第438話 菜月の転職。2号店の配属となり、駄々をこねられたり、通勤だったり、大変だけど幸せです

「やっぱりな」


「きっとそうなると思ってたわ」


 冬の寒風から逃げるように入ったカフェで、菜月の正面に座る二人の友人は揃って優しげに微笑んだ。


「あんまりどころか、まったく驚いていないのが、やや気になるのだけれど」


「何言ってんだ。地元愛溢れる菜月が、いつまでもこっちにいるわけないだろ」


 ニットのセーターを着た涼子が笑う隣で、似たような服装の明美も口元に手を当てる。


「涼子ちゃんの言う通りよ。

 菜月ちゃんが自分で決断しなくても、ムーンリーフがピンチだったり、家族の誰かが大病に罹ったりしたら、迷わず帰っていたでしょうし」


 指摘された状況になればその通りにしそうな自覚があるだけに、菜月は何も言い返せなかった。


 外してなかったマフラーで口元を隠すと、照れのせいで上昇中の体温がわかり、余計に気恥ずかしさが増した。


「ところで、涼子ちゃんや明美ちゃんは最近どうなのかしら」


「あっ、露骨に話題を逸らしたぞ」


「こういう時は素直に乗ってあげるものよ、涼子ちゃん」


「ボクたちの仲でそんな遠慮はいらないだろ」


「フフッ、相変わらず2人は仲が良いわね」


 明美が「でしょう」と瞳を輝かせて身を乗り出す一方で、涼子は苦虫を噛み潰したような表情になる。恐らくいつもの話題に発展するのを恐れているのだろう。


「恋愛の形は人それぞれ、私は応援するわよ」


「ほら、きた! しつこいくらい言ってるけど、ボクはノーマルだ!」


「でも涼子ちゃん……私たち、とっくに王子様を待っていられる年齢ではなくなっちゃったわよ」


「年齢の話は止めてくれ!」


 涼子が瞳を潤ませながら、勢いよく明美の肩を掴む。どうやら年齢の話は禁忌になりつつあるようだ。


「菜月だってボクの気持ちはわかるだろ!」


「生憎だけれど、私はあまり気にしていないわね」


「うぐっ! そうか、これが相手のいる女の余裕ってやつか!」


 勝手にダメージを受けて、勝手に悔しがる涼子。


「あら、涼子ちゃんにだって相手が――」


「――だからボクはノーマルだ!」


 いつものじゃれ合いは、いつもより少しだけ長く続いた。心地良い時間の中に寂しさを感じつつ、菜月は半ば答えのわかっている問いをする。


「涼子ちゃんと明美ちゃんはこれからどうするのかしら」


「ボクはこっちに残るよ。もうソフトボールはやってないけど、会社にはとてもお世話になったからね」


 背もたれに体重をかけ、涼子はどこか遠い目で天井を見つめる。


 地元を懐かしがってはいるが、こちらで構築した生活環境も大切にしているのが伝わってくる。


「涼子ちゃんが残るなら、あたしも一緒ね」


「明美ちゃんの居場所は涼子ちゃんの隣だもんね」


「いやん」


「……もう好きにしてくれ」


 笑顔を引き攣らせているが、菜月の目には涼子も満更ではなさそうに映っていた。


   *


「いらっしゃいませ」


「おう、入社したばかりにしてはずいぶんと様になってるじゃねえか」


「……お客様だと思って挨拶して損をしたわ。私の笑顔を返してくれるかしら」


 菜月は目を細め、配送を終えて堂々と正面から戻ってきた実希子を見る。


「それに学生時代はアルバイトもしていたのよ、慣れていて当然だわ」


「つっても十年以上前の話だろ。まあ、当時の制服をそのまま着れてるから、あまり時間を感じないのかもしれねえけどな」


「実希子ちゃんだって同じでしょ」


 菜月同様、実希子も大幅な体型変化がないので制服を新調したりはしていない。使い込んで古くなったのを予備のと交換した程度だ。


「あ、実希子ちゃん、お帰り」


 夕方の分の仕込みを終えた葉月も厨房から顔を出す。同時に笑顔で菜月を見てくるので、多少は鬱陶しかったりもする。


「あのね、はづ姉、そろそろ見慣れてくれないかしら」


 菜月がムーンリーフに入社して以来、暇ができるとわざわざカウンターで働きぶりを見物に来るのだ。


「だって、なっちーと一緒に働けるのが嬉しいんだもん」


「はいはい、じゃあ受付ははづ姉と実希子ちゃんに任せて、私は好美ちゃんを手伝ってくるわ」


「「えー」」


「えー、じゃないわよ。二人とも事務作業が苦手だからといって、好美ちゃんに任せきりなのは感心しないわ。万が一の時はママに手伝わせるつもりなのでしょうけれど」


 えへへと笑う姉にため息をつきつつ、菜月は好美の部屋へ向かう。


 相変わらずムーンリーフの事務所みたいになっているが、基本的に綺麗好きな好美のおかげで家具は多くても室内はきちんと整っている。


 昼休憩をしていた尚と入れ替わりで、好美の隣に座る。カウンターに立ったりもするが、菜月の基本的な仕事は事務作業になる。


「それにしてもさすが元行員よね、仕事もすぐに覚えちゃったし」


「……苦労していたんですね」


