋ねる。

「いいえ、残念ながら既に故人におなりです」

 二人はもう一度顔を見合わせながら軽く頷いた。

「ありがとうございます」

 文が深々と頭を下げる。

 文の背後に立っていた健祐も一歩前に進み出て一礼した。


   *


 二人が市民病院をあとにし、再びF駅に着いたとき、駅ビルの時計は二時を回っていた。

 タクシーを降りると、文は駆け足で駅ビルの中へ向かった。そのあとを健祐は追いかけた。

 新幹線乗り場は裏口の方になる。

 柱の陰で時間をやり過ごす登山客の一行や百貨店の見慣れた袋を提げた母子、地べたに座り込んで通りすがる人々をねた目つきで睨みつける若者らでごった返した雑踏の直中を、二人は波乗りの要領よろしく、行き交う人の群れをかわしながら足早に突っ切った。

 百メートル程歩いて建物の裏口横に設置されたエスカレーターを駆け上がり、券売機を探した。文が見つけ、指を差す。

 健祐は二人分の切符を買い、一方を文に渡すと、文はまた駆け出した。

 改札を済ませ、健祐は電光掲示板に目をやった。ホームと発車時刻を確認し、ホームへ続くエスカレーターを駆け上がると、まだ新幹線はホームにはいなかった。ベンチに腰を押しつけ、肩で息をする。

 文も同様に息を弾ませていた。

 お互い無言のまま見つめ合うと、文の方から視線を外した。

「先輩……さっきはしくじったわね私……訊き方まずかったわ……身内の振りすればよかったのかしら?」

 文は息も絶え絶えにあえぐように言った。「必ず見つかるわ。私が見つけてあげるから」

 一度深呼吸をして息を整えると、真剣な眼差しを健祐に向ける。

 健祐も文を見つめたまましばらく身動きできなくなった。

「フミちゃん……」

 健祐が言葉をかけると、やっと文は微笑んだ。視線を自らの足元に落とし、ヒールを地面につけたまま爪先を交互にゆっくりとばたつかせ始めた。

 健祐の胸は熱くなり、文の横顔を見つめたまま心の中で両手を合わせ、何度も文に詫びた。


   *


 上りの新幹線こだまは、四十分程で隣県の玄関口S駅に着き、五分間停車したのち、それから一時間足らずで次の目的地T駅へ到着した。

 健祐は九年前にもこの駅へ降り立ったはずなのに、周りの風景には何ひとつとして記憶がない。あのときは日も暮れていたし、さっきまでいたF市の方は大都市だ。当然そちらの病院の方が腕のいい医者も揃っているとばかり思っていた。章乃が治療に専念するには打ってつけだと信じていたのだ。今考えると、少年の浅はかな思い違いであった。そういうこともあって、この街は早々に立ち去った。健祐と章乃が育った故郷の街と同県内だが、F市程はここの地理には明るくないということも手伝ったのも事実だ。

 だが、今度こそ健祐は確信を持ち始めていた。あの看護部長の言葉で、健祐の胸に光明が射した。突然暗闇から目の前が開けたのだ。健祐の胸は躍った。章乃はこの街に暮らしているのかもしれない。今でもこの街のどこかにいる可能性が高いのだと強引にでも思い込みたかった。

 外へ出ると、健祐は周辺の景色を見渡してみる。どこかノスタルジックな印象が故郷の風景と似ている気がした。駅前には数台のタクシーしか見当たらない。人通りも疎らだ。今度は待たずにタクシーに乗車できた。

「Y大学病院まで、どのくらいの時間がかかります?」

 文がミラーを介して映る乗務員に向かって尋ねる。

「そうですね、三十分程度でしょうか……」

 乗務員もミラーの中の文に愛想よく微笑んだ。

 ミラー越しの会話のあと、文は黙ったまま窓の外へ顔を向けた。

 この辺りは緑が多い。街なかを抜け、山間やまあいの車道に入った。両側から山肌が迫る。タクシーはしばらく緩やかな上り坂を走り続けた。今、後方に流れ去った標識の文字が目に入った。どうやら峠を越すらしい。

「トンネルが開通したら一直線ですから速いんですがね、まだまだ先みたいですよ」

「そうなんですか」

 文が事務的に受け答えする。

 Y大学はY市の南西に位置する。T駅を基点に考えれば直線距離にして北東に十四、五キロメートルといったところだろうか。

 タクシーは十五分程かけて峠を下り切ると右折し、私鉄の沿線道路を走り、数分も経たないうちに左前方に街並が健祐の目に飛び込んできた。新幹線を降り立った駅前とは打って変わって都会の風景だ。街はぐんぐん健祐の方へ近寄ってくる。

 タクシーのウインカーが左を指す。踏み切りを渡り、いよいよ街の中心へと進入するらしい。健祐は腕時計に視線を落とす。T駅を出発して既に三十分経過した。

 街なかに入ってもタクシーはとどこおることなく進んだ。右折して片側四車線の広い道路へ出てしばらく行くと、右手前方に周りのビルとは明らかに異彩を放つ建造物の一部が、建物群の狭間から見え隠れする。緩いカーブを右へ右へとタクシーは滑り続けると、学舎が徐々に大きく迫ってくる。確実に大学へと近づいていた。

