第2話・そこには、数学的な美があった

 そこには、数学的な美があった。

 緩やかな、それでいて巨大なドーム状の天井だ。

 装飾はなく、そっけないくらいに滑らかな表面が見える。

 単純に石をああいう形にすればいいというものではなく、緻密な計算の上に成り立つ奇跡のような代物だった。

 今年の初め頃、一人のエルフが持ってきた設計図が元になっている。

 静宮殿エル・エルフには、そういう奇跡のようなものが、たくさんあった。

 大人の頭ほどもあるダイヤモンド、名工が身命を賭けて作った武具、数学的な美、一瞬のきらめきを切り取った絵画。

 そういう奇跡達も、いつか陳腐化していくんだろうか、と梔・ルディ・クラン・ハビムトは思った。

 絶対に不可能だと思われていたサイズに拡大されたドーム構造の天井は、こうして出来ることが証明されている。

 なら、いつか「こんなつまらないものを見上げていることはないよ」と言われる日が来るのか。

 それとも、クランが言うことがあるのか。

 奇跡のような美は、いつしか世界に広がり、どこにでもあるつまらないものに貶められていく。

 それが、たまらなく嫌だった。

 クランは、奇跡になりたかった。


「それでは改めて手順を確認します。ルディ様が降りてこられたら一礼をします。この時、最敬礼を行なってください」


 最敬礼とは、腰を直角にまで曲げる礼だ。

 その程度のことを説明されずとも、と鼻で笑ってしまいそうになるクランだったが、この場にいる誰もが知っているとは限らない。

 儀礼官が眉をしかめるような連中と、クランは肩を並べていた。

 それが、クランはたまらなく嫌だ。

 それは華美な衣装を見に纏った連中と肩を並べていても、そう思っただろう。

 小難しい言葉を重ねず、シンプルに誰にでもわかる言葉を連ねる儀礼官は、職責を果たしているとも言えるのだ。

 彼に怒るのは筋違いだということはわかりながらも、イライラするのを止められない。

 儀礼官の声以外、咳一つないこの場で、クランだけが取り残されている。

 何故、誰も彼も耐えられるのか。この、殺意に。

 エンシェントエルフを落とすのは、若いエルフの本能だ。

 クランが知らないうちに、この強烈な殺意を乗りこなす方程式でも配られているのだろうか。

 強い憧れ、強い緊張、そういったものに目を輝かせる若いエルフ達のどこを探しても強い殺意は感じられない。

 自分だけが、殺意を抱いていた。


「最敬礼の後、ルディ様の二十六番目の愛娘であらせられますクラン様の号令で、おおよそ百歩離れた位置から各自、炎系魔法を放っていただきます。もちろんこれでルディ様がお怪我をなされることはありえませんので、遠慮こそが失礼だと覚えておいてください」


