第437話 菜月の決断。幸せについて考えたらうっかり暴走したけれど、後悔はありません
「それはつまり結婚や出産は諦めろということですか?」
正面に座る上司を見据え、菜月は相手の真意を単刀直入に確かめる。
応接室に呼ばれ、近々また昇進があると告げられた直後、女性であるよりも銀行員であることを優先しろ的な雰囲気を匂わされた。
「そうは言っていない。だが出世争いでは不利になるのは否めない」
足を組んだ上司の言は、暗に菜月の問いかけを肯定したも同然だった。
「君は私が思っていた以上に優秀だった。我が銀行初の女性頭取という将来も夢物語の類ではなくなりつつある。だからこそ足を引っ張りかねない要因は排除すべきだと忠告しているのだよ」
「……わかりました」
「聞き分けが良くて助かるよ。やはり君は優秀だ」
便利で外受けの良い操り人形が欲しいだけですよね、とは間違っても言わない。
誰にも漏らさず、隠し通してこその本音なのだ。
(そもそもこの業界で本音と建て前が別なのは日常茶飯事だものね)
内心でたっぷりため息をつきつつも、表情には一切出さない。これも菜月が行員生活で会得したあまり嬉しくない特技だった。
*
「あれは絶対に私と真のことを知っているわね」
夕食を作って待ってくれていた同棲中の彼氏に、帰宅するなり菜月は愚痴を零した。どこに目や耳があるかわからないので重要な話を家ですることは滅多にないが、今回の件は真にもおおいに関係がある。
「僕は菜月ちゃんを応援するよ」
辞書に躊躇という言葉が載ってないかのような即断だった。
「もしかしたら同棲を解消することになるかもしれないのよ?」
「……寂しいけど、それが菜月ちゃんのキャリアのためになるなら我慢するよ」
「真は物分かりが良いわね。あの上司なら大絶賛しそうだわ」
「あはは……でも夢を叶えるチャンスがあるのなら、全力で追いかけてほしいのは事実だよ。望んでもそれができない人だっているんだから」
寂しそうな真を見て、菜月は何も言えなくなる。
彼氏だけではない。友人の夫の宏和もまたプロ野球という夢の世界に進みながら、結果を残せずに途中で諦めるしかなくなった。
ソフトボールで実業団に入った涼子もすでに現役から身を引いて、そのまま同じ企業に社員としてお世話になっているという。
「まだ先を見られるだけでも菜月ちゃんは凄いんだよ。こういう言い方はどうかとも思うけど、選ばれた一握りの人間なんだ。僕は努力しても届かなかった側の人間だから、余計に強くそう感じるかな」
「……真の気持ちはわかったわ」
「うん、それに僕は菜月ちゃんと一緒にいられるなら、結婚という形にこだわらないよ。子供もいなくてもいい」
菜月は改めて頷き、彼氏との話し合いをひとまず終えて、冷めてしまった夕食を温め直して食べることにした。
*
女性初の頭取になる。国の女性支援策が絡んでいようと、時流に乗ったおかげだろうと、一昔前では絵空事でしかなった野望を実現できるかもしれない。
それは菜月にとって、歓迎すべき現実のはずだった。
「私も来年で32歳になる。ここで決断して進んだら、きっともう引き返せなくなると思うのよ」
前夜の彼氏との話し合いを経て、昼休みにカフェで菜月が電話をかけた相手は姉の葉月だった。
滅多にない菜月からの相談に最初は姉らしさを見せようと電話向こうで張り切っていたみたいだが、話が進むに連れて深刻な内容だと理解したらしく、普段のどこか楽観的な元気さは声から消えていた。
「なっちーのしたいようにとしか言えないけど、なっちー自身も迷って簡単に決められないから私に相談してくれたんだよね」
うーんと少し考えるようにしてから、
「私がなっちーの立場だったら、多分、真君の好意に甘えてると思う」
「……意外だわ。まさかはづ姉がそう答えるなんて」
「夢を追いかけられて、大好きな人も離れずにいてくれて、でも甘えてばかりは申し訳ないから、自分のできるすべてで仕事にも真君にも報いようとするかな」
「そこははづ姉らしいわね」
「アハハ、あ、そうだ。丁度、好美ちゃんがいるから、話してみるといいよ」
「え?」
少しして電話に出てくれた好美は事情を聞いていないらしく、菜月よりも戸惑い気味だった。
「はづ姉がすみません」
一言だけ謝罪をしてから、簡潔に悩みの内容を説明する。
「私も葉月ちゃんと同じように、自分が菜月ちゃんと同じ立場だったらという観点で考えてみるわね。まあ、悩む必要もないんだけど」
スマホ越しでも苦笑いしているとわかる声で、しかし好美ははっきりと告げる。
「即座に会社を辞めて、大切な人と一緒にいるわね」
誰よりシビアでありそうに見えながら、誰より義理人情に厚い好美ならではの解答だった。
普段の姿からは真逆の決断をしそうな2人に、なんだか菜月は少しだけおかしくなった。
*
葉月と好美に相談したついでにと、菜月は茉優にも電話をかけてみた。付き合いの長さは真とほとんど同じで、同性では1番の親友だ。
学生時代から交際していた男性と結婚し、今は葉月から任されたムーンリーフ二号店で頑張っているはずである。
