第496話 2021/2/21 赤頭巾とか

 本日は7時起き。何か甘酸っぱい夢を見た。詳しい内容は覚えていないのだが、目の前に女の子の肩があって、それを抱こうか抱くまいかで葛藤していたのは記憶にある。もちろん実体験ではない。実体験であればどんなに嬉しい事か。何だろうな、このありもしない青春時代を懐かしむかのような夢は。もしかして寂しいのか? と思ったり。

 それはさておき、確定申告が終わった。去年は計算するほどの収入がなかったからな、あっという間に終了した。はあ、税金払いてー。「日本は税金が高すぎて嫌になっちゃうよなあ」とか一回でいいから言ってみてー。何か泣きそうになるわ。


『赤頭巾ちゃんご用心』は日本のロックバンド『レイジー』の1978年のヒット曲である。レイジーと言っても若い人は全然知らんだろうが、当時はもう女の子がキャーキャーワーワー大騒ぎだったグループだ。ちなみにこのメンバーのギターとドラムが後にヘヴィメタルバンド『LOUDNESS』を結成する。またボーカルは現在の影山ヒロノブ氏だ。

 当時のメンバーからは蛇蝎の如く嫌われているこの曲であるが、まあ本格的にロックをやりたかった人間にアイドルポップスをやれと言ったのだから仕方ない側面もあるだろう。歌の内容としては、好きな女の子を赤頭巾に例え、他の男を狼に例える、言っちゃ悪いがありきたりな歌である。1年ちょっと前の1976年にピンク・レディーの『S・O・S』が大ヒットしているが、まったくの偶然という事は考えにくい。レコード会社的には多少二匹目のドジョウを意識していたのではないか。

 S・O・Sはさほどでもないものの、赤頭巾ちゃんご用心は言うまでもなく、リスナーが童話『赤頭巾』を知っている事を前提としている。知らなければ歌詞の意味がイマイチ理解できないだろう。

 赤頭巾は日本ではおそらくグリム童話として知られている場合が多いと思われるのだが、そもそもはヨーロッパ各地に伝わる古い昔話で、作品として出版されたのはフランスの作家シャルル・ペローの『ペロー童話集』に収録された物が最初ではないかという説がある。

 ペローは元々赤頭巾の物語にあった残酷な部分や下品な部分を削除して収録しており、グリム童話は基本的にその改編後の物語を踏襲しながら、ハッピーエンドになるラストを付け加えている。赤頭巾ちゃんご用心でテーマとされている赤頭巾の物語も、おそらくはグリム版であろう。なおペロー以前の古い赤頭巾の物語をテーマとした作品としては、日本のアニメ映画『人狼 JIN-ROH』(2000年)がある。

 古い赤頭巾、ペローの赤頭巾、グリムの赤頭巾に共通しているのは、赤頭巾が女の子である事、お婆さんの家に行く事、途中で狼に出会い道草を食ってしまう事、そしてお婆さんに化けた狼と赤頭巾の会話のシーンなど。

 ハッピーエンドにつながるグリム版ならともかく、それ以外のバージョンでは何故狼がお婆さんに化けるのかがいまひとつハッキリしない。普通に考えれば赤頭巾を先に食って、後からお婆さんを食えば済む話である。古い赤頭巾では狼が赤頭巾にお婆さんの肉を食わせたり血を飲ませたりと、日本の民話『カチカチ山』を思わせるシーンもあるが、目的は明確ではない。まあ当時の物語における狼の存在は、すなわち恐怖や異常性のメタファーであったのかも知れないが。

「どうしてお婆さんの耳はそんなに大きいの」

「おまえの声をよく聞くためさ」

「どうしてお婆さんの目はそんなに大きいの」

「おまえの姿をよく見るためさ」

「どうしてお婆さんの口はそんなに大きいの」

「おまえを食べるためさ!」

 という会話が交わされる訳だが、耳も目も口も大きいのが明らかであるなら、それはもうどう見てもお婆さんではないのではないか、何故気付かないのか、などと突っ込んではいけない。この辺は口承文学特有の恐怖を増すための演出である。漫画やアニメと違って視覚情報に頼れない口承文学は、同じ言葉やシチュエーションを繰り返す事で臨場感や緊迫感を出すのだ。

