第342話 葉月の出産

 臨月に入るとすぐに葉月は総合病院に入院させてもらった。


 和葉がムーンリーフの手伝いで朝から留守にするため家には春道しかおらず、加えて仕事中なのもあり、緊急事態には対応できないかもしれない。

 ただでさえ男親なので、妻の妊娠を見てはいても、女性以上に焦りまくるのが目に見えていた。


 不必要な心配をかけず、また先に入院している実希子の様子も見られればと、頼み込んで少し早めに入院したのである。


「実希子ちゃんはもう予定日になるんだっけ?」


「おう。ただ葉月のとこと違って、あんまり暴れないんだよな。

 本当にアタシの子か」


「アハハ、そんなにお腹が大きくなってるんだから、実希子ちゃんの子供で間違いないよ」


「腹のデカさなら葉月も変わらないだろ」


 運が良いことに、葉月は知り合いということもあって実希子と同部屋になった。

 二人部屋なので他に誰もおらず、ベッドに腰掛けてゆったりと時間を過ごせている。


 今の葉月は診察をしやすいタイプのマタニティパジャマ姿だ。

 入用なものがあれば病院内にコンビニがあるので、そこで買うこともできる。


 実希子の傍には彼女の母親と、仕事が終わればすぐに旦那さんがやってくる。

 葉月の場合も仕事を終えた和葉や和也が様子を見に来てくれる。


 だがもっともありがたいのが、自分の代わりにと和葉が頼んでくれた戸高祐子のサポートだった。


 息子の宏和は県大学に在籍中で、夫の泰宏は一人で忙しく飛び回っている。

 一人で実家にいることも増えたという祐子は、和葉のお願いを快く聞いてくれたのである。


 実際に出産を経験しているだけあってためになる話も多く、質問をすれば丁寧に答えてくれるので、入院に関しての不安はだいぶ解消されていた。


   *


 慌ただしくなったのは数日後だった。

 すでに陣痛が起きていた実希子に、いよいよその時が訪れたのである。


 あわあわする葉月の前で処置にかかる看護師たちは、極めて冷静かつ迅速だった。


「ちょっと産んでくるわ」


 顔を歪めながら、なんとか笑おうとした実希子がそれだけ言い残し、看護師たちに連れられて分娩室に向かった。


 一人、取り残された葉月の心臓が、内側から激しく胸を叩く。すーはーと深呼吸を繰り返し、呪文のように実希子ちゃんは大丈夫と呟き続ける。


 経験豊富な先生と看護師がついているので、夜のお産でも心配はいらないとわかっている。


 それでも静かな環境のせいか、悪い考えが頭をよぎってしまう。

 自然と葉月は両手を組み、無節操に祈った。


 普通は陣痛の感覚が短くなってから入院となるが、病室に空きがあったのに加え、実希子も葉月も初産で万全を期していた。


 無痛分娩があれば頼みたかったが、田舎なのでまだ一般的ではないらしく、実施している病院自体がなかった。

 県全体で見ても数件あるかといったレベルなので、そういった点でも都会との差を感じてしまう。


 ドキドキして眠れないでいると、予想できていたのか、年配の女性看護師が様子を見に来た。

 苦笑ではなく、安心させるための優しい笑みで、葉月の緊張を解してくれる。


「小山田さんなら大丈夫ですよ。高木さんも出産を控える身なんだから、元気な赤ちゃんと会うためにも、今は体調を整えることを優先してください」


 手まで握ってくれて、実希子に申し訳ないと思いながらも、ようやく葉月は眠ることができた。


   *


 実希子の出産は無事に終わった。


 今は病室に戻ってきており、葉月を安心させたいのか脅したいのか、様々な話をしてくれる。


「あんなにキツいとは思わなかった。旦那は感動してるだけだからいいけどな」


 横目で見られた夫の智之は恐縮しきりだ。


「呼吸法なんてあんま役に立たないし、出産後も陣痛は続くし、あー……マジで大変だった」


「実希子ちゃん……私、その大変な出産がこれからなんだけど……せめて頑張ろうと思える情報が欲しいかな」


「それなら一つしかねえな」


 実希子はニヤリとし、


「赤ちゃんを見た時なんて、あれだ。至福っていうか恍惚っていうか……こんにちは、ママよって言いたくなる気持ちが痛いほどわかる。本当によく生まれてきてくれたって思ったからな。もう旦那より可愛いくらいさ」