忙しい時間帯は抜けているのか、それとも菜月からだとわかったからか、親友はすぐに電話に出た。
「いきなりごめんなさいね」
「なっちーならいつでも大歓迎だよぉ、お客さんだって待たせちゃうよぉ」
「それはやめなさい」
冗談だとわかっているので、いつもの調子で窘める。
「ねえ、茉優は恭介君と結婚して幸せ?」
「うん、とっても幸せだよぉ。誰かと一緒だとポカポカするんだぁ。だからきっと茉優はパン屋さんも大好きなんだねぇ」
美味しいパンを作ってお客さんの喜ぶ顔を見たい。接客業の中でも自分の力で笑顔にしていると実感できる分だけやりがいがある。
スマホから伝わってくる茉優の声は心から楽しそうで、心から嬉しそうで。
菜月は心から羨ましくなった。
「なっちーは幸せじゃないの?」
「どう……かしらね。でも、自分のしたいことは見えたような気がするわ」
「そっかー、なら良かったよぉ」
「ええ、ありがとう。それと……またね、茉優」
「うん、またねぇ」
通話を終えた菜月はスッキリした気持ちで顔を上げる。
深くなりすぎた悩みが靄になって常に目の前を覆っていたが、今は跡形もない。
「私が幸せだと思うこと……そんなのは最初から一つしかなかったわね」
*
「会社に辞表を提出してきたわ」
帰宅するなりの第一声に、キッチンで今日の晩御飯のムニエルを温めようとした真が絶句した。
「どうして!? 菜月ちゃん、ずっと女性初の頭取になってやるんだって頑張ってきたのに」
「そうね、お金を扱うのは好きだし、銀行という仕事は天職みたいに思ってるわ。でもね、やり甲斐はあっても幸せに繋がっているのかはずっと自信がなかった」
上着をハンガーにかけ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで喉を潤す。
「私が中学生の頃だったと思うけど、怪我をした実希子ちゃんが実業団を辞めて帰ってきちゃったのよね。チームも待ってくれていたみたいなのに、勿体ないというのが感想だった」
リビングに置かれたテーブルを挟んだ正面に真が座る。ソファではなく、菜月の希望で座椅子を使っている。
「だから実希子ちゃんに直接聞いてみたの。何て言ったと思う?」
「よくはわからないけど、実希子さんのことだから、きっと後悔はしてなかったんだろうね」
「ええ、実希子ちゃんはね、ソフトボールは好きだけど、はづ姉たちと遊ぶのがもっと楽しかったと言ったの。それを聞いて中学生の私はますます混乱したんだけど、今になって当時の実希子ちゃんの気持ちがわかったわ」
「つまり?」
「私は大好きな友達や彼氏に囲まれて、お金に携わる仕事がしたいの。どちらが欠けてもきっと満足する幸せは得られない。だいぶ時間がかかったけれど、ようやく自分の正直な気持ちに気付けたのよ」
友人たちと離れ離れになっていても、最愛の男性が常に傍にいてくれた。だから菜月は全力で仕事に打ち込めたし、楽しく、幸せでもあった。
「人によっては私を弱いと言うでしょうけれど、それで構わないわ。だって誰かに強いと褒められたくて生きているわけではないもの。私はただ幸せになりたいの。夢も仕事もそのための手段の1つ。まあ、その幸せを掴むのが何より難しいのだけれどね」
「菜月ちゃん……」
「考えてみて? 真は海外留学するとプロの画家になれるけど、私のことは諦めろとスポンサーに言われた場合どうする?」
「ええと……」
「へえ、悩むんだ。そうなんだ。へええ」
「わああ、ごめんなさい! でも、菜月ちゃんだって上司の人から話をされた直後は悩んでたよねっ!?」
「上手く逃げたわね。可愛げはないけれど」
腕組みをしつつ、実際にその通りなので追及は止めておく。
「最後に確認だけど、菜月ちゃんは本当にそれでいいの?」
「良いも何も、もう辞表は出してきたもの。散々嫌味を言われたし、辞めるのはまだ先でも私の居場所なんて明日から――いいえ、もうすでにないわよ」
肩を竦めて、フッと軽く鼻で笑う。
寂しさはない。むしろ晴れ晴れとしている。きっといつかの実希子も、今の菜月と似た心境だったに違いない。
「春までには地元に帰りたいから、少し忙しくなるわね。あ、真はどうする?」
「もちろん一緒にいるよ。菜月ちゃんが何を目指すにしても、一番近くにいて応援するのが僕の役目であり、幸せだからね」
照れ臭そうに笑いつつ、真は「でも……」と言葉を続ける。
「僕を信頼してくれてるからだとはわかってるけど、次は事後承諾はなしでお願いしたいかな」
「そうね、その点は私に非があるわ。茉優と電話していたら、衝動的にやってしまったのよ。意外と不満やストレスが溜まっていたのね」
「……1つ気になったんだけど」
「何かしら?」
「帰ってはづ姉さんのお店を手伝うつもりなんだよね?」
「そうよ」
何を今さらとばかりに訝しむ菜月に、真は酷く真面目な顔をした。
「そのこと……オーナーのはづ姉さんから許可貰ってる?」
「……あ」
すぐに電話をして当たり前に許可は貰えたが、人間、衝動だけで行動するものではないなと菜月は痛感した。
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