 赤信号で停まると、学舎は正面に見える。鉄筋コンクリートの古めかしい建造物だ。青空を背景に黒っぽい鼠色の肌が浮き立つ。今日は快晴だが、雨に濡れた景色は尚更重厚感を増すに違いない。

 信号が変わった。直進して次の交差点を左折し、しばらく真っ直ぐ走り、また右折した。もう一度正面に学舎を望みながら突き当りを左へ折れ、大学の敷地沿いの細い車道を行くと、右手にグラウンドが現れた。ふとその先に視線をやると、ひと際背の高い建物が、広い空間にそびえ立っていた。その玄関横に救急車が停まっている。

 タクシーはしばらくして一旦停止し、右折した。この道路を挟んで大学病院は、大学本館と隔てられている。程なくして病院の正面玄関へ進入し、タクシーは停車した。

 病院の建物はくすんだオレンジ色のタイル張りで、本館とは対照的に比較的新しい。

 タクシーを降りた健祐と文はエントランスから受付へと進む。受付で、心臓血管外科病棟の場所を尋ね、そちらへ急いだ。エントランスの時計はあと数分で四時半を指す。

 エレベーターで三階を目指した。

 ナースステーションで章乃の行方を聞き出そうと、今度は身内の振りをして手を尽くしてみたが、結局それも徒労に終わった。十年以上前からこの病棟に勤務していた、当時を知る唯一の手掛かりである看護部長は二年前に退職し、今は県外の息子夫婦の所で暮らしており、連絡をとる術もない。それに身内の振りをしたことが却ってあだとなり、不審者として疑惑の目がつきまとう始末で、そこは文の気転で切り抜けはしたものの、ナースたちの堅い口を一層閉ざしてしまう羽目になった。仕方なく自分らの力だけで解決するより方策は尽きたらしい。

 病室は十年前から同じ場所だと事務員から聞いた。二人は三階の病室をくまなく見て回った。結局、どの病室からも章乃の手紙に沿うような景色は望めなかった。自然の風景どころか、立ち木一本すら存在しない。自然と言えば、暮れなずむ景色に薄ぼんやりと見える彼方の山だけだ。コンクリートとアスファルトのみの殺風景な眺めしかない。この世には緑なんて色は存在しないかのようだ。全くの期待外れである。

 二人はいっとき窓から静かに外を眺め続けた。文は窓枠に手を突いて俯き、視線を落とす。健祐に目配せすると、足音を忍ばせながら病室の外へと歩いた。

 健祐も文のあとに続いて廊下へ出ると、右手の突き当たりの休憩室へと文を促す。

 文は休憩室のソファに腰を下ろして、隣に座った健祐に体ごと向き直った。文の膝が健祐のももをこすった。

「おかしいわね……」

 健祐は黙って文の顔を見つめる。文はじっと健祐の目を覗き込んだまま考えを巡らせているようだ。文の目は健祐を突き抜けて遠方を見ている。

「フミちゃん、帰ろう」

 健祐がそう口にすると、文の目の焦点は健祐のそれを捉えた。気色けしきばんで一瞬健祐を睨みつけ、顔を背ける。

 文はそのまま黙りこくっていたが、突然首を傾げながら立ち上がり、左手の窓際まで歩み寄ると、窓外を見下ろした。耳に手をあてがい、外の音を聞こうとしている。チラリと健祐を見て、今度はサッシ窓を開け、同じ姿勢で聞き入った。

 健祐は文に近づき、横に並んだ。そっと右手を文の左肩に添える。文がこちらを向くと、もう一度帰宅を促すつもりだったが、こちらが口を開きかけた途端、文は自らの唇に人差し指を立て、逆に沈黙を促された。

「聞こえる……」

「えっ、なにが……?」

「先輩もよく聞いてみて」

 文の言う通りに健祐は外の音に耳を傾けてみる。どこからともなく微かに健祐の耳に忍び込んでくる。

「子供の声……」

「ええ、はっきり聞こえる。章乃さんも聞いた声……」

 十年の時を超え、章乃も聞いた声が、自分の耳にも届いたかのような不思議な錯覚に健祐は囚われてしまった。声の波は健祐の鼓膜を尚も振動させ続ける。

 左耳に手を当て、聞き入っていると、文と視線が合う。文は慌てた様子で視線を逸らし、その場を離れ、再びソファに座った。健祐も窓を閉め、文の隣に座る。

 文はソファに浅く腰かけ、腕組みしていた右手で右頬を撫でながら俯き加減で眉をひそめる。

「どうかした?」

 文は優雅な仕種でゆっくりとポーズを崩し、そのまま急に背もたれに倒れ込むと、天井を見上げたまま微動だにしなくなった。瞬きも忘れたかのように虚ろな目を天井に向けている。