 梔・ルディ・ハビムトは王である。

 大陸中央部にどんと寝転がるように居座るエルフの王だ。

 エンシェントエルフになったルディを落としに挑む若者達を次々と討ち取り、殺意はいつしか尊敬へと生まれ変わっていた。

 各地から集う腕自慢の若者達はルディに胸を借り、故郷へ戻って自分の武名を誇るだろう。

 傷一つ与えることなく、何もなさずに帰ってきた自らの武名を。


「くそくらえだ」


 口の中で消えた言葉は、誰にも聞かれなかった。

 細々とした説明をする儀礼官の言葉に耳を傾ける若者達は、これから待ち受けるエルフの王に胸を膨らませている。

 彼らは誰も自分がルディを討てるとは思っていない。空を落とせる者など、どこにもいないのだから。

 クランは五十二歳、周りの連中もその程度か。

 若造だった。

 自分達が生まれる前から絶対王者として君臨していたルディと、一合でも打ち合えれば。

 せいぜいがそんなところだろう。


 クランは奇跡になりたい。

 いつまでも陳腐化せず、一瞬のきらめきではなく、永遠に続く奇跡に。

 やるか、と静かに決意を確かめ直した。

 梔・ルディ・ハビムトは奇跡だ。

 その奇跡の価値を、クランはよく知っていた。


 儀礼官が退出し、観客席に人が入り始める。

 数にして三万。静宮殿の中央は、円形のコロシアムで出来ていた。

 広い、百人が暴れ回ろうとも余裕のありそうなコロシアムと観客席を隔てる壁は、年を重ねたエルフ達が刻んだ異様なまでに緻密な彫刻が彫り込まれている。

 そこに防備の魔術があるわけでもなく、観客席にも守りがあるわけでもなかった。

 素晴らしい彫刻の数々が焼けようと、観客席に流れ弾が飛び込もうと誰一人気にしないはずだ。

 流れ弾すら防げない生き物がこの場にいる事は相応しくないし、どれだけ素晴らしい彫刻だろうと、これからやってくる王の前にはその輝きを失うのがわかっているからだ。

 長い階段だった。

 長く見上げれば首を痛めるような長い階段の上に、いつの間にか一人のエルフがいた。

 梔・ルディ・ハビムト。

 他種族に比べれば小柄なエルフの中でも更に小柄であり、身にまとう服もどうということはない平服だ。

 面倒くさげに階段を降りる姿だって、威風堂々としたものでは決してない。

 よたよたと、どこか眠たげに降りてくる。

 もし、この場で魔法の十も二十も打ち込めば、それだけでケリがつきそうな、弱っちい姿だ。

 ルディがゆっくりと降りてくるのを、クランはじっと待っていた。

 周りの若いエルフ達も、じっと待っていた。

 観客達もじっと待っている。

 静宮殿のあらゆる美は、この王のためにあるのではない。

 小さな子どもが大きな大人と背丈を比べるように、己の全知全能を賭けた美が、どの位置にあるかを確かめんがためにやるのだ。

 そして、その全ての試みは、ありとあらゆる手法で、完膚なきまでに敗北し続けている。

 静寂のルディ、輝ける王、完璧なるルディ。数え切れない二つ名が、その証明の一つ。


「さ、やろうか」


 コロシアムに立ったルディは、どこまでも自然体だ。

 最敬礼、全員が同じタイミングとはいかず、当然のように乱れた。

 クランは、頭を下げた瞬間、静かに魔法の構成を編んだ。

 速さと範囲、そして隠密性を重視。

 ゆっくりと十を数え、頭を上げる。


「三」


 合わせたこともない連中を率い、一斉に魔法を放たせる技量を持った老練なエルフは、この場にはいない。


「二」


 だから、カウントから始める。

 周りの観客から、どう見えているんだろう。

 クランは、ふとそんな事が気になった。


「一」


 足、強化。

 持続性を捨て、遅延構成。


「放て!」


 放たなかった。

 小さな山一つくらい吹き飛ばしてしまいそうな炎が、クランの背後から一斉に飛び出す。

 コロシアム全体を炎で包むような炎すべてが一人の王を焼こうと迫る。

 が、この場にいる、この国にいるエルフ、他種族も誰一人としてルディが焼け死ぬだなんて思ってもいないだろう。

 どんな間抜けな敵でも、殴りかかって来れるだけの時間をかけた全力全開の構成の魔法でも、だ。

 飛んでくる魔法に手を突っ込み、霧散させるような真似までしてくるのだ。ルディが単純な魔法を放ったくらいでどうにかなるだなんて、誰一人として信じていない。

 剣、弓、槍、徒手、魔法、ありとあらゆる闘争すべてにおいて、ルディがこの地上で敗北したことは一度もない。

 だから、若い者達に機会を与えてやろう、という大人達の暖かい優しさで、誰一人として勝てると思っていない儀礼的な茶番が、このエンシェント落としの正体だった。


「勝ってみせる」


 だから、誰かに協力してもらおうとは、まったく思っていなかった。

 クランが構成していた魔法は、正しく発現する。

 動く気が見えないルディを守るように、クランが放った広がる薄い水の膜に、エルフ達の炎が激突した。

 完全に止める気はなく、むしろ適度に散って欲しくすらあった水の幕は、一瞬にして熱量によって加速し、水蒸気と化す。

 爆発する水蒸気は、その最中に脚力を強化して飛び込むクランの肺を焼くほど。

 この程度の小細工、とも思う。だが、その細かい差がきっと、とも思った。

 弾丸のように水蒸気を突き破ったクランは、腰から魔剣を抜刀していた。

 構えは上段、魔術セッティングは自ら生み出す熱量で刀身の融解すら始まる、一発こっきりの自爆構成。


「華開け!」


 叩きつけた。

 手応えは、地面を叩く物そのもの。

 融解し、脆さを孕んでいた刃が砕け、そこから一瞬にして地面を舐め尽くすように炎が生まれ出でる。

 魔剣に通している魔力は、すべてクランの物だ。

 水蒸気でルディを見失い、その直後に魔剣で発現した炎により、完全に見失う。

 しかし、自分の魔力を通した、全周囲に広がる炎のどこかにルディが触れれば、わかるはずだった。

 そこから前にいればこう、横にいればこう、後ろにいれば、空中にいれば、とあらゆる想定をクランは重ねてきている。

 腰に吊るしてある左右三剣、合わせて六剣は、そのすべてが策の、


「残念残念」


 軽い、真剣みのかけらもない声がした。


「見たことのある顔だけど誰だい、あんた」


 正面からである。

 炎の波に乗るルディは、しっかと地面に立っているのと変わりがない。

 だらりと、適当に持っているだけに見える剣は飾り気一つなく、魔術構成を手助けする貴石一つない、ただの鉄剣である。


「あんたの娘だよ、くそったれ」


「へえ、そいつはどうも」


 どうやって斬られたのかすら、クランにはわからなかった。

 斬られたことが、わかった。

 ただ骨を避け、肉だけ通った軌跡だけが、わかった。

 命を取る価値すら認められていないのだと、はっきりとわかった。

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