第362話 愛娘たちのピクニック
愛する娘もスクスク成長してくれて、無事に一歳を超えた時には感動しすぎて前が見えなくなるかと思った。
翌朝も仕込みがあったにも関わらず日が変わるまで起きていて、ぐっすり眠っている我が子に小声で「おめでとう」と祝福したのも良い思い出だ。
そんな葉月が次に画策したのは、ほんの少しの遠出だった。
車に乗っておよそ三十分くらい走ったところにある自然公園が目的地だ。
夏の厳しい暑さも通り過ぎ、秋の色が強まってきたからこそ企画できた。
ムーンリーフの定休日を利用しているのでママ友同盟の他に、好美や春道夫妻も一緒についてきてくれた。
連日の勤務で疲れているはずの茉優も一緒だ。先日の合同誕生会同様に、独自にスマホで撮影しまくって菜月に送るらしい。
人が多かったので店でも使っているミニバンと春道のファミリーカーの二台で移動することになり、葉月たちは他の子供一緒に実希子の運転するミニバンに乗っている。
「ほら、ぶんぶんだよ~、お外が流れてくよ~」
「ぶんぶんー」
車をぶんぶんと呼ぶ穂月は、乗った時から絶好調のご機嫌ぶりだ。
ほぼ同じ座席に希もいるのだが、こちらは器用にシートの上で丸まっている。
落ちる心配もないくらい行儀は良いのだが、相変わらず興味を示すものに差がありすぎる。彼女にとって車での移動も、舗装された山道に並ぶ自然風景も等しく価値が低いようだ。
対照的に尚の娘は何に対しても興味津々で、反対側の窓に張り付いている。
見慣れないものを発見するたび、母親にあれは何、これは何とひっきりなしに質問する。
「ふわぁ、朱華ちゃんも穂月ちゃんも元気だねぇ」
口調と雰囲気だけなら子供っぽい茉優だが、そこは大人として行儀よく座っている。ファミリーカーに男性陣と和葉が乗っているので、必然的にこちらは女性チームみたいになっていた。
ペットボトルの飲料を飲んだり飲ませたりしながら、着実に車は目的地に近づいていく。
*
海岸線を眺めながら山道を登った先にその自然公園はあった。
駐車場に車を停めると同時に、朱華が元気よく外に飛び出す。
「わあ、ママ! おそと、おそと!」
「うん、お外だねー」
優しい口調で応じつつ、離れないように自然な動作で尚は娘の手を握る。
そうした動きの一つ一つに先輩のママぶりが見られ、思わず尊敬の念を抱くのだが、褒めると照れながら否定される。
数年先にママになったからといって新米なのは変わらず、ちょっと子供がいつもと違うだけで動悸がするほど慌てふためくと苦笑していた。
「穂月もお疲れ様ー、この公園はどうー?」
「ぶんぶんー」
まるっきり会話になっていないが、我が子の上機嫌ぶりだけは明らかだった。
すぐに隣に停まったファミリーカーから春道たちも降りてくる。
「穂月たちは大丈夫だった?」
バスケット片手に歩み寄ってきた和葉に、葉月は笑顔で首肯する。
「元気元気、すっごいはしゃいでたよ」
「それは俺も見たかったな」
葉月から愛娘を受け取ると、にこにこと和也があれこれ話しかける。
子煩悩な和也は手伝ってと言う前に我が子の世話をしたがり、逆にさせてもらえないと拗ねるほどだ。
愛する妻である葉月と自分の子供なので、とにかく可愛くて仕方ないらしい。
夫婦で溺愛しているので、和葉なんかは厳しく叱ることができるか今から心配と言っていたが、恐らく大丈夫だろうと少しだけ楽観的に考えていた。
「ウチのは相変わらずか。寝る子は育つって言うけど、どんだけ育ちたいんだ」
運転疲れを微塵も見せない実希子がおねむ中の娘を抱く。
薄手だがパーカーの生地が触れて擽ったそうなのに、希は身じろぎ一つしない。
一方の穂月は今にも和也の腕から飛び出しそうなほど元気一杯だ。
「久しぶりに来たけど、やっぱり気持ちいいわね」
うーんと伸びをする好美の感想に、茉優が同意する。
「なっちーたちと自転車で来たことがあるよぉ。楽しかったなぁ」
「穂月たちも大きくなって話を聞いたら、同じことをするかもね」
「ハッハッハ、そうだな……だがアタシには計画を立てている横で、一人だけ立てているのが寝息という娘の未来しか想像できないんだが」
*
松などの木が立ち並ぶその中に、悠然と存在する緑豊かな公園。
敷地面積は広く、県内でもわりと有名なので訪れる人は多い。
もっとも今日みたいな普通の平日では、さすがに混みあったりはしない。
だからこそ秋の行楽地としては狙い目でもあるのだ。
敷地内には宿泊用のスペースもあり、おもいきりアウトドアを楽しむことができる。中央には本棟があり、そこでは室内の遊び場はもとより、乳幼児用のオムツ交換や授乳スペースもあるのがありがたい。もちろん屋外遊具も設置されているので、まだ幼い子供たちには喜ばれる遊び場だ。
「丁度お昼だし、まずはお弁当にしようよ」
葉月の号令で、せっかくだからと芝生にブルーシートを敷いてお昼にする。
本棟には飲食のための席も用意されているが、好天に恵まれたピクニック中なのだからと全員が賛同してくれた。
