第399話 皆で海水浴

 暑苦しいほどにまとわりつく夏の太陽も、水辺にくれば親しい友に変わる。


 水飛沫を上げて、押し寄せる波にはしゃぐ愛娘に葉月は目を細める。


 腰にフリルのついたワンピースタイプの水着は、穂月の可愛らしさを一段と強くしていた。


「子供は元気なのが一番だな」


 豪快なビキニ姿の実希子が、はっはっはと朗らかに笑う。

 三十半ばも過ぎようとしているのに、肌を露出するのを些かも躊躇わない彼女は勇者である。


 お腹のお肉が気になりだした葉月とは対照的に、いまだに母校のソフトボール部を手伝いに行っているからか、実希子の肉体は引き締まっている。


 それでも学生時代と比べれば筋肉量が減っているのだが、逆に女性らしい丸みが増えて、同性でも羨むほどのメリハリのついたセクシーボディとなった。


 もし周囲に男性の海水浴客がいたら、確実に注目を浴びていただろう。


「大人だって元気が一番だよ」


「違いない」


 小学生の朱華や幼稚園の穂月が夏休みに入った一日。

 今年は夏に社員旅行用の休日を取り、住んでいる町よりさらに北方に位置する海に全員で遊びに来たのである。


「ここの海は静かね。こんな穴場があるなんて知らなかったわ」


 白地のTシャツにホットパンツ姿の好美が、風にそよく前髪を手で押さえる。

 眼鏡の奥で細めた目は真っ直ぐに、どこまでも青い海岸線を見ていた。


「おいおい、せっかく海に来たんだから、どーんと水着を披露しちまえよ。周りにゃアタシたち以外に人がいないんだから、恥ずかしくもないだろ」


「実希子ちゃんみたいに体形を維持できていればね。日頃の運動不足の自分を恨みたくなるわ」


 腰に手を当てた実希子は、ジト目の好美に何言ってんだ的な顔をする。


「好美だって崩れてるっていうような体形じゃないだろ」


「見えないところが色々とヤバイのよ。

 実希子ちゃんみたいな化物と一緒にしないで」


「んなこと言われても、アタシだって運動不足気味だしな。

 それに化物はあっちの人だろ」


 実希子が顎で指し示した先には、愛する夫と水辺ではしゃぐ和葉の姿があった。


 しなやかそうな体つきから伸びる、すらりとした脚。

 ビキニとは違うオーソドックスな白い水着は地味めなのに、夏の太陽を従えて水を跳ねさせる様は女神を彷彿とさせる。


「とても五十代半ばに差し掛かってるとは思えないんだがな」


「確かに……。

 理想ではあるけど、遥か遠すぎて私には届きそうもないわ」


 苦笑する実希子の前で、好美がガックリと肩を落とした。


「あはは……ムーンリーフでも途中で体操の時間とか取った方がいいかも」


 好美ともども、たるみが目立ちだしているお腹の肉が気になり中の葉月は、そんな提案をしてみるのだった。


   *


 実希子が子供たちと一緒に遊びに行ったので、荷物番を好美に任せた葉月は浜辺を散策する。


 以前に春道が紹介してくれた穴場の海だけに、あまり整備されているとは言い難い。海の家も古びたものが一軒あるだけなので、食料や飲料の準備は必須だ。


 砂浜もわりと狭く、左右には高く積まれた岩があり、足場も悪い。

 飛び込みなんてして遊んだら溺れる危険性が高いので、子供たちには岩場へ近寄らないように口酸っぱく事前に注意した。


 もっとも普段はあまりできない家族サービスをしようと、父親陣がここぞとばかりに張り切っているので、勝手に遠くへ行く心配はないだろう。


「お、春也はもう泳げるようになったのか、凄いぞ」


「えへへ」


 父親に手を掴まれながらバタ足を披露した春也が得意げに笑う。

 三歳になって体も少しずつ大きくなり、普段から元気一杯だ。


 智之と晋太も、それぞれ男の子たちに泳ぎを教えている。

 若干一名、全然乗り気でない男児もいるが。


