主人公、売られた喧嘩を買ってやる


 ――この世で最も恐ろしいものは、生きている人間の悪意である。


 男は政治の世界で生き続けてきたからこそ、それをよくわかっているつもりだった。


 ただ、それはわかっていた気になっていただけなのだと言う事を、目の前に展開された光景によって気づかされたのだった。



                 ●



 ――王城の一画にある謁見の間に、その場に相応しくない音が響き続けていた。


 それは何かが鋭く空を切る音が主であり、そこに付随するように、金属質な何かが擦れる音や何かが砕ける硬い音が混ざっていた。


 それらの音源は、謁見の間の中央にある広い空間に居る一人の男だった。


 彼はこの国一番の猛者であり、他国にも名を広く知られた我が国の誉れとも言える大将軍であった。


 彼は鬼気迫る表情で虚空を睨み、長時間続く動作によって息を荒げながらも、隙無く愛剣を構えては誰も居ない場所へと振り続けていた。


 つまり、先ほどからずっと続いているこれらの音は彼の動作によるものであるわけだが。

 ここで生じるのは、彼がなぜそのようなことをしているのか、という疑問であることだろう。


 真っ当な人間であれば真っ先に想像するであろう理由としては、王に彼の武を示すための演武となるのだろうと思うのだけれど、今回は違った。


 次に想像できる理由としては、あるいは何かが間違ってしまってやる羽目になった演舞か演劇というところなのだろうが、それも違った。


 ――ではなぜ彼がこんなことをやっているのかと言えば、答えは簡単だった。


 彼は真面目に誰かと戦おうとしていて、それが叶わない状況にあった。


 それだけの話でしかなかった。


 もっと具体的にいえば。おそらくは、彼はその誰かと今もなお戦っている最中だという認識なのだろうが――実際に彼が戦っていると認識しているだろうそれは、彼にしか見えていない幻覚なのだった。


 しかし、傍で見ている私たちは、彼が幻を相手に格闘していることを理解できていた。


 それなのに、彼を止める人間がその中から出てくるかと言えば、こうなってから随分と時間が経っている今も、私を含めて一人として存在しなかった。


 なにせ、彼を最も恃みにしている王でさえ彼を止めるための一声をあげることはしなかったのだ。


 いったい誰がそれを為し得たというのだろうか。



 ただ、言い訳をさせてもらえるならば。



 戦闘に関しては素人でしかない王を筆頭とした文官が、この国で最も強い彼をさえ手玉に取ってしまう誰かを前に尻込みをしてしまうのは至極当然の流れだっただろうと言わせて欲しいものだった。



 もっとも。


「――この勝利は王のために!」


 そう言って愛剣を自らの胸に突き立てて息絶えた彼に、そんな弁明を聞く機会など二度と得られないのだろうが。


「…………」


 肉を裂く音が響いた後で、血が滴る音と力が抜けた彼の体が血溜まりに沈む音が続いた。


 その後に落ちるのは無音と重い沈黙だった。


 ――しかし、その沈黙も長くは続かなかった。


 沈黙を破ったのは甲高く乾いた音だった。


 その音が何であったのかは、音源に視線を向けることでようやく理解できた。


 王の横に立つ貌の見えない男が、拍手をしながら笑っていたからだった。


「いやあ、いい見世物だったな。最後のオチといい、実に素晴らしい。

 何もわからず幸せなまま本人は死んで、それを見ていた周囲の人間はそれが茶番であったことがわかっている。

 なかなかに滑稽だと思わないか? なぁ、おい」


 嘲り笑うその姿に怒りを覚えなかったかと言えば嘘になるが、それも本当に一瞬だけだった。


 怒りに任せて動いたらどうなるか。その結末を今まさに目の前で見たばかりなのだから、動けるはずがなかった。


 拍手の音だけが響く時間が少しだけ過ぎた後で、男の声が話を再開した。


「どんな人間も隙をつかれればあっさり死ぬ。それはどんな立場の人間であっても変わらない。

 ましてや、一人で生きるために必死になっている人間に喧嘩を売るような真似をしておいて、穏便に済むとでも思ったのか?