 逆にこのシーンを漫画やアニメで再現しようとすると、ギャグにでもしない限り説得力を失う。とてもじゃないが恐怖を導き出す事は難しいだろう。豊かな視覚情報が邪魔になってしまうのだ。落語の『時蕎麦』にある「いま何時なんどきだい」のシーンを映像化すると間抜けに見えるのも同様だ。銭の個数なんぞ見たらわかるだろう、となって素直に笑えない。

 映像作品は目に見える世界を描くのに向いている。口承文学は見えない世界を描くのに向いている。そして小説はその間にある文学なのだ。

 さてアメリカのフロリダ州では、新型コロナウイルスに対するワクチン接種が行われている。と言っても誰でも彼でもワクチンが打てる訳ではない。順番だ。

 いまは医療関係者と介護施設の入所者、そして65歳以上の高齢者が対象となっているのだが、17日にトラブルが発生した。帽子や手袋、メガネなどで高齢者に変装した34歳と44歳の女2人が、ワクチン接種を受けようとしたのだ。しかも2回目。1回目は変装でごまかし通せたのだろう。

 2人は保安官事務所から警告を受けて謝罪したそうだが、何ともイロイロとアレである。まあ結果として人食い狼ではなかったのだから良しとすべきか。時代と場所が別なら、腹を裂かれて石を詰められても文句が言えないところだったのだが。


 新型コロナのワクチンと言えば、バチカンでは基本ワクチン接種は義務なのだそうな。職員が接種を拒めば解雇、または異動の憂き目に遭う。それだけシビアに捉えているという事なのだろうけど、少々なますを吹きすぎかも知れない。この期に及んで「ただの風邪」扱いするのもどうかとは思うが、もう少し余裕を持っても良いような。

 まあ、どこぞの国みたいに「神に祈れば大丈夫」とか言い出さない点は評価されるべきだろう。


 ワクチン絡みでもう1つ。アルゼンチンの保健相が19日に辞任した。議員やその家族、知人のジャーナリストなどが、保健相のコネで優先的にワクチン――ロシアのスプートニクVだそうだ――を接種できたと報じられ、大統領が辞任を求めたもの。まあどこの国にも上級国民様はいらっしゃるものである。


 1942年2月19日は、アメリカで当時のルーズベルト大統領が大統領令に署名し、日系人の強制収容が始まった日である。約12万人の日系アメリカ人が数年間に渡り敵性外国人として収容され、1988年のレーガン大統領の謝罪まで名誉は回復されなかった。

 19日、バイデン大統領はこの日系人の強制収容を改めて「恥ずべき歴史」として謝罪の声明を発表した。虫けらはアメリカ社会における日系人の苦労などまったく知らないので、これを評価する基準を持たない。ただ客観的に見て、「何故謝罪できたのか」を考えると、理由は3つ挙げられる。

 1つ目は、彼自身と彼の支持者が、この謝罪を正しい行為だと認識している事。

 2つ目は、前政権とは違うのだという事実をアピールするため。トランプ氏は日系人に謝罪をしなかった。良し悪しではなく、事実としてそうである。

 3つ目は、謝罪をしても日系人が「謝罪するなら金を寄越せ」などと騒ぎ出したりしないという事。謝罪と賠償はすでに終わっている。日系アメリカ人は日本人ではなくアメリカ人として生活している。

 この3つの要素が揃わなかったら、いかにバイデン氏でもなかなか簡単には謝罪できなかったろう。世界最強の超大国にはメンツもある。プライドもある。頭を下げるのは生半可な事ではないはずだ。それをなし得たのは、一重に戦中戦後の日系アメリカ人の苦労と努力の賜である。日本人が良いの悪いの論評するような事ではない。


 本日はこんなところで。しかし暖かい。暑いくらいだ。このまま春になだれ込んでくれと思うのだが、そうは行かんのだろうな。

 昨日は調子が悪くてほとんど書けていない。どうしたもんかねえ。「そういうときには他人の作品を読んでみては」という声が聞こえてきそうだが、本当に調子が悪いときは文字を見るのも音楽を聴くのも無理なのだ。まあ、しゃーない。何とか頑張ってみるさ。

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