第448話 秘密特訓から練習試合での春也の活躍、動機は不純だけど意外と皆似たようなものかもしれませんよ
振り終えたバットを、春也は奥歯に力を入れて持ち上げる。ハアハアと肩を荒く揺らすたびに、頬からは汗が滴り落ちる。
火照った体に夜風が心地いい。手の甲で額を拭ってから、四肢の筋肉を固めて庭の土を踏みしめる。
風を切る音が聞こえ、前髪が舞う。スイングの後に腕が急に重くなり、バットを杖代わりにして大地を睨む。
瞼を閉じれば先日の光景が思い出される。憧れのお姉さんに恰好いい姿を見せようとして、できなかったのが何より悔しかった。
「ああ、くそっ、もっと上手くなりてえな」
自然とそんな呟きが漏れる。ゴムボールとプラスチックのバットを使ったお遊びの野球であっても、活躍したいと思うのが男――というか春也だ。
「だったら俺が教えてやろうか?」
「パパ! えっ、いつから見てたの」
「少し前からかな。
晩飯食い終わってすぐ庭に行くから何かと思えば秘密特訓とはな」
「そ、そんなんじゃないって」
隠れて素振りしていたのがなんだか急に気恥ずかしくなり、慌てて首を左右に振った。万が一にでも父親から陽向などに、今夜の件が伝わったら大変だ。
「否定しなくていいだろ。俺だって子供の頃は毎晩バットを振ってたしな」
「パパも?」
「ああ……でも、結果は出せなかったな。
大学まで野球はやれたけど、それだけだった」
「すごいことじゃないの?」
「宏和に比べれば全然だ」
「宏和おじさん?」
春也の家よりもずっと田舎にある大きなお屋敷に住む人だ。祖母の兄が父親らしく、叔母とは子供の頃から付き合いがあるらしい。奥さんはとても優しくて綺麗な人で、叔母の親友でもあるそうだ。
「前に話したかもしれないが、宏和はプロだったんだ」
プロ野球の存在自体は春也もよく知っている。祖父が特定球団を応援しており、よくテレビやパソコンで観戦しているのを横で見たこともあった。
「そういえば……おじさんが野球してるのを見たことがあるような、ないような……」
「春也も応援に行ったからな、小さい頃だったから覚えてなくても無理はないが」
「今もだけど、昔ってもっと色々お祝い事とかやって騒いでたから、そっちの記憶ばっかりある」
「ハハハ、葉月も和葉さんもお祭り好きだからな」
「ジージもでしょ」
「そうだった」
ひとしきり笑ったあとで、父親の顔が真面目さを増す。
「それでどうする? 俺でよければ教えてやるぞ」
「……お願いします」
春也は素直に頭を下げた。コーチしてくれる人がいるいないでは大違いだし、何よりもっと上手くなって、あの人の前で恰好つけたかった。
*
向かってきた軟式の白球を水平に振ったバットで弾き返す。甲高い音を引き連れてグラウンドに転がった打球が野手の間を抜けていく。
「よっしゃあ!」
1塁上で右手を上げると、練習試合なのにわざわざ観戦に来た父親が拍手してくれた。隣には何故か姉の友人の母親もいる。
「春也の奴、振りが鋭くなったんじゃないか」
「毎日頑張ってるからな」
部活があった日でも、夜になれば休まず父親と一緒に庭で練習した。少し広めなのが幸いして、素振りだけでなく投球や守備の練習も軽くだができた。
おかげで部内でも春也の実力は認められ、入部したばかりだというのに練習試合で代打に使ってもらえた。もしかしたらもうすぐある春の大会でベンチ入りできるかもしれない。
続けて代打に出た智希は、左利きなのに当たり前のように右打席に立つ。親に矯正されたのではなく、自発的に覚えたらしい。
観戦中でもある友人の母親は周囲を見て仲間外れは嫌だったんだろう、なんて推測をしていたが実際は違う。
春也が直接聞いた際に、俺は右利きだと言い張り、姉さんと違う利き腕で産まれてくるなどあり得ないと歯を剥いていた。
その智希だが以前に姉に激励されて以降全力で練習に取り組むようになった。元々高い運動能力があるだけに、瞬く間に部内でも頭角を現した。
恰好をつけたい以外にも、友人の存在が焦りとなって春也を秘密特訓へ導いた。
「チッ、4年生の頃の姉さんと同じ結果を狙ったのに飛び過ぎてしまった」
本塁打を放ちながら、忌々しげにダイヤモンドを一周する友人。負けてなるものかと、春也が改めて唇を噛んだ瞬間だった。
*
大会前の腕試しに加え、新入部員の実力を確かめる意図もある練習試合。4年生の中では誰より速い球を投げられる春也が、当たり前のように代打した裏の回にマウンドに立たされた。
部活の時からピッチャーに適性がありそうだと専用の練習もさせられていたので、戸惑いはほとんどない。サイン確認にマウンドへ来た捕手の顔が見知ったものであればなおさらだ。
「呆けてるんじゃない。たった今、姉さんが応援に到着したんだ。醜態を晒してくれたら許さんぞ」
どこまでも姉本位な友人である。目を血走らせて捕手を希望したのも、同じポジションの就きたいがためだ。
「俺が打たれても、お前が格好いい姿を見せられればいいんじゃないのか?」
「阿呆か、貴様は。打たれたら俺のリードが悪かったと評価されるかもしれないだろう。それに己の力でチームを勝たせた方がより称賛を浴びるに決まっている」
「なるほど。んじゃ、いっちょやってやるとするか」
智希がマウンドに戻るのに合わせて、センターから「頑張って」と聞こえてきた。振り向かなくても誰がいるのかはわかる。晋悟だ。
足が速く、打球判断も抜群で肩も強い。春也に何かあった場合には、投手もこなすことになっている。
練習試合とはいえ友人も揃って出場できていることに興奮する。なんだか空まで飛べそうなほど体が軽い。
前日に何度も鏡で見てはにまにましたユニフォームに皺を作り、振り上げた腕を強くしならせる。
呼吸の再開に合わせ、指先でスピンをかけた白球を目で追いかける。その先には打撃動作に入った打者がいる。
打てるもんなら打ってみろ!
