第396話 菜月の行員生活

 大手メガバンクに就職をして数年。


 当初の予定通りに菜月は金利や為替などを取り扱う市場業務の関連部署へと異動していた。


 大きな功績を上げたとかではなく、大きな失敗をしていないので、働く女性に脚光をという国の方針のもと、菜月に女性幹部へと繋がる道が用意されたに過ぎない。


 重要なのは爪痕を残してやろうなどと考えず、無難に日々を過ごすこと。


 だが、これが厄介なまでにストレスが溜まる。

 今日もため息をつきつつ、業務に就こうとすると、目出度く本部に戻ってきていた同期の男性社員が歩み寄ってきた。


「聞いたか?」


「何を?」


 足りない説明で理解できるような超能力者ではないので、相手に視線を向けないままで菜月は質問に質問で返した。


「鶴橋常務のことだよ」


「出世でもするのかしら」


「違う、その逆だ」


 ここで初めて菜月は相手の顔を見る。

 露骨にニヤニヤして不快極まりないが、決して態度には出さない。


「スキャンダルだよ。不倫を週刊誌にスッパ抜かれたらしい」


 脇が甘いよなと笑う男性社員に対し、椅子に座ったままの菜月は腕組みをする。


「常務は次の頭取候補の一人でもあったわよね」


「だからこそ、ここで問題が発生したのは致命的だよな。人望が厚いなんて言われてたけど、あの人も所詮男だったってこった」


 ケラケラ笑いながら、不快な同期が去っていく。

 あれだけを教えるために、わざわざ菜月のもとまで来たのだろう。


「……どこもかしこも出世争い。

 嫌になるけれど、これもメガバンクの宿命なのかしらね」


 朝に買いたてのコーヒーを静かに啜る。

 春になってだいぶ暖かくなったはずなのに、社内の空気は底冷えしているかのようだった。


 水面下で激しく繰り広げられている頭取争い。

 その真っ最中に発生したスキャンダル。


 しかもお相手はご丁寧に週刊誌の美人記者である。


 恐らく同期社員もスキャンダルが発生したのではなく、発生させられたのを理解していたはずだ。


 にも関わらず、へらへらと菜月に教えてきたのは動揺を誘うためか。


「まったく……嫌になってくるわね」


   *


 行内や取引先ではどこに目と耳があるのかわからないので、間違っても迂闊な会話はできない。


 他人からの贈り物であっても家に持ち帰るかどうかは厳選する。

 それくらいの慎重な行動が求められるがゆえに、ストレスも蓄積していく。


 菜月が少なからず愚痴を言えるのは、絵画教室のアルバイトを今も続けながら、夜は早めに帰宅して家事をしてくれる真のいる自宅だけだった。


「そんなわけで、うちの常務は目出度く頭取争いから脱落したわ」


 目出度くなんて言葉を使ったのは、菜月が常務と同じ派閥に所属していないからだ。それでも表情から素直に喜んでいるわけではないと悟ったのか、洗い物を終えた真は苦笑する。


 最近ではすっかり家事を任せっぱなしになっており、感謝と同時に申し訳ない気持ちで一杯になる。


 もっとも菜月が少しでも手伝おうとすれば、いいから休んでてと断られてしまうのだが。


「菜月ちゃんは専務と同じ派閥なんだっけ?」


「そうよ。ほとんど学閥みたいなものだけれどね」


 同じ大学出身者で中心が固められ、菜月を女性幹部とすべきと強く主張したのも専務だ。


 菜月の成績が優秀だったことと、女性幹部に押し上げたあとは自らが裏で権勢でも振るうつもりなのだろう。


 歯向かったり不満を表明したところで、今の菜月では簡単に飛ばされて終わりだ。とはいえ派閥が出世に有利に働くのは確かだった。


 逆に自分以外の理由で出世の道が閉ざされる理由にもなるのだが。


「今頃は専務派に鞍替えしようと画策している行員もいるでしょうね」


「あっさり受け入れられるものなの?」


「その人間が優秀ならね。でも一度は裏切っているわけだし、私が専務の立場なら重用はしないけれど……」


 考えて菜月は首を左右に振る。


「専務であれば、裏切る可能性も考慮して使いそうね」


「凄い人だね」


「優秀であるのは否定しないわ。そもそも派閥の力があったとはいえ、役員にまで昇りつめた人だし」


 淹れたばかりのホットミルクをテーブルに置きながら、真が正面に座る。


 差し出されたホットミルクをお礼を言って受け取る。包んだ両手にマグカップから熱が伝わる。


 春とはいえ夜はまだ寒いので、どこかホッとする。


「単純な疑問なんだけど、役員になるのって難しいの?」


 自分の分のコーヒーを飲みながら、真がなんとはなしに質問する。

 普段はあまり菜月の仕事内容に踏み込まないのだが、会話の流れから溜めていた疑問の一つを吐き出したのだろう。


「難しいわね。同期入社した中でそこまで到達できるのは、せいぜい1%程度。取締役にまでなった人がいたら、他は揃って出向なんてのも珍しくないし。そもそも役席になった時点で、3割程度の同期社員は出世終了になるしね」