「智希、泳ぎを覚えておかないと、お姉ちゃんに何かあった時、助けてあげることができないぞ」


 少々不安を覚えた葉月だったが、さすがに父親だけあって智之は我が子の扱いを十分に理解していた。


 父親の台詞で目の色を変えた智希が、先ほどまでのやる気のなさが嘘みたいに張り切りだす。


「腕をこうやって動かして……。

 違う、智希。それはバタフライだよ。クロールじゃない」


 なんやかんやで楽しそうな父子から視線を移動させると、浜辺では実希子が子供たちとビーチバレーをしていた。


「はっはっは、その程度じゃアタシを倒すことなんてできないぞ」


「ちょっと実希子ちゃん、さすがに大人げないわよ」


「何言ってやがる。朱華だけじゃなく穂月も来年には小学生だ。ここらで人生の厳しさを覚えておいた方が、入学してから戸惑わずに済む」


「何言ってんだって言いたいのはこっちよ。単に負けず嫌いなだけじゃない」


「はっはっは、そうとも言う」


 まるで悪びれない実希子に、どうやら2対1の変則試合の審判をしているらしい尚が盛大にため息をつく。


 セパレートタイプの水着に灰色のTシャツを羽織っている尚が、砂を踏み鳴らして即席のコートに入った。もちろん陣取るのは女の子たちの背後だ。


「こうなったら三人であの魔王を倒すわよ」


「誰が魔王だ!」


 わざとらしくぷんすかしながらも、体を動かすのが大好きな実希子は突然の展開にも嬉しそうだ。


「葉月ちゃん、手が空いてるなら審判をお願い」


 葉月の姿に気付いた尚にお願いされ、頷いた葉月はコート脇に立つ。

 足元にはこれまでの得点が刻まれていた。


 10対0。


 尚が実希子を大人げないと叱責するのも当然の状況だった。

 なので葉月の声援も必然的に偏る。


「朱華ちゃんに穂月、それに尚ちゃんも頑張ってー」


「くおっ、アタシの周りは敵ばかりか!」


 元気に応じた子供たちの正面で、大げさに頭を抱える実希子。


 その隙にとばかりに、朱華がサーブを打つ。

 山なりだがきちんと実希子のコートには入っている。


「甘い、甘い」


 高くレシーブして、自分でスパイクを打つ実希子。


 空気で膨らませたビーチボールが破裂しそうな音を鳴らし、空気抵抗を無視したような一撃が穂月たちのコートを襲う。


「それはこっちの台詞なんだけど!」


 学生時代から実希子は別格だったが、尚もまた高校から始めたソフトボールで大学から声がかかるほどの逸材である。


 強烈なスパイクを難なく受け止め、トスを上げやすいボールを朱華に返す。


「ほっちゃん!」


「あいだほっ!」


 ぴょんと飛び跳ね、子供用に低く設置してある木の棒と紐だけの即席ネット――というかハードルみたいになっている――の上からスパイクを叩き込む。


「やるなっ! だが簡単に越えさせてやるほど、アタシの壁は低くないぞ!」


   *


 白熱した試合の審判を終えて海辺の散策を再開すると、パラソルの下で即席チェアで体を休めている菜月を見つけた。


「だいぶ盛り上がっていたみたいね」


 同時にお互いの存在に気付いた菜月が、微笑みながら葉月に声をかけた。


「最後まで実希子ちゃんは大人げなかったけどね」


「聞こえていたわ。幾つになっても変わらないわね」


 ため息をつきながらも、妹の頬が微かに緩んだのを葉月は見逃さなかった。


「でも、それが逆に安心するんだよね」


「否定できないわね。忙しい日々を過ごしていると、たまに味わう変わらない世界が色鮮やかに見えるもの」


「なっちー、ずいぶんとお疲れだね」


 葉月たちが皆で海水浴に行くと聞いて、わざわざ夏休みを早めにとって予定を合わせてくれた妹は、今もメガバンクで懸命に働いている。


「まあね。とは言っても仕事自体はやりがいもあるし、肉体的にはそこまで疲れてもいないのだけれどね」


