追いかけられると逃げたくなる

鶴丸ひろ

追いかけられると逃げたくなる

 追いかけられると、逃げたくなる。


 たとえば恋愛に関してもそう。同じ音楽サークルに所属する男のことが好きになって、ちょくちょく連絡をとったりとかがんばっていたんだけど、向こうからデートの誘いがくるようになってから途端にその思いが冷めたりする。私のことが好きだという感じが伝わってきた時点で、それまで高ぶっていた感情が途端に醒め、ちょっと引いてしまう。


 サークルに入った当初はあれだけ好きだって思っていたのに。人の心ってほんと不思議。三度目のデートも誘われてるけどのらりくらりかわしてる。最近ラインも既読スルー気味。今朝の「おはよう」のスタンプも返してない。


 でもまあ、男に追いかけられるのは、確かに面倒ではあるけれど、まあそんなに切羽詰まった辛さはない。面倒だな、憂鬱だな、学校で会ったらどんな顔して対応したら良いのかな、って気をもんだりするけれど、まだマシ。「千春が困ったときは飛んでいくよ」なんて薄ら寒い言葉をかけられても、キモいなって思うくらいですむからまだ良い。


 虫に追いかけられると、そりゃもうたまったものじゃ無い。


 そう、いま私は、追いかけられている真っ最中。


 背後から聞こえてくるゴキブリの羽根の音。


 飛んでこられると、どうしようもない。逃げるしかない。足下にいるならいい。まだそのくらいだったら戦うことはできる。嫌いだけど。嫌いだけど、怖いけど、足下にいるならまだクイックルワイパーでも持って追いかけるくらいの根性は持っている。


 だけど、飛んでこられたらもう無理。


 クイックルワイパーも、私が履いてるスリッパも全く役に立たない。追いかけられたら、逃げたくなるのが世の男女の常。だいたい、あいつらあんなに足速いのに、空まで飛べるなんて卑怯にもほどがある。


 本当に怖いときは、悲鳴も出ないらしい。体が死を予感しているのか、頭の中に走馬燈が流れている。お父さんお母さん、私に愛情を注いで育ててくれて本当にありがとう。北海道で見たラベンダー畑は本当にきれいだった。


 ばさばさっ。


「いやっ、いやっ」


 後ろから迫り来るゴキブリの羽根の音に意識が連れ戻される。虫にしては不器用な羽根の音。もう気持ち悪すぎて仕方がない。ハエとかハチとかの羽根の音とは違う。人の神経を逆なでするような気持ちの悪い音。


 もう無我夢中。両手をぐるぐると頭の上で回して、私は網戸を蹴飛ばす勢いでベランダへと転がり出て、網戸をぴしゃりと閉める。


 ごん、とベランダのコンクリに膝をぶつける。


「痛った……」


 うずくまって膝を押さえる。室外機から漏れる生暖かい風が私の顔にふきかかり、冷房の効いた部屋と、真夏の夜の熱気との温度差に汗が噴き出てくる。せっかくお風呂に入ったのに。最悪。


「もー、何なの本当に」


 弱音が漏れる。


 突然のことだったから、本当に必死だったが、こうしてベランダで体育座りをしていると少し冷静になってきて、頭の中が整理できてきた。


 そう、私は自室のベッドに入ろうとしていたところだったのだ。明日、アルバイトの関係で早起きしなきゃいけないから早めに寝ようと思って、いつものようにアロマオイルに灯をつけてベッドに潜ろうとしたら、タンスの隙間から黒い影が出てきたのに気付いたんだった。


 悲鳴を上げた、と思う。けれど、それでも私は咄嗟にクイックルワイパーを手にとって、始末しようとはしたのだ。虫は嫌いだけど、でも実家の田舎では夏場になると見かけたし、恐怖が体に染み渡るまえに行動出来たから、私はソイツを追いかけて、壁際まで追いつめた、——ところまではよかった。よかったんだけど、