 健祐は徐に立ち上がり、正面の自動販売機から熱い缶コーヒーを落として戻ると、文の目の前にかざした。

 文の目はターゲットに焦点を合わせる。缶をつかむと、健祐に微笑みかけた。倒していた上体を起こし、深く座り直してプルタブを開け、ひと口喉に流し込んだ。

「分からないわ……」

 文は首をゆっくりと横に振りながらぼそっと呟いた。

 健祐は文を見下ろしながら、口に含ませた液体を強引に喉へ押し込んで、返答する準備を終えた。

「どういうこと?」

「子供の声は聞こえた。でも、ここは……まるでコンクリートジャングルよ。窓外の自然には親しめないわね」

「そうだね……」

 健祐は幾分落ち込みながらソファに腰かけると、文の横顔に章乃の面影を重ねる。

 入院患者とその家族が入室し、二人に気づくと、軽く会釈して中央のテーブルを囲んでそれぞれ腰を下ろした。自然と話し声が聞こえてくる。手術の日時が決まり、たった今主治医から説明を受けたようだ。患者はまだ若い細身の男性だった。年の頃は二十歳前後だろうか。家族と歓談する姿は、健祐の胸に刃を突き立てた。努めて明るく振舞ってはいるようだったが、時折見せる不安げな面持ちが健祐をやるせない気分にした。若いだけに余計に痛々しく映ってしまう。

 健祐は、文に目配せしながら立ち上がって休憩室を出ると、文も直ぐに後から続いた。

「完治するといいのに……」

 健祐の背後から沈んだトーンの声が呟いた。

「あの患者さんのこと?」

 健祐は足を止め、文が追いつくのを待って並んで歩く。

「まだ、あんなに若いわ。私とそんなに違わないのにね……」

 健祐に顔を向けた文は悲しい目をした。自分の両親と重ねているのだと健祐には分かった。この旅は文にとってはやり切れないに違いない。両親を亡くして以来、文の足は病院から遠退いていた。辛い看病の日々が蘇るからだ。健祐は気づいていた。文は決して入院患者を見なかった。自分の両親くらいの年回りの患者となれば尚更だった。あからさまに顔を背けていた。

「フミちゃん、出よう」

 健祐は文に微笑んだ。

 文も健祐を見上げると、笑みを見せながら頷く。

 文が受付の女性事務員からビジネスホテルの所在と道順を訊いて、二人はそこを目指すことにした。この大学病院から徒歩で十五分程度の距離だ。

 病院の外へ出たときにはどっぷりと日は暮れていた。街並にも灯がともる。エントランスを出て、肩を並べ歩を進めると、突然文が立ち止まって、後方を歩いて来た老年の男性と寸でのところでぶつかりそうになり、詫びを入れた。男性は文に微笑みながら軽く会釈して二人の間を割って遠ざかって行った。

「ちょっと確かめて来る」

 文は健祐に踵を返し、また病院の方へと引き返した。健祐も文のあとを追う。

 病院の建物を周回しながら、子供の集まる場所を探す。終始健祐は文のあとからその背中を見つめながら従った。その場所は直ぐに見つかった。文が指し示す方へ健祐は目を向ける。病院の裏手に幼稚園とそれに隣接して児童公園もあった。さっき病棟の休憩室から耳にした声はこの児童公園から漏れてきたに相違ない。平日の昼間であれば幼稚園の方からもっと賑やかな園児の声が沸き上がることだろう。

 健祐は病院の建物を見上げ、章乃がいたかもしれない病室の方へ視線を移してみる。

「やっぱり、ここなのかしら……?」

 健祐が振り向くと、文は首を傾げる。お互いの視線が直線上に結ばれる。文は少しだけドギマギした仕種でそっと視線を外した。

「さあ、行こうか」

 健祐が促すと、文は軽く頷いてあとをついて来る。


   *


 この街は、隣県のF市程都会ではないが、モダンな建物群と、車道、歩道とも広くよく整備されていて、道幅に比して交通量が少ないように見える。健祐と文が住む市とはまるで別次元の空間のような錯覚すらする。建造物も車両も人までもがひしめき合うような街の景色ではなく、繁華街へと足を踏み入れてさえ左程圧迫感や威圧感を覚えることもないところがいい。それが肌でじかに感じたこの街の印象だ。曲がりなりにも建築士の健祐にとって、暮らしてみたいと思える環境であった。

 二人は、とぼとぼと三十分程かけて私鉄の駅前までやって来た。ビジネスホテルは駅裏の一角にひっそりと建っていた。健祐はホテルを指差して文に振り返る。

 どこからかオルゴールのメロディが流れる。駅に設置された時計が七時の時報を告げる音だろう。あたかもそれが合図のように、突然文はその場にくずおれた。しゃがみ込み、辛そうな表情を浮かべている。

「どうした!」

 健祐は思わず文の肩を抱き寄せ、顔を覗き込む。「フミちゃん!」

 文は無言で健祐の胸に顔を埋めてきたので、健祐は一層強くそのか細い肩を抱き締めてやった。

「センパイ……」

 文の声は喘ぐような弱々しさで、健祐を不安にさせる。

「大丈夫か! しっかり!」

 健祐は文を抱き締めたまま肩を揺さぶった。文は健祐の腕にしがみついてくる。

「お腹……」

「痛いの?」

「すいちゃった……」

 健祐はいっとき文の放った言葉の意味がつかめず、途方に暮れかけた。

「お腹……すいちゃった?」

 文の言葉を復唱してみる。

「うん」

 文は首をガクンと折って頷いた。と、顔を上げニタニタと笑う。

「お腹……すいた……だけ?」

「栄養が足りないわ。だって、お昼にカレーライス口にしただけよ。もう遠い昔のことじゃないの……」

 文は上目遣いに視線を健祐に投げかけてきた。瞳に妖しげな光を輝かせながら。

 文の顔が健祐の顔と接触する程の近さで迫ってくる。健祐は咄嗟に文から顔を背けると、この腕にしがみついたままの文の手を優しく解いて立ち上がった。

「呆れた子だ……」

 健祐は文を置き去りにして、さっさと歩き出す。直ぐに背後から文の足音が近づいてくる。健祐は突然立ち止まり、クルリと身を翻して文に向き直ると、左の親指を立て指し示した。