 勤務年数が増えるにつれて、仕事以外で心労を積み重ねるはめになるとは思わなかったと、さすがの菜月もげんなりだ。


「でも、私の気苦労なんて愛花に比べれば可愛い方よ」


「あ……宏和君のことだね」


 プロ野球選手として日々頑張っている宏和は、当然ながらこの海水浴に参加していない。彼を補佐する妻の愛花も同じだ。


「去年の後半が良かったから、今年こそはと思ってたんだけどね……」


 自然と葉月の表情と声も重くなる。

 明るく話せないほどに、今シーズンの宏和の成績は下降していた。


「体に不調があるわけでもないのに、球が走らないってぼやいていたわね。そんな状況でも愛花に八つ当たりしないところだけは褒めてあげたいけれど」


「そっか……」


「なんとか頑張ってほしいわね」


「うん……。

 あっ、希ちゃん、こんなとこにいたんだ」


 一人姿が見えなかった希が、菜月の陰に隠れるようにして、菜月と同じタイプで子供用のアウトドアチェアにちょこんと座っていた。


 背もたれに描かれたデフォルメされた動物の絵が、なんとも可愛らしい。


「相変わらず懐かれてるね」


「帰省する時に何かしらの本をあげているからね。呑み込みが早いから、私もついつい構いたくなってしまうのよ」


「あはは、なっちーと同じ文学少女の素質があるんだね」


 菜月と一緒と言われたのが嬉しいのか、無表情なのは普段と変わらなくとも、希の頬がほんのりと赤みを増した。


 新しく借りたのか、胸には大切そうに一冊の本を抱いている。


「それってハードカバーの小説? 幼稚園児なのに読めるって凄いよね」


「わからない漢字は飛ばし読みして、あとで辞書で調べるみたいね。知識の吸収に貪欲だから覚えも早いのよ」


「前から凄い子だとは思ってたけど……。

 なっちーで免疫があって良かったよ」


「……どういう意味か聞いてもいいかしら」


「あ、あはは。

 そういえば実希子ちゃんは最近、変に嫉妬しなくなったんじゃない?」


 望まぬ流れになりつつあったので、葉月は強引に話題を変えた。

 すると菜月は先ほどよりも、さらにげんなりとする。


「余計に拗らせているみたいよ」


「え?」


 菜月に教えられて背後を振り返ると、離れた岩陰に隠れてこちらの様子を窺っている実希子がいた。


「……いつの間に」


「まあ、心配する必要はないと思うわよ」


「そうなの?」


「あれが実希子ちゃんと希ちゃんの一種のコミュニケーションになっているみたいだもの」


 葉月にはわからなかったが菜月曰く、菜月を介して母娘間の交流を叶えているらしかった。


「さて、実希子ちゃんに絡まれる前に、私はまた体を動かしてくるわ。そろそろ茉優も迎えに来そうだし」


 真が砂の城を作り始めたので、茉優や恭介は手伝っているのだという。


 菜月も途中までは参加していたが、少し日陰で休むと伝えてここにいたそうだ。

 ちなみに希は最初から最後まで、菜月の後ろを追いかけているらしい。


 菜月と希が一緒に砂浜を歩き始めると、すぐに実希子も移動を開始する。

 もしかしたら話しかけるタイミングを計っているのかもしれない。


「ママーっ!」


 自分はどうしようか迷っていると、

 元気な愛娘が後ろから太腿にタックルしてきた。


「うわっ、穂月? どうしたの?」


「いっしょにあそぼー」


「フフ、そうだね。せっかく海に来てるんだしね」


 少し離れた場所では朱華が元気に手を振っている。

 その後ろには微笑む好美と尚が立っていた。


 娘の小さな手に導かれながら、葉月も笑顔で仲間たちの輪に戻るのだった。

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