「茉優ちゃん、本当に料理が上手になったわよね。最初の頃は葉月の子供時代を思い出すくらいだったのに」
茉優が作ってきてアスパラのベーコン巻きを食べ、ほろりと涙を流しそうなくらい和葉はしみじみとする。
たまらないのは話題に出された葉月である。
「まだ言ってる……」
「忘れられるわけないでしょう。原因は春道さんとはいえ、子供にまで免許皆伝の技を伝授されたらたまらないもの」
じろりと愛妻に睨まれた春道は、小さくなりながら「反省してます」と言うのがやっとだった。
「私は実希子ちゃんがきちんと料理してるのが意外ね。まあ、この卵焼きも出汁がきいててすごく美味しいわ」
「ハッハッハ、アタシだって今や立派な母親だからな。成長くらいするさ」
得意げに豊かな胸を張った実希子だが、全員から疑惑塗れの視線の追及を受け、程なくして真実が語られる。
「そんな目で見るなよ。そうだよ、旦那が作ったんだよ」
「だと思ったわ。普段のお弁当も、旦那さんが早起きして作っているのよね」
すでに大学を卒業済みの智之は、柚の父親が経営する不動産屋で厄介になりながら、一般行政の一次試験に突破もしていた。
来月の後半には二次試験があるという。
「実希子さんは育児に仕事で疲れてるし、私ができることはこのくらいなので」
年下だから低姿勢というわけではなく、実希子と結婚してもまだ自信がなさそうなのが目立つ智之だった。
「あんまり頼ってばかりだと、そのうち見放されてしまうかもしれないわよ」
「そんなことありません!」
明らかな冗談だと葉月たちはわかっていたが、そうではない智之は全力で愛する妻を擁護する。
「実希子さんは素敵な女性で、私には勿体なくて、それで、それで……!」
「落ち着け、智之。好美の冗談だ」
「……え?」
「ごめんなさいね、そこまで怒ると思わなくて」
「あ……その……こちらこそすみません。場の雰囲気を悪くしてしまって……」
「そんな落ち込むなって。希に見られたら親の威厳がなくなるぞ。
……グースカ寝てるけどな」
一人平和そうな希の寝顔に癒され、すぐに昼食の席には和やかな空気が戻ってきた。
*
柔らかい芝生で盛大にハイハイする愛娘を見つめながら、葉月は隣の尚に打ち明ける。
「一歳になってもまだ歩かないんだけど、うちの子って遅いのかな?」
「そんなことはないんじゃない? もう掴まり立ちはしてるのよね」
「うん。
そこまではわりと順調だったから、すぐに歩いてくれると思ったんだけど……」
葉月が言葉に詰まると、ママ友同盟の一員の実希子がおもむろに口を開いた。
「贅沢な心配してんなって。不安になったらウチの希を見な。惚れ惚れするだろ、あの堂々っぷりには」
朱華が走り、穂月が転がるそのすぐ横で、彼女はやはり静かに眠っていた。
「まさに眠れる森の美女ってやつだぜ」
「実希子ちゃん、もうやけくそになってるわね」
苦笑する好美に、実希子は振り返り、
「それくらいの方がストレス溜まんねえし、アタシもイライラしないから、逆に希ものびのびできるんじゃないかってな。
……あいつにそんな繊細さがあるのかはわからんが」
「マイペースな子に育ちそうというのは否定できないわね」
と好美が首を竦める。
いつもと変わらない光景。
一同がそう思っていたその時に、変化は唐突に起こった。
「ぶんぶんー」
お気に入りの単語を口にしながら、前方の希に突撃する。
といっても体当たりしたのではなく、絡まるように転がり、器用に横回転でくるりと一人だけ体勢を戻す。
ビクともしない障害物に触れた好奇心旺盛の愛娘は、そのまま盛大に笑いながらペチペチと肩やほっぺに悪戯じみたスキンシップを仕掛ける。
慌てて制止しようとする葉月を、何故か実希子が慌てて制止する。
「待ってくれ。もうちょっと様子を見よう」
母親の実希子にそう言われれば否やはなく、それでも万が一の事態が起きないように全員で注意深く見守る。
隣で母親が拗ねようとも、ビニールプールで顔に水がかかろうとも、微動だにしなかった天下無敵の総大将が、執拗な穂月の前についに身を捩って逃走した。
顔を実希子に向けるあたり、助けを求めている感じなのだが、当の母親がいつもの仕返しではないだろうが微動だにしない。
その間にも笑顔の悪魔の追撃を受け、そして――
「――ウオオ、希がハイハイしたあっ!」
四つん這いで必死に逃げ始めた我が子に母親が号泣した。
「実希子ちゃん、泣いてるとこ悪いけど、希ちゃんも泣きそうなんだけど」
「容赦ないわね、穂月ちゃん」
尚が肩を揺さぶるも、天を仰いで叫ぶ実希子は気にしない。
好美が口元をヒクつかせ、その前方では穂月がひたすら希を追いかける。
全開の笑顔で。
「おっ、希ちゃんが急な方向転換で上手く回避したな」
「春道さん、のんびり観ている場合じゃないでしょ!」
結局一歳児たちの――強制的な――鬼ごっこは葉月たち保護者が止めるまで延々と続けられた。
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