心の中で強く吠えたのが効いたのか、次の瞬間には友人のミットが小気味良い音を立てていた。
*
「やるじゃねえか!」
練習試合を勝利した春也を出迎えたのは、よく遊んでくれる姉の友人だった。久しぶりの母校のグラウンドにはしゃぐこともなく、ずっと声援を送ってくれていたのが嬉しかった。
「俺の実力なら当たり前だっての」
「春也のくせに言うじゃないか!」
おふざけのヘッドロックが妙に心地良い。
打っては1打数1安打。投げては2回無失点。上々のデビューである。春也とバッテリーを組んだ智希も、自分の姉を前に目をキラキラさせている。
「姉さんのための雄姿を見てくれましたか!」
「……多分」
「えぇ……のぞちゃんさんはずっと眠っておりましたでしょう……」
そんな真相を知れば落ち込みそうなものだが、暴露したお嬢様っぽい女性が驚くほど友人は意に介さない。
「つまり応援するまでもなく、俺の活躍がわかっていたということですね!」
前向きと言っていいかは疑問だが、少しは見習ってもいいのかもしれない。
もう1人の友人は胸を張るのではなく、現在中学3年生の実姉から駄目だしをされては謝りまくっていた。
*
試合があった日くらいは休めと言われたが、春也は気がつけばバットを握り締めて自宅の庭に立っていた。どうにも気分が落ち着かないのである。
「今日は結構な活躍をしてたじゃないか」
店を離れられなかった母親に代わって、最後まで応援してくれた父親が柔らかな笑みを湛えている。
ちなみに祖父も応援に来ていて、やはり仕事中だった祖母に頼まれてビデオカメラで撮影していた。学校の行事もよく撮っていて、昔のと合わせれば一台のハードディスクでは足りないだけの容量になっているらしい。
「まだまだだよ。もっと上手くなって、もっと活躍したい」
「目指せプロ野球選手ってところか?」
春也はすぐに言葉を返せなかった。それはずっと引っ掛かっていたことでもある。
すぐに異変に気付いた父親が「どうした」と不思議そうにする。
「俺、パパに謝らないと」
「何をだ」
「上手くなりたいってのは本当だけど、もっと小さい頃に言ってたみたいにプロになりたいとか、そんなに恰好いい理由があるわけじゃないんだ」
素直に白状すると、父親はそれまでも真剣な顔つきを一変させた。
「ハハハッ! そんなことか! 深刻そうに謝るとか言ってくるから、一体何をしでかしたのかと思ったぞ」
「わ、笑うことないだろ! 俺だって気にしてるんだ。先輩たちは本気で練習してんのに、俺だけなんか野球を利用してるみたいでさ」
「いいんじゃないか」
笑い終えた父親が、縁側に腰を下ろした。
「親子とはいえ、まさか野球を始めた動機まで同じとはな」
「同じ?」
「俺もママ――葉月に振り向いて欲しくて野球部に入ったんだ」
「パパも!?」
驚きすぎて春也の声が裏返った。少し怖いけれど優しい父親に、そんな過去があるなんて夢にも思っていなかった。
「見た感じ智希君も似たようなもんだろ。晋悟君は巻き込まれたというか、お前たちを放っておけなかったんだろうな」
「そういえば晋悟の好きな子って知らないな」
「無理に聞き出そうとするんじゃないぞ。春也だって逆の立場でそうなったら嫌な気持ちになるだろ」
「わかってるって。でも、そっか……パパも同じだったんだ」
そう考えれば考えるほど、にまにまが止まらなくなる。
「パパがママと結婚できたってことは、俺にも可能性があるってことだよな!」
「ハハッ、そうきたか。頑張る理由は人それぞれだ。それにその春也の頑張りがあってチームが勝てたら、仲間もきっと受け入れてくれるさ」
「そうだよな! よしっ! 今日も特訓だ!」
バットを持つ手に一層の力が入り、春也の鼓膜にブンという威勢の良い音が響いた。
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