「先輩、どうしたの? 親指……ケガでもした?」

 文は健祐の親指に触れて目を凝らす。「なんともないみたいね……」

「入ろう」

 文は素直に頷くと、健祐をその場に残して自分だけそそくさと食堂の暖簾のれんをくぐった。


   *


「ねえ、先輩。もう一度、手紙見せて?」

 早朝、健祐の部屋を訪ね、ベッドの縁に腰かけた文がせがむので、ハンガーにかけておいた背広の内ポケットから手紙を出して文に渡す。

 文はざっと目を通して便箋の一点を食い入るように見つめ続ける。

「なにか……分かった?」

 健祐は腕組みをして文を見下ろす。

「そのアパートからは、大学の高い建物が見えて……」

 文は手紙の一文を口にしてみる。「大学って、Y大学かな?」

「でも、アヤちゃんの手紙の内容とは合致しないから……」

「そうね……仮にそこがY大学だとして、アパートを探してみない?」

「どうやって?」

「裏の森の方から聞こえる小鳥の声で目覚めるのね、きっと」

 手紙を健祐へ手渡しながら文は微笑む。

 手紙を受け取った健祐は、一度その箇所に目を通して便箋を封筒に入れ、背広の内ポケットに戻すと首を捻った。

「……こんな街なかに、森なんてどこにあった?」

「先輩は、森っていうと、どんなイメージ持ってる?」

「そりゃあ、樹木が茂って……」

 健祐は文の横に腰かけながら後ろ手に手を突き、天井を見上げる。「樹海みたいな……」

「鎮守の森!」

 文は早口に言った。

「ちんじゅ?」

 健祐は天井に向けた視線を、咄嗟に顔ごと文に移した。

「そう、神社につきものでしょ?」

「ああ、そうか!」

「私たちにはもう時間がないわ。Y大学にターゲットを絞って探してみましょうよ」

「神社を探せばいいってことか」

「そういうこと。大学が見える場所にある神社をね」

 文はそう言って立ち上がり、ドアノブに手をかけながら振り向いた。「早く荷物まとめなさい」


   *


 二人して荷物を手に、急いでチェックアウトすると、街へ足を踏み入れた。既に午前九時を回っていた。近くのレストランでモーニングセットを注文し、朝食を早々に済ませると、駅の方角へ歩いてみる。途中、文が書店を見つけ、入店すると、健祐は適当な地図を買い、並んでとぼとぼと歩きながら地図と睨めっこを決め込んだ。大学周辺の神社を、つまり地図上の鳥居の記号を探せばいい。

 最初二人とも単純なことと高を括っていたが、直ぐにその考えは甘かったと思い知らされた。意外と神社は多いし、学舎を望むとなると、条件は絞られてはくるが、広範囲に亘ることに変わりはない。移動するのもひと苦労だ。これでは虱潰しらみつぶしにという訳にはいかないだろう。想像を働かせながら目星をつけるしかない。

 お互い、地図を睨みながら議論を戦わせ始めた。健祐は常に携帯している三色ボールペンの青色で、Y大学を中心にして、フリーハンドで同心円を幾つか描くと、円内のそれらしき鳥居に赤丸をつけていった。かなり当て推量に近かったが、赤丸をつけた中から更に三つだけ候補を絞り込み、近い方から攻めてみることにした。

 一社目は直ぐに候補から外れた。築十年以上のビルの狭間で、周囲にそれらしきアパートなども見当たらない。二社目と三社目はどちらも条件とよく符合していた。その周囲をぐるぐる歩いてみても見当がつかない。

 三社目の周辺のアパートを求めて歩いていたら、文がいきなり「違う!」と叫んだ。文は、「引き返そう」と言い、健祐を促すと、もう一度二社目の神社へと向かった。

 文はある木造二階建てのアパートの前に佇み、辺りを見回す。袋小路に建つアパートで、こげ茶の玄関の扉が上下階三つずつ見える。

「さっきも来た所だね。このアパートが気になるの?」

 丁度アパート後方にY大学の一番高い学舎が見える。

「分からない。でも、ここからが最も大学の建物が望めるし、大学からも随分近い。それに、築二十年くらいかしら……。ほかのは比較的新しかったもの」

「そうだね、それぐらいだろうね」

 健祐もアパートを見上げて頷いた。

「あそこ見て!」

 文はアパートの駐車場の隅を指差した。

「ヤツデか……」

 ──ヤツデが手を振って見送ってくれるのよ……

 風がヤツデの葉群れを揺らす。ヤツデは掌をこちらに向け、大勢で手を振ってくれた。

「さっきは駐車中の車の陰で見落としてたわね」

 文はキョロキョロと辺りを見渡す。

「訊いてみましょうよ」

「ああ」

 文はアパートの裏側へ回り、ベランダを覗いて空き部屋を確認すると、中央から右上へ延びる鉄製の階段の下で手招きする。

 健祐は小走りにそちらへ向かった。ふと階下から上を向くと、廊下の手摺に提げられた管理会社の看板が目に留まった。

「二階は真ん中の部屋、一階は両端が空き部屋よ」

 二人は階段を上って両端の呼鈴を押してみたが、どちらも留守だった。一階へ下り、中央の部屋を訪ねてもやはり徒労に終わった。仕方なくアパートを離れ、駐車場から延びる路地へと歩を進めた。

