第30話 姉たるもの

 ★ ★ ★ ★ ★ 


「はぁ……はぁ……はぁ、はぁ……」


 寝静まった流斗の部屋で、流斗ではない女が熱っぽい吐息を漏らす。


「……流斗ぉ♪」


 愛しい自分の弟――『神崎』流斗の名を、遥は甘く囁く。

 寝ている彼に聞こえないように。

 その名を自分の中で溶かすように。


 安らかに眠る流斗の寝顔を眺める遥の目は潤んでいた。

 遥は三日に一度、こうして流斗の部屋に忍びこんでいる。気配を察知する能力に長けた元暗殺者である流斗から、遥はそれを完全に遮断することによって成し遂げていた。


「私……今日、凄く嬉しかったのよぉ」


 流斗の言葉を、遥は頭の中で反芻する。


『俺はどんなときでも姉さんの味方だからね』

『俺は姉さんを愛しているから』

『姉さんの側にいられるならそれでいいんだ』


 思い出しただけで、体の芯までとろけそうになった。下腹部が熱く濡れる。

 自分が愛されているという実感が湧く。下着が湿り気を帯びてきた。


「本当は……もっと流斗のことを自慢したいの。学校でも、この子が私の弟だって紹介したい。流斗が素直で頑張り屋さんの優しい子だって言いたい……」


 でも、それはできないことだ。


 遥と流斗は戸籍上、姉弟でもなければ家族でもない。それどころか『日向流斗』は資料上死んだことになっている。だから、流斗はクラスメイトに遥の親戚と名乗った。遥が誰かに流斗のことを自分の弟だと紹介できる日は、一生来ないのかもしれない。


(だが、それがいい。それでいいのよ)


 遥の心の闇が蠢き、約束の赤い糸が黒く染まる。


「流斗の良いところを知っているのは、私だけ。同じ家に住んで、同じ時間を過ごしている私が一番流斗のことを知ってるし、私だけがその気持ちを、想いを、考えを理解している。私以外に流斗の良さに気付く人間なんていない。いなくていい。いらない。それでいいの。弟のすべては、姉である私だけのもの。他のゴミには渡さなぁい」


 歪な独占欲が暗い渦を巻き、光彩を失った瞳が流斗を見つめる。


「いいのよ……。流斗が、私以外の誰にも愛されなかったとしても。全部私が与えてあげる。あなたが得ることのなかった愛情を、私がたっぷり注いであげるから。だから、もっと私に頼って。私のことを求めて。私を必要として。私を見て。私のことだけ考えて。私たちは二人で一つ。あなたには私が、私にはあなたが必要なの……」


 暗がりの中、遥の声が小さく響く。

 それでも流斗が起きる気配はない。なぜなら、


「薬が、よく効いているようね……」


 流斗が口にした夕食には、遥の仕込んだ特製の睡眠薬が含まれていた。


(気づかれるかもしれないと思ったけど、さすがに香織さんが作った料理に何か入っているとは疑わなかったみたいね……)


 暗殺者として薬物に耐性がついている流斗には、常人と比べて薬の効果が出るのはかなり遅かった。今の流斗は、遥が多少声を漏らしたところで起きること様子はなく、ぐっすりと眠っている。


 遥も流斗の部屋に侵入するために、いつも食事に睡眠薬を盛っているわけではない。

 誓って今日が初めてだ。たまたま、とある事情で睡眠薬が手に入ったところ、流斗が明日大事な決闘があるというので、緊張して眠れないことがないよう使ってみたまで。

 そして、どうせ何をしても起きないのなら……と少し魔が差しただけなのだ。


「私……あなたのためなら、なんでもできるのよ」


 熱く火照った体の疼きを抑えきれず、遥は己の体を流斗へと近づける。


「そんな可愛い顔をしている、あなたが悪いのだから……」


 遥の顔は熱に浮かされたように紅潮していた。流斗の仄かな匂いが鼻腔を満たす。

 彼は信用しきった無防備な寝顔を晒している。いつもは少し大人びた雰囲気を醸し出している流斗だが、寝ているその姿に、遥は年相応の子供らしさを抱いた。


(私が流斗を大切に思っているように、流斗も私を大切に思ってくれているのは知っている……でも――)


「愛が……足りない。もっと、もっと私を愛してぇ。私はあなたがいてくれれば、他に何もいらないの。だから……あなたは、私だけのものなのよ。私だけを見て、その目に私だけを映して。私はいつもあなたを見ているわ。だから、私に隠し事をしたり、嘘をついたりしたら駄目よ。どうせ、無駄なんだから。……この愛が憎しみに変わる前に『本当の私』を見つけてね……」


 遥の愛の言葉が、眠っている流斗の体に染み込んでいく。


「ねぇ、もっとその顔を見せて」


 小さな寝息を立てる流斗の上に、遥が覆い被さる。


「私のことが好きなんでしょ? なら、ずっと私の隣で微笑んで。空っぽな私を満たしてちょうだい。骨が軋むぐらい強く私を抱きしめて。重すぎる愛で私を押し潰して。じゃないと私……いつまでも、欠けてしまった隙間が埋まらないの」


 瞳孔が開き、目から完全に光の消えた遥が、流斗の手を見つめる。


「本当に寝ているのかしら? 私の鼓動を聞かせて確かめてみましょう」


 遥が眠っている流斗の手を、自分の豊満な胸元へ導き、自身の豊満な胸を触らせる。


「異性に触られるのって、とっても気持ち良いのね。それが好きな人だとまた格別だわ。妄想しながら自分でするより、百倍気持ち良い……」


 遥が流斗の頬に手を添える。

 そして微かに震える流斗の唇に口を近づけたとき、


「……うっ……んんっ」


 寝ている流斗が僅かな呻き声を漏らした。


「…………ん、危ない。もう少しで、抑えきれなくなるところだったわ」


 遥は流斗が起きないよう、足音を立てず静かにベッドを離れる。

 しかし、一度スイッチの入った遥の熱はすぐには冷めない。


(ん~、興奮して眠れなくなっちゃった。どうしようかしら? ……あ、そうだ。少し早いけど、明日の試合で使えるように『あれ』を完成させておこうかな)


 物音一つ立てず、遥は流斗の部屋を名残惜しい想いで後にする。


「ふふふふふ」


 思わず遥は笑った。まるで無限の時を生きた魔女のように。新しいおもちゃを与えられた童女のように。流斗が神崎家に来てから、毎日楽しいことだらけだ。


「ああ、楽しいわねぇ。生きる目的があるっていうのは。ふふっ」


 形容しようがない貌をした女が、足取り軽く跳ねてゆく。


「あれを渡したら、流斗は喜んでくれるかしら?」


 その瞬間を想像しただけで、遥のモチベーションは無限に湧いてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る