第336話 春道と新生活
「もう慣れた?」
ダイニングテーブルでコーヒーを嗜む春道の正面に腰掛けながら、愛妻の和葉がそんな質問をしてきた。
「まだホテルか旅館に泊まってる気分だよ」
お披露目パーティーから数日が経過して、高木家の面々は本来の日常に戻っていた。夜になれば物珍しがって実希子やらが遊びに来るも、日中は平穏そのものだ。
だが新居の住人ともなれば、少しばかり事情も異なる。
娘婿の和也は真っ先に新居に慣れたみたいだった。
旧高木家にも遊びに来ていたとはいえ、頻度は実希子や茉優らほど多くないのが幸いしたのだろう。
葉月はたまに違和感を感じたりしているようだが、周りに家族がいればそれだけで満足らしく、笑顔で日々を楽しんでいる最中だ。
和葉も平静を装っているが、新しいキッチンに夢中で、ほとんど朝から晩まで入り浸っている。調理機材も新しいのが入ったので、最近は昼から手の込んだ料理が出てきたりする。
菜月はすぐ東京へ戻ったので、慣れる以前の話だろう。
最後に残った春道は、今朝から仕事をしようと寝室でノートPCに向かったものの、なんだか少し落ち着かない。
和葉の残り香があるからなんて言ったら変態扱いされそうなので、とりあえず無言でうろうろしつつ、鍵を貰っている書斎に入ってみた。
左右の壁に本棚が並んだ書斎は絶景で、本特有の香りと木材の香りが相まってなんとも気分が落ち着く。
作業もそれなりに捗ったのだが、午前中は二階に春道一人だけで、家族の生活音がまったく聞こえないため妙に寂しくなってしまった。
防音効果が高い室内というのも考え物だと、とにかく静けさを好んだ独身時代とは真逆の感想が浮かんできて、一人で苦笑いした。
そんないきさつもあり、昼食を終えたばかりの春道は昨日まで同様あまり仕事に身が入らず、ダイニングでまったりしていたのである。
忙しく動き回りながらも、春道のことをよく見てくれているだけに、和葉も集中できていないことに気付いていた。
「慣れるまで仕事場でも借りる?」
「葉月に気を遣わせちゃうし、逆にいつまでも馴染めなくなりそうだしな」
年齢を重ねると感性が変わるというのを、絶賛実感中だった。
「そもそもの原因はまだ新居に慣れてないってことだよな」
そういう意味で考えれば、少し前まで住んでいたアパートをまた借りればひとまずの問題は解決する。
和葉も同じ見解から提案してくれたのだろうが、先ほど春道自身が口にした理由で実行するのは難しい。
「うーん……程よく和葉の匂いを感じられて、集中できる場所か……」
「……なんだか不穏な発言が聞こえたけど、気のせいかしら」
「そうだ! 和葉の洗濯物を借りれば……」
「……どうしてもと言うなら望み通りにしますけれど、夜に一緒に眠るのを今後は遠慮してもいいでしょうか」
「昔みたいな口調はやめて! 距離を感じちゃうから!」
涙目で哀願しつつ、春道は肩を落とす。
「俺にとって和葉はいなくてはならない体の一部同然だったんだな」
「……っ! それは……私も……だけど……」
火照った美貌を両手で挟んだ和葉が、テーブルから見えている上半身をくねくねさせる。
「下着を……というのは……その……あの……せめて洗濯したものか、新品を……」
「待ってくれ! どうしてそんな変態全開な話になってるんだ!」
全力で深刻な誤解を解くと、春道以上に和葉が安堵した。
「どんな春道さんでも愛せる自信が、もう少しで揺らぐところだったわ」
「俺も不名誉な称号の授与を防げて何よりだ」
若干の気まずさに、お互いにぎこちない笑顔を浮かべる。
その後、沈黙して俯き、やがて和葉が顔を上げた。
「それならいっそ、ダイニングで仕事をすれば?」
春道も考えた解決法に、腕を組んでうーんと唸る。
あまりに近くだと、春道よりも和葉が気を遣いそうなのだ。
サービス精神が旺盛というか、自分の目の届く範囲では心地よく過ごしてもらおうとしすぎる。
もしかしたら戸高家という育った環境の影響かもしれないが、旅館の女将などならともかく、一般家庭ではやや過剰な性質である。
気を遣うのは精神力を消費する。
大切な妻の手をあまり煩わせたくない思いから、春道は素直に頷けない。
もっとも和葉の性格上、離れすぎていると、それはそれで気になるみたいだが。
実際にスマホのLINEで午前中も何度か連絡があった。
「普段は春道さんと私で過ごす時間が多いんだし、あまり難しく考えることないと思うわよ」
「そうだな……」
*
指先が快調に動く。
目の前のディスプレイにだけ集中でき、午前中よりも作業が捗る。
背後では和葉が料理の下ごしらえをしているのがわかる。時折聞こえる独り言がとても微笑ましく、可愛らしい。
「葉月が帰ってきたら、本格的にここを使ってもいいか確認するか」