 このアパート周辺には路地を挟んでワンルームマンションがひしめくように建ち並ぶ。学生街といった雰囲気だ。十年前のこととなると住人は誰も知るものはいまい。せいぜい四年から六年周期で住人の顔ぶれは変わってしまうだろう。

 路地を歩いて十字路を右に折れてみた。その先に切妻屋根の一軒家がある。木造二階建てで、この辺りでは最古参といった雰囲気をかもし出す。

 文は小走りに玄関に近寄って、すかさず呼鈴を押した。

 家の中から声がして、直ぐに中年の男性がドアを開け、顔を出した。ここの世帯主のようだ。

 文が章乃母娘おやこのことを尋ねると、あるじは首を捻りながら、妻ならば知るかもしれない、とほのめかした。夫人が帰宅する六時頃また訪ねるよう指示され、二人は丁寧に礼を言い、暇乞いとまごいの挨拶をしてそこをあとにした。

 とりあえず一旦駅方面へ引き返すことにした。道すがら同じように近隣の一軒家を訪ね歩いてみる。何の手掛かりも得られない。

 健祐は考えあぐねたが、アパートの管理会社へ足を向けてみることにした。

 管理会社は駅とアパートのほぼ中間辺りに位置し、四階建てのオフィスビルの一階を間借りしていた。前の不動産屋から二年前に引き継いだとのことだ。当然、十年前の住人の情報を知る者は誰もいない。

 前の管理者は夫婦とも既に故人となっており、その子供たちも十年以上前には独立し、この街を離れていたから事情など知るはずはない。またもや手掛かりは途絶えてしまった。

 管理会社を出て、駅方向へしばらく歩きながら腕時計を覗くと、既に二時半を過ぎていた。

「昼食にしよう、フミちゃん。ちょっと遅くなったけど……」

 健祐の先を歩いていた文は振り返り、立ち止まる。健祐が文に追いつくと、二人は肩を並べて繁華街へと向かった。


   *


「ねえ、先輩……」

 ラーメンを啜っていた文は箸を休める。「章乃さん、どうして黙って姿を消しちゃったのかしら? 章乃さんとなにか……」

 文は口ごもって健祐に向けていた顔をぎこちなく背けた。

「分からない……」

 健祐はぼんやりと丼の縁の模様を眺めながら麺を啜ったが、食べている感覚ではなかった。規則的に口に運び、噛み砕き、何かが口の中でうごめき、惰性で喉に落ちる。味もどこかに飛んでしまった。機械仕掛けの人形同然に、正常に体が動作するよう燃料を注入しているに過ぎない。

 章乃が自分から離れて行くはずはない、と健祐は高を括っていた。と同時に章乃からの手紙が途絶えたとき、直ぐに会いに行けばよかった、といつも後悔してやまない。

「毎年、年賀状だけは届くのよね?」

 文は箸を置いて水で喉を潤すと、テーブルに両肘を突き、手を組んでその上に顎を乗せ、健祐を見つめる。

 健祐は無言で頷いた。顔を上げ、文に視線を注ぐと、その背後の掛け時計に目が留まった。間もなく午後三時半だ。六時までまだ時間がある。

「フミちゃんは、どう思う?」

「分からないわ。だけど、先輩に居場所を秘密にしなきゃならないなんて……」

 文は視線をゆっくりとテーブルに落とした。「よっぽどのことなのね……なぜかしら?」

 自分に隠しておく何かが章乃にあったとは、到底健祐には納得いくはずもない。年を経て尚も章乃への思慕は募る一方だ。今度こそ章乃を捜し当て、この胸のもやもやを払拭せねば、と健祐は固く決意する。今、無性にこの腕で章乃を抱き締め、温もりを肌身で感じ取りたい衝動を胸におさめて、章乃の面影と重ねつつ文を見つめた。


   *


 秋の日暮れは釣瓶つるべ落としと言う。この街は、健祐が暮らす街より随分と西に位置するため、幾分日没は遅い。それでも、辺りは大分薄暗くなってきた。暮れなずむ空を見上げながら、健祐は文を引き連れて街なかを歩き続けた。

 二人はラーメン店を出て、しばらく街を散策したあと、時間をつぶすため、とりあえず駅へと足を向けた。駅のコンコースで待ち合わせ時間を決め、一旦別行動をとることにした。健祐は少しの間だけでも、ひとり心を整理したいと思ったのだ。文に提案すると、二つ返事で承諾してくれた。

