第157話 2020/3/19 差別とか
本日は4時半起き。ああ、毎日こうなら、どれだけ気楽か。
そんな訳で、今日は朝一で買い物に行って来たのだが、いやあ危ない危ない。何と日差しの暖かい事か。何と車内の気持ち良い事か。信号待ちで止まったときの、まぶたの重い事重い事。局所的に重力が大きくなったかと思うレベル。おそらく今日は居眠り運転の事故が多いのではないか。寄り道せずに帰って来て良かった。
差別とは何ぞや。唐突になかなかの難題であるが、いつもの通りわからないものをわからないなりに考えてみると、たとえばリンゴとミカンの種類の違いを根拠に勝手に優劣をつけて価値を押しつければ、それは差別である。「ミカンは偉大な食べ物でリンゴは下劣な食べ物」などとレッテルを貼るのは差別以外の何物でもない。
しかしリンゴとミカンの味が違う事は差別的ではない。どちらかが優れている訳ではなく、リンゴを食べたいときにはリンゴを食べれば良いし、ミカンが食べたければミカンを食べれば良いだけだ。なのに「差別は良くない。だからリンゴにもミカンの味がしてしかるべきだ」などと主張するのは、主張している者がリンゴを差別しているのではないのだろうかと思ってしまう。
昨日18日に神奈川県の横浜地裁で開かれた公判で、原告側の請求が棄却された。この裁判は市と神奈川県が訴えられていたもので、重度障害を持つ児童がそれを理由に就学先を特別支援学校に指定されたのは差別に当たる、というのが原告側、すなわちその児童と両親の主張だった。つまり「普通の小学校」に通わせろという訳だ。
しかし今回裁判所は、市と県の教育委員会の判断過程に過誤や不合理な点はなかったとし、
「その内容が社会通念に照らし、著しく妥当性を欠くものとは認められない」
「裁量権の逸脱または乱用に当たるともいえない」(以上産経新聞)
として、訴えを退けた。
うーむ。極めて常識的で妥当な判決ではないかと思うのだが、どうだろう。そもそも、「他の健常者と同じ」扱いなら差別ではなくて、「他の障害者と同じ」扱いなら差別であるというのはどういう理屈なのか。足の悪い人が車椅子を利用する事は差別的なのか。精神疾患のある人が抗鬱剤を飲むのは差別的なのか。障害があるからという理由で教育の機会を奪われるのなら差別であろうが、教育の機会の与え方が気に食わないというのは何なんだ。
この両親にも言い分はあるのだろう。あるのだろうが、現実的に考えて、障害者ではない子供を主体に預かる教室に障害者の子供を迎え入れるには、予算も時間も人員も設備も教育も必要である。誰がそれを負担するのか。また「海外では実例がある」とか言うのかも知れないが、海外でもそれを実行するにあたって前段階というものがあったはずであろう。なぜそれをすっ飛ばすのだ。
教育現場に非現実的な要請を実現せよと要求するのは単なるハラスメントである。暴力である。もっと酷い言い方をあえてするなら、植松聖の主張を肯定する行為と言える。「障害者に価値はないから障害者扱いは許さない」と言っているのと同じではないか。
子供が障害を持って生まれてきた事は誰の罪でも責任でもない。とは言え一般的な大多数の健常者と比べれば、人生を歩むにあたって目の前に立ちはだかる困難は大きく数も多かろう。それをなるべく小さく少なくする事は、社会に求められてしかるべきだと虫けらも思う。目指すべき理想としては、その方向性で間違いはないに違いない。
ただ、だからといって一足飛びに結果だけを求めるのは乱暴だ。その事によって一方的に負担を押しつけられる立場の人間の事を、どれほど考慮しているのか。そういう立場の人々を見下してはいないか。自分たちの事を、常に一方的圧倒的被害者の立場に設定していないか。自らが差別の加害者になり得る事をどれだけ意識しているのだろう。
両親の意図としては、自分の子供を可能な限り「普通の子供」として育てたいのかも知れない。「普通の学校」に行けば「普通の友達」もたくさんできるはずだ、と考えているのかも知れない。もしそうなら、すべては妄想といって良いレベルの空想であり、現実味のない理想論だ。友達はできるだろう。だがそれと同じくらいか、場合によってはそれ以上に多くの敵を作る事になり得る可能性は常にある。その敵と、自分の子供をどうやって戦わせるつもりなのか。身体に障害を持つ時点で圧倒的に不利な状況を、ひっくり返す策略でもあるというのか。
虫けらはどうもこの両親が、特別支援学校に対して差別的な視線を向けているような気がしてならない。特別支援学校に行く事を「恥ずかしい」と捉えているのではないかと思えてしまう。それは経緯を知らぬ者の一方的な思い込みなのかも知れないが、何とも胸の奥がモヤモヤする出来事である。
掩蔽壕という言葉をご存じだろうか。虫けらは今回初めて知った。読み方すらわからない人は多かろう。「えんぺいごう」と読む。掩蔽壕、あるいは
さて、アメリカのウエストバージニア州、アパラチア山脈の近くに、私設の掩蔽壕がある。つまり軍の施設ではなく、民間人の建設した掩蔽壕である。ここではサバイバリスト、すなわち大災害や核戦争などから生存する事を目的とした人々が暮らしている。いわゆるプレッパーである。
普段は周囲からちょっと頭の痛い人たちと認識されている彼らであるが、新型コロナウイルスの流行がアメリカで拡大し始めた頃から、問い合わせが増えているらしい。何とも現金なものであるな。ちなみにこの掩蔽壕を使うグループでは、年間1人1000ドル(約11万円)でベッドを1つ確保できるそうだ。結構な値段だが、ここの管理人曰く「埋葬費を出す生命保険ではなく、実際にあなたの命を守る生命保険のようなものです」(AFP)とのこと。
終末思想大好きなキリスト教徒ならではの話に思えるが、もしかしたらここを読んでいる人にも刺さる話題なのかも知れない。ここでは最大500人までしか暮らせないそうなので、参加したい方は急いだ方が良いと思う。
そのアメリカでも新型コロナウイルスの影響でトイレットペーパーが店頭から消え去っているのだが、それで警察が困っているそうだ。どうやら「トイレットペーパーが売ってない」と通報する者が居るらしい。そんな事を通報されてもな。警察にどうこうできるはずもなかろう。
これは教育の問題なのか、それともただ腹が立ったから八つ当たりしただけなのかは判断に困るところ。とは言え、なくて困るのは事実だし、いい加減何とかならんものかとは思うが。
イスラエルの諜報機関は『モサド』しか知らなかったのだが、実はモサドは対外諜報が仕事で、国内で活動するのは『シンベト』、軍事諜報は『アマン』と3つも諜報機関が存在しているそうだ。イギリスなどもそうだが、諜報活動に力を入れている国は、不気味だし強そうな感じがする。実際に強いかどうかは別として。
さて、そんなイスラエルでも新型コロナウイルスの感染は拡大している。これを抑制する目的で、シンベトが市民に関する情報を収集する事になったらしい。どのように情報を収集してどのように感染抑制に関与するのかは不明だが――それは当たり前か――とにかくイスラエル政府としては、かなり深刻な事態と捉えているのだろう。厄介事に全力で立ち向かうのは悪くない。多少やり過ぎなくらいが丁度良いのかも知れない。まあ、新型コロナ対応ってのは口実じゃないの、と思わなくもないのだが。
本日はこんなところで。昨日は量は書けなかったが、そこそこ調子が良かった気がする。今日は余裕があるからちょっと昼寝してから頑張ろう。うあー、眠い。
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