 葉月も見せてもらったので、赤ん坊の可愛らしさは十分に理解できる。

 加えて自分の子供なのだから、感動と喜びは一入だろう。


「本当に可愛かったです。あの子のためにも頑張ります!」


「……アタシだけ除け者か?」


「も、もちろん実希子さんのためにも!」


「今、ほんのちょっとだけ間があった」


「実希子ちゃんって、意外とやきもち焼き屋さんなのかな」


 何気ない葉月の指摘に、茹蛸もかくやというくらいに実希子が赤面する。


「ア、アタシは、その、アレだ。こっちが出産を頑張ってる時に、ぐーすか寝てやがったコイツにお灸をだな」


「実希子ちゃんが明日も仕事あるから帰れって、泊まろうとしてた旦那さんを追い返したんでしょ」


「それはそうだけど……そこはほら、それでもアタシのために残るっていう心構えをだな」


「実希子ちゃん、子供が除け者になってるよ」


「葉月ーっ」


 泣きそうな実希子を見て、虐めすぎたとわかっていながらも大笑いしてしまう。

 実希子も葉月のからかいが不安の裏返しだと察しているらしく、出産後で大変なのにも関わらず、調子を合わせてくれる。


「アハハ、笑いすぎてお腹が痛いー」


「おいおい、大丈夫かよ。陣痛だったりしてな」


「え?」

「え?」


 顔を見合わせて硬直する。


「あ、でもすぐに収まった」


 ホッとしていると、ますます実希子の表情が真剣味を帯びる。


「やっぱり陣痛じゃないのか?」


「37週はもう過ぎてるけど、予定日よりは結構前だよ?」


「アタシが予定日の後ろになったみたいに、前になる可能性だってあるって。とりあえず看護師さんを呼ぶぞ」


 看護師らのチェックの後、大体15分後くらいにまた弱い痛みがやってきて、どうやら葉月が覚えたのは陣痛の可能性が高くなった。


「え? じゃあ産まれるってこと!?」


「慌てるなって、もう入院してるんだし」


「そ、そうだよね。でもパパたちに連絡しとかないと」


「それはアタシに任せろって。祐子先生が戻ってきたら伝えとくから」


「うん……」


「とにかく出産は過酷だからな。今のうちに気合と覚悟を溜めておけ」


 実希子らしい言い回しで激励され、葉月はぎこちなくだが顔を縦に振った。


   *


 最初の陣痛から徐々に痛みが強まり、収まるまでの時間も増えた。陣痛の間隔は規則的で、確かに痛みは痛みだが、葉月の主観的には重い生理の時の痛みを少し強めた感じくらいで、実希子のこの世の地獄だという感想には程遠い。


 ここから痛みが地獄の行進を開始して激痛になるのかと思いきや、劇的な変化が訪れそうな気配がない。


 リラックスするように言ってくれた付き添いの祐子に聞いてみると、陣痛も人それぞれらしい。

 それ自体は葉月も勉強熱心な妹から聞いて知ってはいたが、まさか友人とここまで感じ方に差があるとは思ってもいなかった。


 出血はなく胎動もしっかりあるので順調と判断され、その間に急いで仕事から戻ってきた和也は祐子と付き添いを交代した。

 葉月以上のおろおろする夫を見ているとなんだかおかしくなってきて、陣痛の最中だというのに妙にリラックスできた。


「心配しなくても大丈夫だよ。ちゃんと和也君との赤ちゃんを産むからね」


 分娩室で破水し、医師や看護師の指示に従って息む。

 これから本格的な痛みがと恐れる中での出来事だったので、戸惑いながらお腹に力を入れる。


 和也や両親が外で待っているので、分娩室にいる身内はいない。

 元気印でいつも大雑把な実希子が辛いとまで表現した出産。最初は闇雲に力を入れていたが、徐々にどこに集中すればいいのかがわかってくる。


「もうすぐ産まれるよ、頑張って!」


 力強い看護師の声に導かれ、ただその通りに葉月は息む。事前に色々と考えていた不安などはすべて吹き飛び、目の前の出産だけに集中する。


「もういいよ、大丈夫!」


 大きくも優しい声に「え?」と思った直後、元気な声が木霊した。


「可愛い娘さんですよ」


 ここで初めて性別を知らされ、葉月はふにゃりと笑う。

 実希子の子供も女の子だったので、葉月たちみたいな仲良しになってくれるかもしれない。


 隣に置かれた我が子の元気そうな姿を涙目で見つめながら、葉月はそんなことを考えた。


   *


「不公平だーっ」


 後日、出産の感想を葉月から聞くなり、実希子は盛大に顔を歪めた。


「そんなこと言われても……」


 実希子は仲間を求めたみたいだが、生憎と葉月の出産はそこまでの激痛を伴わなかった。


 痛かったのは確かでも、よく言う鼻から西瓜を出すような痛みとまでは感じなかったのである。


「でも、ま、無事に出産が終わったのは喜ばしいよな。おめでとう」


「ありがとう。実希子ちゃんのところと、誕生日が近くなっちゃったね」


「友達が欲しくて、腹の中にいる時からずっとうちの娘が呼び掛けてたのかもしれないな。そのわりにはあんま泣かないんだけどな」


「アハハ、私の娘はかなり泣く子っぽい。先生に元気だねって言われたし」


「泣きすぎるのも困るけど、親としてはそっちの方が安心するな」


 疲れは残っているものの、お互いに笑い合う。


 妊娠の間は不安の連続。


 出産の時は痛みに――特に実希子が――耐えなければならない。


 それでも生まれたばかりの我が子を見れば、そんな苦労も瞬時に気にならなくなるから不思議だった。

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