◆3

 目を開けると、無数の光の束がぼんやりと視界を塞ぐ。車のヘッドライトのようにも見えるが、どうやら違うらしい。次第に光源はひとつになり、一層輝きを増した。眩しさに思わず目を細めた。とても直視できる明るさではない。だが、不快ではなかった。光を浴びていると、全身に温もりを感じ、えも言われぬ安らぎを覚える。最早苦痛はなくなった。不思議なことに、意識は遠退いてゆくのに、全ての感覚は鋭敏に研ぎ澄まされてくる。

 もっと光に近づきたい。そう願った瞬間、まるで重力に逆らうかのように、体がふわりと浮いたかと思うと、真っ暗なトンネルの中を眩い光源の彼方へと吸い寄せられてゆく。手をかざし、目を閉じてなされるがままに身をゆだねた。

 そよそよと心地良い風が頬を掠めて吹いた。風に乗ってどこからか甘いが漂ってくる。鼻腔びこうではなく心の奥底で感じ取ったのだ。

 そっと目を開けてみる。辺り一面、色とりどりの花が咲き誇る草原の直中にたったひとり立っていた。あまりの心地良さに寝そべると、身も心も癒されてゆくのが分かる。目を閉じて思い切り全身で光と匂いを吸い込んだ。何の思考も感情も、記憶すらない空っぽの状態だった。

 時が経つのも忘れ、甘美な世界に浸り切ったあと、目を開け、何気なく空を見ていたら、誰かの気配に素早く上体を起こした。

 今、健祐けんすけの胸が騒いだ。

 気配のした方へ視線を向けると、直ぐ傍に章乃あやのが立っていた。こちらに微笑みかけている。健祐は立ち上がり、章乃と向かい合った。

「アヤちゃん、やっと会えたね」

 章乃はひとことも発しなかったが、その心の内は手に取るように分かった。章乃も自分と同じ気持ちだと。

 章乃に近づこうと歩み寄る。傍まで来て手を差し伸べようとすると、章乃はなぜか自分から離れていた。確かにこの手でつかまえた気がしたのだが、何度追いかけ、触れようと試みても結果は同じだった。

 健祐の心に不安がよぎる。

 もう一度思い切り手を伸ばす。寸でのところで章乃は遠ざかり、どうしても手は届かない。

「アヤちゃん、なぜだ!」

 章乃は首を横に振る。微笑んでいるが、その目の色はとても悲しげで、健祐を一層不安に駆り立てるのだった。何かを訴えかけているが、健祐には章乃の声がどうしても聞こえない。必死に章乃の唇を読み取ろうとしても、何を告げたいのか全く分からない。

 健祐は駆け出した。章乃を抱き締めたくて。また、章乃は遠ざかり、ついに健祐は章乃を見失った。辺りを見渡し、捜し続ける。そのとき、どこからか章乃の声が呼びかけた。

「健ちゃん……」

 章乃は何かを告げた。声は鮮明に健祐の心を揺さぶるのに、どうしても言葉の語尾が聞き取れないのだ。気づけば、己が両の掌はどういう訳か両耳をしっかりと塞いでいた。健祐は呆然と掌を見つめたあと、仕方なく目を閉じ、章乃の心を感じ取ろうと躍起になった。章乃が健祐の心にしきりに呼びかけてくる。その度に不安に駆られ、その声を拒絶してしまう。声を聞いてしまったら章乃を失うような気がするから。

 章乃は尚も健祐の心に呼びかけてきた。

「残酷過ぎる!」

 健祐は叫んだ。絶望することが怖くて章乃の呼びかけをまた拒絶した。耳を塞ぎ、叫びながら目を見開いたとき、突然辺りは暗がりになり、急に体は重くなった。あの心地良い光は消え、闇だけが広がる。

 落ちて行く。健祐は奈落の底へ引きずり込まれるように、下へ下へと加速して行った。

 さっきまで身も心も解放されたはずなのに、再び何かに縛りつけられたかのように自由を奪われ、今は手足を動かすことすらままならない。やっとの思いで片手を持ち上げてみると、誰かに手を握られた。柔らかな感触に健祐も握り返す。

 そっと目を開けた。いっときして焦点が定まると、白い部屋に自らは寝ていた。

 誰かの息遣いが微かに聞こえる。そちらに首を回し、薄明かりの中、ぼんやりと浮かぶシルエットを見つめた。章乃に違いないと思い、呼びかけようとしても声が出ない。と、シルエットはゆっくり近づき、こちらを覗き込んだ。頬に涙が光った。章乃ではなかった。

「先輩、分かる? 私よ……」

 健祐は微笑みながらふみに頷いた。

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