第401話 道
「……野球の練習してる方が、まだ気が楽だ……」
木々から彩が消え、厳しい冬の足音がすぐそこまで迫っている田舎道を歩きながら、宏和はぐったりした気持ちを隠さずに愚痴った。
すぐ前を歩く父親が振り返り、何故か満面の笑みを見せる。
「はっはっは。
昔ならともかく、今時の名家はそんなに楽ではないからな」
「俺はてっきり、威張っていればいいとばかり思ってたよ」
もちろん冗談だが、泰宏も気持ちはわかるのか、何度か軽く頷いた。
「継がせるかもわからなかったし、宏和には俺の仕事を教えてなかったからな。イメージだけで勝手な想像をするのもある意味当然だよ」
「そうは言っても肉体的には楽なんだけどな。基本的に地元の挨拶回りが多いし」
戸高家で所持している土地――というか山の管理は親族が行っている。
金銭が絡む仕事は信頼できる親族に任せているが、だからといって放置しておけるわけでもない。
書類を見たり、親族のところに顔を出したり、地元の商店街の様子を見たり、困ったことがないか聞いて回ったり、地元の有力者と会合したり、やることは様々だ。
「いっそ親父が議員にでもなった方が早いんじゃないか?」
「んー……
宏和が家を継いでくれるのであれば、それも一つの手ではあるな」
冗談半分に言ったつもりが、
どうやら父親の頭の中にはそのプランもあるらしかった。
町議会議員や町長はほぼ選挙がない。というのも戸高家の支援がなければ、立候補したとしてもまず受からないからだ。
息がかかった人間ばかりの町議会で、昔から戸高家と付き合いのある家に便宜を図る。まさにザ・田舎といったような風習みたいなものだが、閉鎖的な地域であるだけに今日までまかり通ってきた。
「親父はいつまでもこの状態が続くと思うか?」
野球を辞めて、家族を食べさせていくには安定的な収入は必須だ。
宏和をサポートするために妊娠にも気を遣っていた妻も、これからは子供を欲しがるだろう。宏和自身も欲しい。
そうなると警察の世話になって、子供に悲しい思いなんかはさせたくない。
そこらを含めての質問だったが、鈍いようでいて意外と鋭い泰宏はきちんと宏和の意図を把握していた。
「良くも悪くも情報を隠しておけなくなってきたからな。昔ながらのやり方は通用しなくなっていくと思う」
地元の在り方に不満を示した若者がSNSなどを使って情報を拡散。
表に出なかったからこそ不都合な真実を黙認していた行政も、炎上するように情報が広がれば対処せざるを得なくなる。
「この田舎町も少しは風通しが良くなるのかね」
「わからないな」
顎を指で挟み、思案する泰宏が難しい顔をする。
「確かに悪い面もあるけど、利益を享受している人間がいるのも確かだ。戸高家でいえば地元に残ってくれる若い人に就職を斡旋したりもしている」
戸高家がお金を出して運営している企業も複数あり、まとめて戸高グループなんて呼ばれ方もしている。
地元にはそうした店や企業が多く、そこで仕事の世話をしてもらっているからこそ、選挙などでは戸高家が推薦した候補者に票が集まるのである。
「やれやれ。これからは試合の流れじゃなくて、時代の流れを読めってか。ますます二軍で泥に塗れてた方が楽に思えてくるぜ」
「はっはっは。プロ野球の世界に進んだのが宏和の意思なら、家族のために地元に戻って家を継ごうと決めたのもまた然りだ。
俺がやっている個人投資の件も含めて覚えることは山ほどある。このぐらいで音を上げてる場合じゃないぞ」
「わかってるよ。んじゃ、気合を入れていくとするか」
「その前に昼飯だけどな。腹が減ってはなんとやらと言うだろ」
「人がせっかくやる気を出したってのに……」
*
夫の宏和が苦味たっぷりの笑みを零している頃、戸高家では愛花が義母となった祐子に礼儀作法を習っていた。
優雅に見える座り方、立ち方、歩き方。
お茶の出し方、来客への対応。
次々と示される細かな指示に懸命についていきつつも、
目が回りそうになっていた。
「少し休憩した方がいいみたいね」
「す、すみません……」
「謝らなくていいわよ。私だって最初はそんな感じだったし」
当時を思い出しているのか少しだけ懐かしそうな顔を――
――したあとで義母は憎々しげに舌打ちをした。
「ど、どうしたんですか、お義母様」
「ああ、ごめんなさい。昔のことを考えてたら腹が立ってしまって」
こめかみに人差し指を当て、大きなため息をつく祐子。
「私の時は義理の両親が鬼籍に入ってしまってたから親族の方が教えに来てくれたんだけど、これが指導というよりいびりでね……」
親族でも本家に近い筋の年配の女性で孫娘が一人いた。
祐子が外から戸高家に嫁いでこなければ、泰宏の嫁候補として有力視されていた娘であり、本人も家族もその気だった。
「私に横から掻っ攫われる形になっちゃったからね。表立って文句は言わないけど、私への風当たりは相当強かったのよ」
権限は夫である当主が上でも、家計を預かるのは妻である。何より夫をベタ惚れにできれば、自分たちに近い親戚筋に便宜を図ることができる。