「ええ……葉月ちゃんの仕事をこれ以上増やすわけにはいかないけど、実希子ちゃんと尚ちゃんには幾ら教えても手応えがないし……」


 眼鏡の奥が若干濡れて見えるのは気のせいではないだろう。


「菜月ちゃんが入社してくれたおかげで本当に助かるわ」


「そう言ってもらえると帰ってきたかいがあります」


 家族だけでなく友人や知り合い、それに昔からのムーンリーフのお客さんも菜月が戻ってきたのを心から喜んでくれた。


 何より菜月自身の気持ちが、もう何年振りかもわからないほど落ち着いていた。


   *


「私も一緒に行く」


 菜月たちの視線を一身に浴びる希が、いつになく強硬に態度を表明した。


 ムーンリーフに入社して一ヵ月。昔から誰より菜月に懐いていた希は、すっかり店に入り浸るようになっていた。


「でものぞちゃん、県中央からじゃ学校に通えないよ」


「転校する」


 断言した希に、穂月のみならず沙耶や悠里、それに凛と陽向も絶句する。行員時代からこまめに帰省していた菜月は全員と面識があった。


「のぞちゃんと離れ離れになるの?」


「大丈夫。全員で転校すれば問題ない」


「おー」


「おー、じゃないでしょ。穂月と希ちゃんは両親がまあ、あれだから構わないかもしれないけれど、他のお友達を巻き込むのは感心しないわ」


「おい、葉月、お前、あれ呼ばわりされたぞ」


「なっちーはツンデレだから」


 菜月はわざと聞こえるように話している外野の声を無視して、希と目線を合わせる。成長がだいぶ早いらしく、身長がほとんど変わらなくなっているのはショックだが、そんなことを気にしている場合ではない。


「慕ってくれるのは嬉しいけれど、希ちゃんも自分の生活を大切にしなさい。学校も友人も嫌ではないのでしょう? それに2号店は穂月も言った通り県中央なのだから、その気になったらすぐに会えるわよ」


「……うん」


 まだ不満げだが、それでも希は納得してくれた。嬉しくなった菜月は少女をそっと抱き締める。


 その光景を見ていた姉とその友人が、柔らかな声で話す。


「なんだか親子の感動の場面みたいだね」


「アタシもそう思うけど、言わないでくれ。悲しくなるから」


   *


 春も間近という季節になり、菜月はますます忙しい日々を送っていた。


 帰りが遅くなれば茉優の部屋に泊めてもらったりもするが、基本的には真と一緒に片道一時間ほどかけて通勤していた。


 菜月自身家族との時間も大切にしたかったし、友人と一緒に働きたくもあったのでこれが最善だと判断した。


「ふわあ、先月の売上も伸びたねぇ」


 菜月が操作するPCを、午前中の仕込みを終えた茉優が背後から覗き込むなり驚嘆した。


「まだまだ本店には届かないけれどね。というより異常だわ……大口の注文も多いとはいえ、町のパン屋さんの売上ではないわよ……」


「いっそ近くに工場を作ろうかって話も出てたねえ」


「沢君が県内の配送をするようになって、余裕のできた和也さんが隣県にまで商品を卸しに行ってるし……はづ姉と好美ちゃんはどこまで規模を大きくするつもりなのかしら」


「きっと茉優たちだけでなく、愛花ちゃんたちや穂月ちゃんたちが全員働きたいって言っても頷けるくらいまでじゃないかな」


「……あり得るわね」


 細い人差し指で菜月は眉間を軽く押さえつつも、表情を和らげる。


「後で確認をする必要はあるけれど、そうだというのなら妹として社員として手伝わないわけにはいかないわね」


「茉優も頑張るよぉ」


   *


「今日も疲れたわね」


 帰りの車中でふと零すと、ハンドルを握る真が嬉しそうに応じた。


「でも向こうにいた時よりずっと楽しそうだよ」


「おかげ様でね。でも……」


 菜月は夫になった真の横顔を盗み見る。信号が青になって通り過ぎる車のヘッドライトに照らされる表情はいつもと変わらない。


「真は大変ではないかしら」


「全然、むしろ楽しいよ。正社員じゃないけど美術館で働けて、それ以外にも大切な奥さんや友達と一緒に働けるんだから」


 事務員として県中央の美術館に入社できた真は、掛け持ちという形でムーンリーフにも籍を置いている。


 朝の仕込みは茉優と恭介がやっているため、二人より遅めとはいえ通勤もあるので普通の会社員よりも朝はずっと早い。


 事前に話し合っていたとはいえ、真にかかる負担は決して軽くなかった。


「そう言ってもらえるのは助かるのだけれど……」


「心配しないで、通勤だって苦にしてないから。なにせ最愛の妻と一緒だからね、むしろご褒美だよ」


「……ありがとう。愛しているわ、あなた」


 運転の邪魔にならないように、真の肩に一度だけコツンと頭をぶつける。


 そのあとで窓から見上げた星空は、都会のよりもずっと綺麗に思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る