 文は駅に隣接する百貨店の方へと健祐に踵を返す。

 その後姿を見えなくなるまで目で追ったあと、健祐は外へ出た。当てもなく足を運ぶ。ひとり静かに歩いていると、章乃と最後に会った日の記憶が蘇ってくる。別れ際、ホームでの章乃とのやりとりが脳裏に浮かぶ。

 母の急逝後、健祐は中学卒業と同時に、この世で唯一の身寄りとなった、母方の祖母と暮らすため、章乃と共に育った故郷の街を離れた。その母の実家に章乃は訪ねて来てくれた。高校二年の夏休み初日のことだ。

 別れ際のホームで、章乃の表情が突然曇った。列車に乗った直後、振り返ったと同時に章乃は、目に涙を溜めて激しくかぶりを振り、叫んだのだ。

 実のところ、その直前どんな言葉のやりとりがあったのか詳細は定かではないが、あのとき初めて、章乃に対する思いの丈を精一杯打ち明けたつもりだった。あるいは言葉ではなかったのかもしれない。生まれて初めて章乃と交わした口づけのあと、それはほとばしるあからさまな感情を全身で表現したに過ぎなかったのか。何れにせよ、自分の思いは十分伝わったと疑わない。

 なのになぜだろう。章乃が去ったあと、ホームにたったひとり取り残されてしまった健祐の胸によぎった感情は。寂しさというか不安というべきか。胸騒ぎ、という言葉が適当かもしれない。健祐はあのときの章乃の叫び声をもう一度聞いてみる。

「ダメ、ダメ、絶対にダメ!」

 あれはどういう意味だったのか健祐にはどうしても分からない。扉が閉まったのちも、章乃は叫ぶのをやめなかった。幾度も幾度も同じ唇の動きを繰り返していた。「健ちゃん……」と自分の名を呼びかけていたのは確かだった。が、その次の言葉が読み取れなかった。

 ──なにを伝えたかったんだい?

 健祐は天を仰いだ。西の空に日の名残はあるものの、じきに夕闇が迫りつつあった。薄暮はくぼに星々がか細い光を放っている。この場所から満天の星を望める程の闇は訪れまい。やはり街なかは明る過ぎる。

 さっき文と別れたコンコースに戻りかけたとき、駅の裏手に建つビルの一階に大型書店を見つけ、入店した。迷わず建築書コーナーを探しながら店内を散策すると、建築雑誌を捲る文の姿を認めた。

 健祐が文の横に立ち、雑誌に手を伸ばすと、文の顔がこちらに向いた。文はクスリと肩を竦めて笑う。

「考えること、同じみたいね……」

 文はまた雑誌に視線を落とし、ページを捲る。

「なにか気に入った洋服でも見つかった?」

「なーんにも……」

 文は首を振り、雑誌を閉じて棚に戻した。「そろそろ時間かしら?」

 いきなり健祐の左腕を奪い、文は腕時計を覗く。

「三枝君、いい時計してたはずじゃないのかね?」

 上司風を吹かせてみる。

「はい、母の形見の年代物でございます」

 文は調子を合わせ、左腕を持ち上げると、健祐の目の前に腕時計を高々とかざした。「いい時計でも止まることだってあるものよ」

「壊れちゃったの?」

「へへへ……ネジ巻き忘れてただけ。先輩のをもう一度確認させて、合わせとくから」

「フミちゃん……みたいな時計だね」

 健祐は自ら腕を曲げ、自分の時計を文に見せながら微笑む。

「どういう意味?」

「いっぱい食べさせなきゃ、動けないところがさ……」 

「失礼ねえ! 私、そんな大食いじゃないわ。まったく……先輩って……乙女心を知らないのね」

 文はぶつくさと小声で悪態をつきながらネジを巻き終えると、一度こちらを睨んでから健祐の背後を通り過ぎた。建築書コーナーの書棚の途切れた場所で一旦立ち止まり、手招きをする。

 健祐が文を追いかけると、文は歩を速めながら先を行った。

「フミちゃん、疲れない?」 

「早くなさい、置いてくわよ」

 文はチラリと健祐を振り返ると、真っ直ぐ前を向いて自動ドアをくぐった。

 健祐もあとに続き、表へ出ると、夕暮れの街に明々とがともり、街は夜の表情へと変貌を遂げようとしていた。

 二人、足が赴く方向は定まっている。あの一軒家を目指す。繁華街を抜け、街灯の薄明かりの路地を縫うように歩くと、二十分程で目的地に到着した。

 玄関前で立ち止まり、互いに顔を見合わせる。時計を確認すると、六時までまだ三十分近く余裕があった。

「早かったかな?」

 健祐の問いかけに、首を横に振りながら穏やかな笑みを文が投げかけてきたので、思わず健祐も微笑んだ。

 文は健祐を見つめたまま頷いて合図を送ると、呼鈴に手を伸ばす。健祐は呼吸を整え、文の動作を見守り続けた。ついに文の指はボタンを押し、しばらくしてドアの横のはめ込み窓から突然明かりが漏れ、ドアの向こうから声が聞こえた。女性の声だ。ドアがゆっくりと開く。