「……もう、やだ」


 ヤツが羽根を広げるところなんて、直に見るのは初めて。あの瞬間を思い出すだけで体中がじんわりと汗ばむ。トラウマになりそう。放送禁止レベルだ。


 計らずではあるけれど、スウェットのポケットに携帯電話を入れておいてよかった。ケータイ依存症万歳。着信履歴から、直近の連絡先を立ち上げる。


 山崎俊哉。


 くそう、と思う。


 シャクだ。シャク。こんなところで、あいつに頼らなきゃいけないことが、本当に悔しい。あいつから連絡があって、こっちがときどき返してあげるってくらいが一番心地が良いのに。――けど、もうここでは意地なんて張ってられない。自分で処理できないなら、他人を頼るしかない。私は今、眠りたいんだ。こんなところでうずくまっている場合ではないのだ。すっぴんだし部屋着だけど、サークルの合宿で見せてるから隠す必要もない。


 私は発信ボタンを押した。山崎俊哉は2コールで出た。


「はい、もしもーし?」

「今どこ?」


 夜の挨拶も前置きも全部無視して、単刀直入に私は聞いた。


「え、セブンイレブン」


「どこの?」


「え? いや、河井店。大学横にあるでしょ。——っていうかどうしたの?」


 大学横のセブンイレブンだったら、この大学生協のマンションから自転車で十分くらいでつく。ツイてる。


「いますぐ私の家に来て。助けて欲しいの」


「え? 今?」


「そう、今。すぐ。私のマンション来たことあるでしょ。部屋番号教えるから、」


「いや、無理だよそんな急に」


「無理じゃない。お願い。俊哉だったらできる。ほんとに、切実に助けて欲しいの。ね、部屋番号423だから、」


「いや、だっておれ今バイト中だし」


「はあ?」


「だから、バイト中。コンビニの店員してんの。言ってなかったっけ」


 いや、聞いてない。


「じゃあなんでいま電話できるの?」


「休憩入ってるから」


 私はグーで太ももを叩いた。こいつ本当につかえない。


「休憩中なら大丈夫。今すぐわたしの家に来て。休憩中にすむから」


「無茶言うなよ! あと十分で休憩終わるし」


「お願い。ホントにお願い。私、いま家にいるの。どうしても俊哉の助けが必要なの!」


 電話越しに、俊哉の顔に困っている表情が浮かんでいることがわかる。


「なんで? 何かあったの?」


「……虫がいるの」


「——え? 虫?」


 あきれたような口調であることが、電話越しに伝わってきて、私はつい言い訳するような口調になる。


「だって! 俊哉言ったじゃない。困ったらいつでも頼ってくれって! 来てよ! 助けてよ私を! 嘘つき! 調子良いことばっかり言って! バカ! もう二度と口聞かない! 一生レジ打ちしてたらいいのよ!」


 それだけ電話口に叫んで、私は電話を切った。


 あーもう、本当に役立たず。私のことが好きならこういう事態に備えて予定開けておけよ。仕事って言われたらもう何も言えないじゃない。バカ。二度と口きいて上げない。


 はあ、と一つため息。一人で上京してきて半年、こんな状況初めてだから誰に頼って良いのか分からない。咲とか美幸に助けを求めてもいいけど、求めたところでどうせ助けに来てくれないだろうし、意味もなく長話になってしまうから電話するのも億劫。明日早いからすぐにでも寝たいのに。


 むかつく。部屋着のままベランダでうずくまってる今の状況に腹が立つ。何なのほんと。あんな小っさい虫一匹に人間様がこんな不都合を被らなきゃいけないなんて訳が分からない。――でも怖い。また天井から飛んできたらどうしよう。やつら、自分が嫌われてることに気付いているんじゃないかなって思う。嫌いな自分が飛びつけば、人間はビビるでしょ、みたいな。もしも自分が嫌われていることに気付いた上で飛んできているなら、やつら本当に頭が良い。俊哉よりも頭が良い。あいつ、自分が嫌がられてること気付いてないし。多分。