春道が仕事場所に選んだのは、リビングのドアを抜けて少し歩いた右側、春道と和葉の部屋の壁側だった。
すぐ近くには寝室のドアがあり、玄関ホールからリビングに入ってくる家族の邪魔にもならない。加えてノートPCの後ろは壁なので、視覚からの余計な情報で集中が乱れることもない。
なおかつキッチンとリビングも隣接しており、ウォークマンを聴きながらでも作業音や人の気配が確認できる。
予定した量を終えると、春道はダイニングから運んできた椅子に体重を預けて腕を伸ばした。深呼吸して肺全体に空気を行き渡らせ、徐々に強張っていた体から力を抜いていく。
「ずいぶんと快調そうだったわね」
仕事の終わりを見て取った和葉は、自分のことのように嬉しそうだ。
「ああ、葉月にこの場所を使っていいか聞いて、大丈夫そうならホームセンターあたりで小さな仕事用のテーブルを買ってこようと思う」
「それなら明日は一緒にお出掛けできそうね」
「今日も行くだろ。いつもの散歩と買物だけどな」
「あら、嫌なの?」
「とんでもない。愛する妻との大切な時間を俺から取り上げないでくれよ」
「フフ、そうよね、次があればマラソン大会で優勝してほしいし」
「それは勘弁してくれ」
苦笑いを返しながら後片付けをして、少しだけ和葉を手伝ってから一緒に家を出た。
*
「ご馳走様でした! ママの手料理は格別だねっ」
夕食を平らげた葉月が満面の笑みを浮かべる。
隣に住んでいる好美が最終的に店を閉めてくれるので、閉店時間よりも早めに葉月と和也が帰宅する。
そうして午後八時に家族揃って夕食をとるのは、新居でも変わらない。
全自動の食器洗い機を駆使し、後片付けを手早く終えると、リビングで団欒の時間になる。
娘婿の和也にとって春道と和葉は舅と姑だ。
表面上は笑顔でも不満を隠している可能性もある。
旧高木家の時から葉月には定期的に確認してもらっていたが、幸いにして今のところは良好な関係を築けている。
二人の時に話をしたら、葉月の両親を嫌うなんてとんでもないと言っていた。
和也の実家とも仲良くしてくれてるし、葉月も向こうの家に行くのを苦にしておらず、また仲も良いらしく、自分は恵まれてると笑ってもくれた。
だが過干渉にならず、また無視していると思われないように接触を持つのはなかなか難しい。
そういう点、葉月が望む食後の一時というのは重要な潤滑油の役割を果たしてくれているのかもしれない。
「実希子ちゃんの様子はどう?」
食後の紅茶の香りを楽しんでいた和葉が、愛用のカップを置くと口を開いた。
「皆はセーブするように言ってるんだけど、実希子ちゃんが平気だって言い張るから、周りというか特に好美ちゃんが気を揉んでる」
「佐々木は――いや、籍を入れると小山田になるのか、とにかくアイツも妊娠して母親の自覚が芽生えるかと思ったんだけどな」
和也もため息をつくあたり、実希子はこれまでとまったく変わらないか、もしくはそれ以上に仕事に励んでいるのだろう。
頼もしいと喜ぶ経営者もいるかもしれないが、こと葉月に関してはそうじゃないと、曲がりなりにも父親の春道には断言できる。
ましてや相手は友人の実希子だ。彼女のためとなれば、店の臨時休業だろうと当たり前に応じる。
「実希子ちゃんが暴走しないように、皆で見守るしかないよね」
恐らく従業員の間ででも出た結論のあと、不意に葉月が顔を曇らせた。
実希子が心配なのかとも思ったが、雰囲気的に少し違う。
誰も何も言えない雰囲気の中、真っ先に沈黙を破ったのは春道だった。
「なあ、葉月。お前は和也君が好きか?」
「え? うん、もちろんだよ」
「なら、彼がいればいいじゃないか。もちろん好きだからこそ、という気持ちもわかる。だが焦りすぎると、お互いの気持ちをすれ違わせる原因にもなるぞ」
かなり厳しいし、配慮にも欠けているだろう。けれど時には父親として、痛む心を無視してでも伝えなければならない言葉もある。
「和也君はどうだ?」
「俺も葉月が好きです。だから結婚しました。子供は授かりものだと思ってるので、できなければ愛する妻と二人の人生を楽しみたいと思います」
「和也君……」
葉月が瞳を潤ませる。
若い夫婦を見守っていた和葉もまた泣き出しそうだ。
「そうだ、結婚したからには葉月の人生は和也君の、和也君の人生は葉月のものでもある。話し合いも喧嘩も一人じゃできないんだから、相手がいることに感謝して、悩みも喜びも打ち明けてしまえばいいんだ。俺はいつでもそうしてるしな」
春道が笑うと、葉月は嗚咽を堪えるように口を押さえた。
その葉月の肩を強く抱いた和也は、真剣な顔つきで何度も春道の言葉に頷いていた。
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