「息子が生まれれば次期当主になるし、自分たちの一族が本家を乗っ取ることも可能だと思ったのかもね。夫の肉親には和葉さんもいるけど、一度勘当された身だから、その子が本家を継ぐのに反対する親族も多く出るだろうし」
「……なんだか……あ、いえ、何でもないです……」
言葉を途中で止めた愛花に、祐子がクスリとする。
「はっきり言っていいのよ。お粗末な田舎の醜い権力争いだって」
まるで昔よくテレビで放映されていた二時間のドラマであったお家騒動そのままである。こちらは殺人などないし、探偵じみた人間もいないみたいだが。
「それを面倒だと思ったから、あの人も宏和に積極的に継がせようとはしなかったのね。自分たちで暮らしていけるなら、家を捨てても構わないと思っていたはずよ」
そのための準備かは不明だが泰宏は個人で投資をしており、今では本業よりも利益を上げつつあるらしかった。
「だから愛花ちゃんも嫌になったら捨てちゃっていいんだからね」
あまりに過激な発言に、さすがに愛花も「え?」と目を丸くする。
「心身の平穏を犠牲にしてまで、この家に尽くす必要も義理もないってことよ」
「で、ですがお義母様も……」
「経験したからこそ言ってるのよ」
祐子による愛花へのため息交じりの忠告は続く。
「私は途中で宏和のためにここを離れたし、頻繁に和葉さんのところにお邪魔してガス抜きをさせてもらってたからね。それがなければどうなってたことか」
改めて祐子は戸高家を魑魅魍魎の世界だと評した。
「だから無理だけは絶対にだめよ。愛花ちゃんは頑張りすぎるところがあるみたいだから」
「は、はい、ありがとうございます」
「あとは上手いストレス発散の方法を見つけることね」
「それなら大丈夫です」
そう言って、愛花は途中で成長が止まってしまった胸を張る。
「私にも親友がいますから」
*
仕事が休みの日に訪れた珍しい来客にお茶を出しながら、菜月は表情を緩めた。
忙しすぎる日々だからこそ、こうした瞬間は何よりの癒しになる。
「悪いな、突然来ちまって」
早朝に連絡があり、それから昼過ぎには飛行機で東京までやってきた宏和が頭を掻く。隣には仲良さげに妻の愛花が座っている。
「別に構わないわよ。真は残念がっていたけれど」
籍は入れてなくとも、ほぼ夫同然の同居人はアルバイトをしている絵画教室を休むことができず、名残惜しそうにしながらも出勤したばかりだ。
「別に会う機会ならまたあるだろ。今回みたいな出張も多くなりそうだし」
戸高家を継ぐと決めた宏和は父の泰宏について仕事を教わっている最中で、顔見せも兼ねて出張があれば代行として送り出されているらしかった。
「それに付き合わされる愛花も大変ね」
「夫を支えるのは妻の役目です。それに……」
少しだけ言い難そうにした愛花に、宏和が破顔する。
「はっきり言っていいぞ。あの家にいるより楽だってな」
宏和が正式に次期当主に指名されてからというもの、家への来客が増えたらしい。あまり家の事情に詳しくない愛花になんとか取り入って、便宜を図ってもらうつもりなのだろうと宏和が説明する。
嫁いだばかりの愛花が一蹴するわけにもいかず、また彼女の世話役を一手に引き受けている祐子が所用でどうしても家を空けなければいけない日を狙って来るという。
「だから愛花にとっても息抜きになるわけだ。菜月には迷惑かけちまうけど、予定が合えばなんとか付き合ってやってくれ」
「頭を下げる必要はないわ。私にとっても愛花や茉優といった友人と会ってお喋りするのは楽しいし、ストレス発散になるもの」
「菜月……」
ありがとうと言って愛花が菜月の手を握る。
感激したというだけでなく、どうやらかなりのストレスを溜め込んでいるみたいだった。
「気にしないで。これからも東京へ来る予定があるのなら教えてちょうだい」
戸高家についての話が一段落したところで、
宏和が「そうだった」と話題を変えた。
「親父が菜月の銀行とも取引しようかと言ってたがどうする? それなりの額になるから、菜月のためにもなるんじゃないか?」
成績向上のためには願ってもない話だったが、菜月は即座に頷けなかった。
「ありがたい話ではあるけれど……」
「どうかしたんですか?」
心配そうに愛花が顔を覗き込む。
「実は……少し迷っているのよ」
「迷い?」
首を傾げた宏和に、微笑んで頷く菜月。
「自分の進むべき道というか……難しいのだけれど……」
少し俯き加減になった菜月の両手が、テーブルの上で柔らかな温かさに包まれた。いつになく真剣な顔つきをした愛花が、菜月の手を力強く握っていた。
「悩みがあるなら相談してください。菜月のためなら何でもしますから」
「家族には言い辛いことが、逆に友人には言い易かったりもするからな。俺も愛花と同じ気持ちだから、間違っても遠慮なんかするんじゃないぞ」
「ええ……ありがとう……。
その時がきたら……絶対に相談させてもらうわ」
しっかりと構築されている頼もしい友人関係に、
菜月は目を細めてお礼を言った。
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