 ちっ、と舌打ち。


「もーっ」


 膝をパチっと叩いて、私は立ち上がった。覚悟を決めた。奥歯を噛みしめて、ゆっくりと扉を開いて、部屋の中に入る。


「出てきなよ。いるのは分かってんだから」


 履いていたスリッパを手にして、私はそう呟く。先週の金曜ロードショーに出てたブルースウィリスが脳裏に浮かび、気分はもうスパイ映画の主人公。


 コン、と天井がなって、それにビクッとなる。負け惜しみに舌打ちを一つ。


 ちっ。


 ドキドキする。ドキドキしてる。感覚が研ぎ澄まされて、背筋に当たるTシャツのタグの感触に飛び上がりそうになるほどの恐怖を覚える。まさか背中に引っ付いていることはないだろうけど、念のためスタンド鏡で全身をさっとチェック。——うん、服には付いていないみたい。ひとまず安堵のため息をつく。

 

 武器をスリッパから棚の下にしまっていたゴキジェットに変更。


 部屋中を見渡す。


 このなかに、ヤツがいる。


 居心地の良い見慣れた自分の部屋が、まるで他人の部屋に放り込まれたような緊張感。よく見ればカーペットにも黒ずんで汚れている箇所が多々ある。あーもう、この床とか壁とかをゴキブリが通ったって思ったら、部屋ごと全部殺菌したい気分。ゴキブリを捕まえたら家具全部にアルコール吹きかけなきゃ——


 視界に、さっと黒い物がうつる。


 私は咄嗟に、そちらを向いた。


「ひっ」


 声が出た。自分でも驚くほどか弱い声だった。


 天井だった。エアコンのすぐ横。コンセントのコードの影に隠れるようにして、そいつはいた。スス、スス、とちょっとずつ動いている。


 さっきのシーンがフラッシュバックする。飛んでくるゴキブリ。こちらに飛んでくる恐怖。鳥肌が立つ。


 なぜ、なぜ天井にいるのか。バカと煙は高いとこが好きだと言うが、実際高いところにいるほうが有利なのは事実なわけで、もしも理解してあの場所にいるならあいつは間違いなく賢い。猫のケンカだって高いとこにいる方が有利だ。


 意気地はすでに尽きてた。手に持っているゴキジェットはただのアルミ缶に過ぎない。もしもこれを噴射して、息絶えるまえにこちらに飛んで来たら。あいつらの生命力って人間の想像を遙かに超えるって前に友達に聞いた。人間が絶滅しても、ゴキブリだけは生き残るって。そんなの相手に、こんなアルミのスプレー缶で立ち向かおうだなんて、無謀にもほどがある。


 今しか無い。

 チャンスは、今しか無い。


 頭では分かってる。けれど、私はもう動けない。アイツらの触覚は、現代のメデューサだと思う。あれがまっくろくろすけだったらどれほど良いか。もしも世の中のゴキブリが皆、まっくろくろすけに変わってくれるなら私は今すぐ叫ぶ。「まっくろくろすけ出ておいで!」って。「目玉をほじくるぞ!」って叫びながら町中を走り回ってもいい。みんなから後ろ指さされたっていい。とにかく部屋にいる黒い物体がゴキブリじゃなければなんでもいい。


 そんな事を考えていたら、ソイツはエアコンの影に隠れてしまった。


 さっさと視界から消えて欲しいって思っていたのに、いざ視界から消えたらなおさら怖くなる。相手がどこにいるか分からない恐怖。私のバカ。やっぱりチャンスのうちに行動に移すべきだったのに。


 うつむく。


 怖かった。涙が出そう。明日は早いからすぐに寝たいって思ってるだけなのに。虫が出ないようにちゃんと掃除だってしてたのに。よりにもよってなんで今日なの。昨日出てきてくれたらよかったのに。明日でもよかったのに。なんでこんなタイミングで。