「役席?」


「支店長代理、本店勤務であれば部長代理ね。そこから一気に権限も増えるわ」


「じゃあそこまでいけるだけでも凄いんだね」


 素直に感心する真に、菜月は反射的に苦笑いを口元で作る。


「それが言うほど上役でもないのよ。名前負けしている感じね。

 私だって順調であれば数年後には――専務の意向次第ではもっと早くなるかもしれないわね」


「菜月ちゃんって今は……」


「係長よ。もっとも部下なんていないのだけれど」


 同期入社は大体、同時期にここまで出世するのだが、菜月の場合は将来の女性幹部と見込まれているだけに他よりも早かった。


 それゆえに出世街道に乗っているのが同期からわかり、やっかみを受けるはめにもなった。


 入社時点で本店勤務が決まった身なので、当時は今更感もあったが。


「部長代理を経て課長に。そこから次長や支店長ね。小さな銀行の支店長まで辿り着いた時点で残っていた同期のさらに3割から4割が出世を終えるわ」


 大型銀行の支店長もしくは本店の部長。役員への登竜門みたいなものだが、ここから先へ進むのは一段と難易度が高くなる。


「順調に出世を果たした行員でも大半がそこで定年を迎えるわ。その後は取引先か、もしくは子会社とかの幹部になるケースも多いわね」


 狭き門を突破して、ようやく役員の道に足を踏み入れることができる。

 この頃にはすでに年齢は五十代に突入しており、執行役員から取締役になれるかどうかの争いが始まる。


「なんだか果てない闘争って感じだね」


 銀行の過剰な出世争いに、平和を愛する真は頬を引き攣らせる。


「着実に出世はできてるけど、派閥争いにはうんざりね」


 親切なふりをして情報を教え、動揺を誘ってミスをさせようなど、細かなものを含めれば同期の妨害活動も数えきれない。


「とにかく足の引っ張り合いが激しいのよ。裏人事評価で競争相手にマイナスがつけば、それだけ自分が有利になるからね」


「人事評価に裏なんてあるの?」


「通常の評価シートの他に、行員の性格や趣味などのプライベートな面について評価されたものがあるの。あくまで噂だとかいう話になっているけれど、上司とかの反応を見てれば存在するのはほぼ確定ね」


 ギャンブル好きや酒好き。さらには女好き。

 そういった裏評価の一項目を挙げ、横領や宴席での失態、スキャンダルなどの可能性があるからと昇進を見送らせる。


「だから裏評価でマイナスがついたら、出世の道はほぼ閉ざされることになるわ」


「でもそれって弱みになるよね?

 だったらそのままにしておくってことはないの?」


 真が言いたいのはあえてマイナス面に目を瞑り、昇進させてから得た情報を使って従順な駒に仕立て上げたらどうか、ということだろう。


 質問の意図を理解した上で、菜月は首を左右に振る。


「ミスをされれば取り立てた人の責任に繋がりかねないし、上役の競争相手が知れば確実に攻撃材料にされるわ。確かに得られるメリットもあるけれど、デメリットが大きすぎるのよ」


「そっか……そんなところで戦ってる菜月ちゃんは大変だね。僕も頑張らないと」


 話の締めくくりに、湿っぽさを追い出そうとするみたいに、わざとらしく明るい調子で真は腕まくりまでして見せる。


「期待しているわ……と言いたいところだけれど、申し訳なさすぎて逆に落ち着かないのよね……」


「だめだめ。これは僕の仕事なんだから」


「……なんだか逆にストレスが溜まりそうだわ」


 顔を見合わせて、二人して吹き出す。

 それが終わると、一転して真は真面目な顔つきになった。


「菜月ちゃん、もし疲れたなら無理しなくていいからね」


 真の言いたいことを理解した菜月は素直に頷く。


「ええ、その場合は得た知識を使って、ムーンリーフに貢献するわ」


「茉優ちゃんが新しい店長になる二号店で、皆で働くのもいいかもしれないね」


 真にしても、そちらの方がきっと色々な心配をせずに安らげるだろう。


「けれどその前に、女性初の頭取を目指すのも悪くないわ。人生においてこういったチャンスは滅多にないのだし」


 菜月のために応援すると力強く宣言した真に、菜月は微笑んでお礼を言う。


「そんな決意をできるのも、はづ姉が逃げ道を用意してくれているおかげね。フフ、今度何の脈絡もなくお礼してみようかしら」


 悪戯っぽく笑う菜月の頭の中で、戸惑いながらも喜ぶ姉の姿が再生される。

 それだけで不思議と心が軽くなっていく。


 家族という存在に感謝しながら、菜月はテーブルに肘をついて、そっと目を閉じる。口元にはいつしか穏やかな笑みが浮かんでいた。

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