   *


 三十歳代半ばあたりの小麦色の肌で愛想のよい笑顔が文を見つめる。健康美溢れる活発そうな夫人だ。文より幾分背丈も高く、肉づきもよい。

「お忙しいところ申し訳ありません」

 文は深々とこうべを垂れた。「あのう、私ども、昼間もお伺い致しまして……」

「ああ、主人から聞いてますけど……どういったご用件でしょうか?」

 文は章乃母娘のことをこと細かに代弁してくれた。

 夫人はしきりに首を捻りながら、田代という苗字に記憶はない、と明言した。

「向こうの袋小路のアパートでしょ? 十年も前ですか……」

 夫人は右手で何度も頬を撫で回す。「あのアパートの方だと……リフォームしてた方なら知ってますけど……そんな親子連れの方は、やはり存知ませんわね……ごめんなさいね、お役に立てなくて」

「リフォーム……といいますと、洋服の……?」

 今まで黙っていた健祐が文の背後から尋ねると、夫人は軽く頷いた。

「一度だけ洋服を作って頂いたこともあるんですよ。とても腕のいい方でした。二年程住んでいらしたかしらねえ。ご実家の方でお母様を看取られてから引っ越されましたけど……。随分おやつれになられて、辛そうでしたわねえ」

“腕の立つ、洋服のリフォーム屋のおばさん”

 健祐が幼い頃、章乃の母、幸乃につけたあだ名である。ミシンを踏む幸乃の姿を章乃と一緒にいつも眺めたのだ。今、夫人が話したアパートの住人と幸乃が同一人物ではないか、と健祐の直感は訴えかける。期待と不安が入り交じった複雑な心持だったが、健祐の曇った気分に少し晴れ間が差し込んできた。

「どこへ行かれたか、聞いてませんか?」

 文は健祐の方を一瞬うかがうと、すかさず尋ねた。健祐の顔色を読み取ってくれたのだろう。

「さあ、いつの間にか、引っ越されましたから。実家の方で、弟さん夫婦がお母様を介護されてた、とお聞きしてます。時々、道で会って立ち話をする程度でしたから、あの方の苗字も伺ってなくて……」

「どんな人でした? 特徴なんかは……?」

 健祐の声は幾分うわずっていた。

「温かくて、とても親切ないい方。いつも笑顔を絶やさなかったわねえ……」

「ほかには? なんでもいいんです。どんな話をしたとか……」

 健祐は文の背後から尋ねた。振り返った文と一瞬目が合い、直ぐに夫人に視線を戻す。

「そう言われましても……」

 夫人は、俯き加減で眉根を寄せ、一瞬困惑の表情を見せた。「ああ、一度スープを頂いたことが……作り過ぎた、とおっしゃって……」

「どのような?」

 文がすかさず聞き返す。

「ええ、ジャガイモ、人参、玉ネギ、それと鶏の肉団子の入った……とても美味しかったもので、レシピを聞いて、私、今でもちょくちょく作ってるんですよ」

「もしかして、コンソメ味では?」

 健祐の声が微かに震える。

「はい……」

 文を見て語っていた夫人は健祐の方を向いて頷く。「娘さんの好物だとか……そうだわ! 確か、そうおっしゃってました。あの方、娘さんがいらしたのね」

 健祐の全身に力がみなぎる。奥歯が噛み合わさったまま口が開かず、上手うまく言葉が発せられない。

「その娘さんの姿は、お見かけしませんでしたか? 一緒に暮らしていたのでは……?」

 文はまたしても健祐の言葉を代弁してくれた。

「いいえ、一度も。おひとりだとばかり……」

「フミちゃん、たぶん……」

 振り向いて健祐を見つめる文に、首を縦に振って頷いた。

「今、どこにいるのかしら?」

 文はそう言いながら健祐からそっと視線を外し、俯いた。

「すみません、お役に立てなくて……」

 文の仕種が、夫人にはがっかりして肩を落としたように見えたのだろう。夫人は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、そんなことありません。十分参考になりました。ありがとうございました」