 カタッと天井が音を立てて、私は飛び上がる。「もうやだ」震える声が出る。情けない嗚咽が漏れる。感情がこみ上げてくる。


 もう、


 もう無理。


 誰か、助けて。





「千春っ!」

 


 玄関からだった。飛び込んできたその声は私がつい十分前に電話越しに聞いた声で、私ははっと顔を上げた。


 俊哉だった。


 セブンイレブンの制服を着た俊哉が、私の玄関から部屋まで入ってきて、息を切らしている。


「千春、無事か?」


 なんで、


「な、なんで? バイト中じゃなかったの?」


 声が出た。頭のスイッチが入れ替わったかのように、すんなりと声が出てきた。


「先輩に頼んで抜け出してきた」


「はあ!?」


 本当は安心しているのに、俊哉を目の当たりにすると、なぜだか憎まれ口が出てしまう。


「あんたホントバカでしょ。仕事中なのになに無責任なことしてんのよ」


「なんとでも言え。千春からあんな電話が来て、ほっとけるわけがないだろ」


「そんなことしたら、怒られちゃうじゃない」


「明日の朝一でちゃんと叱られてくるよ」


 ぐい、と腕を引かれる。そこで、自分の手が震えていたことに、私は初めて気付いた。


「大丈夫? 怖かったんだね」


 優しい言葉。私は心の中で舌打ちした。


 ああもう、


 これだから、飛んでくるヤツは嫌いなんだ。


 視界が滲んだ。鼻の奥にツンとした痛み。


「バカ」


 ぎゅう、と俊哉の胸に顔を埋める。俊哉は本当に走ってきたみたいで、ドクドクと心臓が脈打っているのが制服越しに伝わる。温かい。実際に触れてみて分かる体の大きさ。わざわざ私の背中まで手を回してくる俊哉に、いつもなら鬱陶しいと感じるところだけど今日だけは許してやる。


「辛いことがあったら、いつでも頼ってくれて良いから。千春のためなら、どこにでもすぐに飛んでくるからさ」


 俊哉の優しい声。触れた体越しに、声が伝わってくる。


「……うん」


 俊哉に顔を埋めたまま、私は頷いた。恥ずかしかった。


 やっぱり、飛んでこられるのも、悪くは無いのかもしれない。


 私は俊哉の胸から顔を上げた。切れ長の目を、じっと見つめる。ありがとうを伝えようと思った。


「――あ、」


 その瞬間。


 視界の隅に黒い物体が見えた。エアコンの影から、スススと壁を移動している。


 サッと涙がひき、胃袋にズンと石が落ちるような感覚。


 いる。


 いるいるいる。


 天井に、やつが、やつがいる。


「あ、あああ、あれ! あれ! 俊哉! あれ!」


 私は天井を移動する黒いそれを指さした。ぴたっと止まる。目が合ったような感覚。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているように、私がゴキブリを見ているとき、ゴキブリもまた私を見ている。


 そう、私を見ている。


 羽根を広げる。


「ぎゃ―――――――――――っ!! 俊哉! 俊哉っ!! 来る来る来るっ!!」


「え?」


 呑気に俊哉が振り返る。


「わあああっ!」


 さっきまでの余裕はどこへ行ったのか、俊哉は私の腕を引いて玄関へと猛ダッシュ。それを追うように後ろから「バサバサバサッ」という虫にしては不器用な羽根の音。


 靴を履く暇もなく、私達は玄関を飛び出す。コンクリのマンションの床が素足には冷たい。


 私はかろうじて手にしていたゴキジェットを俊哉に押しつけて、


「つ、捕まえてよ! 私、このままじゃ部屋戻れない」


 俊哉は顔を真っ青にして否定した。


「むり、むり。俺、ホントに虫だけはダメなの。マジで」


「はあ!? あんたここに何しに来たのよ! 虫が出たから助けてって言ったじゃない」


「いや、だって千春から電話があったから、何も考えずに飛んで来ちゃった」


「なんなのそれっ!」



 もう、やっぱり、


 飛んでくるヤツって、ろくでもない。

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