第436話 2020/12/23 正義

 本日は3時起き……と思っていつものように小説を書き始めて、気が付いたら眠っていた。起きたら11時。うがー。まあ今日は何も予定などないから構わないのだけど。

 それにしてもネタがない。何も見つからなかった。仕方ないので本日は単発の大ネタ。始まり始まり。


『機動戦士ガンダム』という作品の功罪はイロイロ言われるが、「正義」を冷笑的に描いた事がその一つとして挙げられるのではないか。まあ『無敵超人ザンボット3』の頃からその傾向はあったし、もっと古いところで『海のトリトン』のラストシーンを思い起こす人もいるかも知れないが、何にせよあの監督さんはそういう表現をする人なのだ。

 だから本人としては、たぶんいつも通りの自分らしい作品作りをしただけの事なのだろう。ところがガンダムは社会現象になってしまった。おかげでこれ以降、正義を冷笑的に見つめる事は表現の世界でスタンダードになる。アニメであれ漫画であれ、「これが正義だ!」と正義を真正面から描くのは「小っ恥ずかしい事」になり、ギャグやコメディ要素としてネタ扱いされるようになった。

 その結果、いまの表現の受け手である読者・視聴者は正義に慣れていない。もちろんいまでも「正義のヒーロー」は存在する。戦隊ヒーローやウルトラマンなど。仮面ライダーはちょっと違う方向に行ってしまったが、とにかくヒーローがいるのだから正義に慣れていない事はないだろうという主張があるのは理解できる。ただし彼らヒーローの行為が本当に正義なのかどうか、いささか疑問がある。

 そもそも正義って何だ。善い行い。悪に立ち向かう事。そんな答が返ってくるはずだ。確かに悪に立ち向かうのは正義である。ただし、善い行いは正義ではない。善い行いはあくまで「善行」であって正義とは別である。と言うと、「んんん?」となる人もいるかも知れない。

 ゾロアスター教やキリスト教などでは神と悪魔は対立するものだ。よって善と悪も対立していると考える人は多いだろう。だが現実にはそうではない。善と悪とは光と影の関係である。光が影を生むように、善あるところには必ず悪が生まれ、悪の周囲には必ず善が存在する。つまり並立・並存する関係だ。コインの表と裏と言ってもいい。どちらか一方では成立しないのだ。

 一方正義は悪と対立する関係である。正義と悪とは互いを受け入れられない。互いに相手を滅ぼし、根絶しようとする。『鋼鉄ジーグ』の主題歌の歌詞に、「いまにみていろハニワ原人全滅だ」というフレーズがあるが、いまの受け手はこれを聞いて笑う。「正義の味方が全滅とか言っていいのかよ」と。これが正義を理解していない一つの証拠と言える。言っていいのだ。何故なら正義とは本来そういうものなのだから。

 現実世界で例を挙げるなら、アメリカ軍が典型ではないか。彼らは常に「アメリカの正義」を遂行するために行動する。イラクやアフガニスタンにミサイルをぶち込んだのも、すべて正義のためだ。だがそこに善意はない。善意などなくても正義は成立するのである。その事をアメリカ人はおそらく皮膚感覚で理解しているだろうが、現代の日本人は理解できていないのではないか。

 もちろんその責をガンダムだけに負わせるのはフェアではない。『新世紀エヴァンゲリオン』を始めとする後に続いた表現作品にも責任はあるし、学校教育などにも問題はあったのやも知れない。正義とは何ぞやという哲学的な教育をしろとまでは言わないが、正義を扱う作品に触れさせる程度の事はすべきだったのではないか。まあガンダム以降、正義を正面から扱う作品を書けなかった表現者たちが情けなかったと言えなくもないのだが。

 では実際のところ、正味の話、具体的に正義とは何だと言われると、言葉で説明するのは非常に難しいし厄介である。でもそこを何とか言語化してみると、虫けらはこう考える。正義とは「悪に対峙する狂気」であると。

『UFOロボグレンダイザー』のエンディング主題歌に、こんなフレーズがある。「地球の緑の若葉のために ただ一輪の花のために デューク・フリードは命を賭ける」。冷静になって考えてみなくてもわかると思うが、一輪の花のために命を賭けるなどマトモとは言えない。だが正義とはこういうものである。言うなれば「狂気の有効活用」、自らの狂気を世のため人のために利用するのが正義とも言える。ぶっちゃけ理由などどうでもいいのだ。目的は悪を攻撃して壊滅させる事なのだから。

 ネットの炎上みたいだな、と思った人もいるかも知れない。たしかに誰かが弱点をさらけ出すと叩いて叩いて叩きつぶそうとする人々は正義の立場に立っているかのように見えなくもない。だが彼らに正義はない。何故なら狂気がないからだ。同じように叩いていた誰かが警察に捕まると、途端におとなしくなってしまう。自分こそが正義であるという信念がない。彼らの言う「叩かれる方が悪い」はただの言い訳である。

 もちろんだからといって、何度警察に捕まっても攻撃をやめない頭のイカレたストーカーが正義である訳はない。ただの狂人がイコール正義ではないのだ。だがそこに至る寸前の、自らの破滅と引き換えに悪を葬り去らんとする姿勢は、正義に求められるものだろう。自分の身の安全を第一に考える正義はない。人権意識の高い現代社会においては、正義になるのはかなり困難と言えよう。

 現代の戦隊ヒーローやウルトラマンは、敵に対峙はするものの、苦悩したり後悔したり罪悪感を抱いたりする。それは果たして正義だろうか。ただの善意の人なのではないか。非難している訳ではない。正義が正しく善意が間違っているなど、それこそ狂人の発想である。さすがにそんな事は言わない。ただ創っている側が、明確な正義のイメージを持たないままに作品を世に送り出してはいないかが気に掛かるのだ。

 いわゆる「トロッコ問題」という思考実験をご存じだろうか。レールを走るトロッコの前方で、レールが二股に分かれている。一方には一人が横たわり、もう一方には四人が横たわっている。レールの切り替えスイッチを握るあなたはどうするか、という問題である。この問題に対する正解はない。ただしそれは「人は善意に基づいて思考する」という前提の話である。

 善意に基づいて考えれば、一人の命も四人の命も、かけがえのない大事な命である事に変わりない。最初から選択などできないのだ。だから困る。しかし正義に基づいて考えれば、さほど困る問題ではない。

 解答が二者択一で求められるなら、一人の方にトロッコを向かわせるのが正解である。無論それで人が一人死ねば、社会からは非難され、遺族からは憎まれる。だがそれを甘受し、一生をかけて償い続ける、までが正しい解答と言える。もし二択以外の解答が許されるのなら、自らがトロッコの前に飛びだし、可能なら脱線を目論むのが正解だろう。その結果自分は死ぬが、正義の観点においてそれが問題にならないのはすでに書いた通り。正義とはそういうものである。

 ガンダム以前の世界を覚えている人は、こういう事を説明されなくても皮膚感覚として理解していたと思うのだが、生まれたときからガンダムもエヴァンゲリオンもある現代人にはなかなか難しいかも知れない。しかしだからこそ、いま改めて正義を描くのは意味があるのではないか。てな事を昨日の昼間ずっと考えていた。そんな訳で、新作小説は正義がテーマである。それを言いたいがため、それだけのためにこの長文を書いた次第。はあ、疲れた。


 本日はこんなところで。昨日は3000文字弱書けた。もうちょっと頑張りたいところなのだが、まあ仕方ない。何とか今日も頑張ろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る