 国が相手であれば個人は何もできないとでも思っていたのか?

 ――戦争の火種を自ら作っておいて、その認識は甘すぎるんじゃあないかね」


 男の言葉に応える声はなかった。


 だからと言うように、男はもはや周囲の様子に目を向けずに言葉を続けていった。


「有用そうな人間がいる。だから利用してやろう。

 ――そう考えるのは至極自然な流れだから非難はしない。

 だがな、その相手を迎える態度が問題だ。

 力のある人間が傲慢になるのもまた世の常ではあるのだろうが、自らの首を絞める結果にしかならんのも、少し考えればわかることだろうになぁ。

「国に属さないということは、その国の法に守られない代わりに縛られないということだ。

 一人で居るということは、全てを一人でやらなければならないという負担の代わりに、あらゆる決定を躊躇う必要がないということだ。

 ――だから、腹が立てばぶちのめすという選択ができるんだぜ、俺は。

 要はそういう個人と喧嘩の火種を作るということは、国を相手に戦争を仕掛けるのと変わらんという話だよ。

 いやあ、勉強になったなぁお前ら」


 男はそう言うと、傍にあった呼び鈴を掴んで揺らしてみせた。


 音が鳴り、少しの間を置いてから誰かが部屋に入ってきた。


 ――その誰かは複数人だった。


 途絶えることなく続々と入ってくるその人影を見て、この部屋にいた人間の顔が次から次へと青ざめていった。


 見覚えのある誰かの顔を、そこに認めたからだろう。


 ――その誰かは老若男女入り乱れていた。


 共通しているのは、この場にいる誰かの縁者であるという点だった。


 父、母、夫、妻、娘、息子。あるいは恩のある知人や友人の可能性もあったかもしれない。


 ――その中には当然のように、自分の家族の顔もあった。


 その事実を認めて、私も背筋が冷たくなる錯覚を覚えた。


 そんなことなど知ったことではないというように、男の声は続けて言った。


「お前らは戦争に負けた。

 戦争に負けたということは、生殺与奪の権利を勝者に握られるということだ。

 そしてそれは、お前たち自身だけの話では終わらない」


 男はもう一度呼び鈴を揺らした。


 音が聞こえて、その音に従うように新たに入ってきた犠牲者たちが動き出した。


 彼らは既に必要なものを持っていた。


「国が負けるということはそこに属する全てがそうなるということだ。当然だな?

 ――ここまで言えば流石に何をしたいのかがわかるか? ああ?」


 彼らが持っていたのは、この場にいる全ての人間が座れるだけのテーブルと椅子、そして軽食の類であった。


「戦争の後に行うのは、楽しい楽しい交渉だ。俺が一方的に楽しいだけのな。

 ……まぁ全てをもらっても邪魔なだけだから、多少は売ってやるし、残してやるが。

 ただ、ノータリンなお前らに一言だけ忠告をしておいてやろう」


 黙々と彼らが準備をする様子を背景におき、男はそれまでよりも一段低い――いや、温度がないと言っていいほどの冷たい声音でこう言った。


「――勘違いをするな。

 おまえら自身が持っているものは、せいぜいがおまえら自身を十全に生かすことができる程度の権利でしかない。

 そこを踏まえて、よく考えて口を開け」


 一息。声音をかえるためにか、大きな吐息を一つ挟んでからこう続けた。


「では話し合いを始めようか。

 ……なに、幸いにして時間はあるんだ。

 ゆっくりじっくり腰を据えて、詳細を詰めようじゃないか」


 男の言葉に応じるように、用意されたテーブルの各席、その近くに立つ犠牲者たちが椅子を引いてみせた。


 そうして示された、座れという無言の促しに、歯向かう素振りを見せる人間は誰一人として居なかった。


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