 健祐は深々と頭を下げた。その声は弾んだ。

「あのう、もうよろしいかしら? 夕食の支度が……子供が帰って来るものですから」

 夫人は微笑んで二人の顔を交互に見た。「見つかるといいですね。私もお祈りしますわね」

「すみませんでした。お忙しいところ……」

 もう一度健祐は頭を下げる。文を見ると、黙ったままじっと健祐を見上げる。

「いいえ、どういたしまして。それでは……」

 夫人はドアを閉めかける。「あっ! 確か、看板には……手書きでしたけど、板に紙を貼りつけただけの、リフォーム・ユキ……だったかしら?」

「ユキノ!」

 文の両肩に手を乗せ、その横に躍り出ると、思わず叫ぶように尋ねた。「リフォーム・ユキノ、ではないですか?」

「ユキノ……? そうですわ! リフォーム・ユキノ。間違いありません」

「幸乃おばさんだ!」

 文の方を向いて強い口調で言ったが、文の顔、表情は見えていない。それは文に対してではなく、単に確認の儀式に過ぎなかった。

 ふと夫人の方へ視線を向けると、夫人は優しく微笑んでいた。

「捜してらっしゃる方なのね? よかったわ。あの方にお会いできたら、こちらにもお寄りください、と……」

「はい、伝えておきます。本当にありがとうございました」

 健祐は何度も頭を下げて礼を言った。

「それでは、ごめんくださいませ」

 ドアが閉まりかけると、文も慌てて健祐の隣で黙ったまま頭を下げる。

 健祐は文を促し、玄関前を離れようとした。文はその場に立ち尽くしたままドアを見つめ、動こうとしない。もう一度声をかけると、ようやくついて来た。

 繁華街へと歩を進める。健祐の足取りは軽い。文は健祐の後ろから重そうに足を運んでいた。

「フミちゃん、どうしたの?」

 健祐は立ち止まって、文が追いつくのを待ち、顔を覗き込む。「ありがとう。やっぱり、アヤちゃん、この街で暮らしてたんだ。フミちゃんのお陰で、やっと十年前のアヤちゃんの足取りをつかむことができたよ。嬉しいよ」

「なんですって! 本気なの!」

 文は不機嫌な声で健祐を一喝する。

「フミちゃん……」

「振り出しに戻っただけじゃない。相変わらず章乃さんは行方不明なのよ。なんの手掛かりもない。収穫はゼロでしょうに!」

 文は健祐を睨みつけると、悪態をつきながら、づかづかと大股で歩き出した。見る見るうちに文との距離は開いて行った。健祐は黙って小走りに文のあとを追いかけた。


   *


 駅近くの大通りでタクシーを拾い、また約四十分の道のりを新幹線のT駅までやって来ると、直ぐに切符を買い、上りのこだまに飛び乗った。

「章乃さん、あのアパートには一日も暮らさなかったのね……」

 シートに深く身を埋め、遠く前方を見ながら文が呟く。

「ああ、あの家の奥さんも言ってたし……幸乃おばさん、ひとりで住んでたんだね」

 隣に腰かけた健祐が答える。

「そうじゃないの。あの奥さんの言葉じゃなくて、章乃さんの手紙なのよ」

「どういうこと?」

「裏の森の方から聞こえる小鳥の声で目覚めるのね、きっと」

 文は右肘を窓枠に乗せ、頬杖を突きながら車窓の方を見る。外の闇に車内の風景が浮かび上がる。窓に映る文の視線と健祐のそれがぶつかって、文は二、三度だけ瞬きを繰り返し、健祐から視線を逸らした。

「気になるの?」

「きっと……」

 文は健祐に顔を向けた。

「きっと?」

「確かに章乃さん、あのアパートを訪ねたことはあるわよね。でも、お母さんとは暮らさなかった」

 文は突然体ごと健祐に向き直った。「いい? もし、あのアパートで暮らしたなら、きっと小鳥の声で目覚める。でも暮らしたことがない。だから、きっと……なのよ」

「そうか……」

「章乃さん、退院して、どこで暮らしてたんだろう? あの手紙書いたの、病室でしょ? 少なくとも退院するまではお母さんと一緒に暮らせない。私が腑に落ちないのは、その後なのよ。でも、その後もあのアパートには……先輩は心当たりないの?」

「そうだな、僕はてっきりアヤちゃんのお父さんの故郷だとばかり……あの街の市民病院で検診を受けたし、そのあと、帰って来てからあの街に住んでみたいって……」

 健祐は腕組みをして足元に視線を落とす。「アヤちゃんの体を考慮すれば、当然そこが一番だと思ってたんだ。大都市だから、名医だっているだろうし、ってね。それに、幸乃おばさんの実家の話はあまりしなくて、お父さんのことばかり話していたんだ」

「そう。章乃さん、お父さんを覚えていなかったわね。随分と憧れが強かった……のね」

「そうだね……確かにそうだった」

「ねえ、どういう女の子だったの?」

「屋台で話した通り……あの家の奥さんが言ってただろう? 幸乃おばさんのこと。温かくて、とても親切、笑顔を絶やさないって。同じさ。誰にでも優しかった。とりたてて美人という訳じゃなかったけど……」

「そう……会ってみたい、私も……」

 文はまた車窓に顔を向けたが、直ぐに振り返った。「ねえ、今度の土曜日よね? 同窓会」

「そうだけど……」

「行くわよね?」

「まだ決めてない」

「出席しなさいってば。私、見てられないもの」

「どういう……」

「宙ぶらりんじゃない、先輩。章乃さんとの恋を成就させなきゃ」

 文は健祐の次の一手を阻止するように捲くし立てた。

「で、でも故郷にはもう……」

「分かんないでしょ。なにか手掛かり、見つかるかもよ」

「ああ……」

「こっちの身にもなってよね」

 文は囁いた。

「えっ、なに……? どういう……?」

 健祐は目をしばたたいて文を見る。

「なんでもない」

 文はいきなり伸びをした。「あーあ、疲れちゃった。せっかくの休日……返上だなんて。来週こそ、思いっ切り羽伸ばそうっと。先輩のおもり役なんてやってられないわ。金輪際お断りよ、全く……」

 健祐が文の顔をそっと覗くと、キッと睨み返された。視線が重なる。と、急にそっぽを向き腕組みをした文は、シートに深く背を埋めて目を瞑った。

 健祐はしばらく文の様子をうかがってから、同じように腕組みをして一度大きく深呼吸をすると、自らも静かに目を閉じた。


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