第327話 柚の教師生活~意地~

 早朝に学校から連絡を受けた柚は、別命あるまで自宅待機とされた。


 担任がいれば生徒が正直に話せない可能性を考慮し、柚抜きで学校側が事情を聴くという。

 そんな真似をすれば黛広大らがどのような対応をするかは、火を見るより明らかだった。


 生徒からの話を聞いた上で、保護者が学校に来るのと合わせて柚も登校させられるのだろう。


 公平な審議をするのではなく、保護者の怒りを鎮めるための生贄として。


 悔しくて。


 情けなくて。


 気が付けば折れそうなくらい強く奥歯を噛んでいた。


 衝動的に柚が電話をかけたのは、忙しいとわかっているはずの友人だった。


「柚ちゃん? どうしたの?」


 朝の仕込みを終えて、店を営業させていたにもかかわらず、葉月は快く電話に出てくれた。

 何度も癒された温かい笑顔が脳裏に浮かび、声が震える。


「ねえ、葉月ちゃん。教師を辞めたら、私もお店で働かせてくれるかな」


「柚ちゃんなら大歓迎だよ」


 事情を聞く前に了承され、とうとう柚の涙腺が決壊する。


「私ね、頑張ったんだ。葉月ちゃんや私みたいな子供を作りたくないから。でもね、通じないんだ。どんなに心を込めても通じないのっ」


「そっか……」


 一通り柚の叫びを聞いてくれた友人が、殊更に明るい声で言う。


「じゃあ、最後はめちゃくちゃ、やっちゃいなよ」


「え?」


「何があっても私たちは柚ちゃんの味方だよ。私が高校生の頃、やんちゃした時のパパみたいに」


 思い出されるのは高校生の頃の記憶。

 中学時代の虐めが高校でも繰り返されるのかと絶望しかけた自分。

 庇ってくれたのは、小学生の時に虐めていた葉月だった。


 嬉しかった。

 どうしようもなく嬉しかった。


 許してくれたのはわかっていても、まさか自分が標的にされるかもしれない危険を無視して、前に立ってくれるとは夢にも思っていなかった。


 ありがたくて……とても憧れた。

 小さいのに、どこまでも大きく感じた親友の背中に。


 自分もそんな背中を持ちたくて教師を志した。


「そんなことも……あったわね」


 決して忘れられない記憶を細部まで思い出し、柚は立ち上がる。


「うん、そうする」


 ごしごしと手の甲で涙を拭き、片手で頬を叩く。


「めちゃくちゃ、やってくる」


「応援してる」


 切れた電話にお辞儀をして、崩れた化粧を直す。

 そして柚は胸を張って家を出る。


   *


 教室に入った柚を、生徒全員が驚きで迎えた。

 だがすぐに得意げに笑った生徒がいる。

 黛広大だ。


「あっれえ~、先生、どうしてここにいるの? あっ、もうクビになるから先生じゃないか」


 ボス猿に引き摺られて、群れの子猿たちもケタケタ笑う。

 誰もが不愉快になる挑発を、柚は鼻を鳴らして一蹴する。


「昔、貴方と同じことをした生徒がいたわ」


 唐突な語りに、ザワめきが少しだけ揺らぐ。

 ここが勝負所だと両手で強く教卓を叩けば、僅かな間だけであっても沈黙を手に入れられた。


「虐められてたのは先生でね、友達が助けてくれたのよ。

 で、その子も虐めの標的にしようとしたんだけど、どうやっても勝てないから貴方みたいに親の権力を頼ったの」


 浮かべるのは冷笑。

 常日頃から向けていた愛情を消し去った虫けらを見るような目に、広大の顔に一瞬だけ怯えが宿った。


「でもその企みも上手くはいかなかった。その友達には大勢の味方がいたから。真っ直ぐに生きてきた彼女には、真っ直ぐに想ってくれる友人たちがいた」


 背筋を伸ばし、改めて教室にいる児童を見る。


「貴方たちにはそんな友人がいるかしら。私を助けてくれた彼女みたいになれるかしら。そして私と同じ立場になった時、傷つくのも構わずに一緒にいてくれる人はいるかしら」


 無言。


 なんとか虚勢を張れている広大とその一派だけがバカにしたように笑うが、無視する柚には何の効果もない。


 背後にある自習とだけ書かれた黒板に、吸い込まれるように消えていくだけだ。

 凛とした柚に腹を立てたのか、それとも焦ったのか、得意げだった広大が苛立たしげに机を叩いた。


「そんなこといって、先生だって何にもできないだろ。どうせこのあと、他の大人に怒られて終わりだ」


「だから?」


「先生は負け犬だ」


「それで?」


「負け惜しみだ! 今なら土下座して謝ったら許してやる」


「嫌よ」


 短く告げ、殊更に柚は胸を張る。


「貴方に下げる頭なんて持ってないし、確かに私は解雇されるかもしれない。だけど何にもできないのは誤りよ」


 教卓の前に出て、身を屈める。

 大勢の生徒たちと視線が合うように。


「味方になってあげられる。他の誰が敵になっても、私だけは味方になる。例え教師の道が閉ざされようとも、そこだけは譲らない!」


 強く張った声に、教室がシンとする。

 もう黛広大も余計な口を挟んでこない。


「さっきの先生の友達の話を覚えてる? その友達はね、今も親友なんだけど、小学生の頃に先生が虐めてた相手なの」


 複数の生徒たちの顔つきが変わる。


 驚き。


 非難。


 そして嘲笑。


 すべての感情を受け止め、親愛なる友人の顔を思い浮かべる。


「虐めを悔いて謝った先生をその子は許してくれた。皆にはできるかしら? その子が当たり前のようにできたことはとても難しいこと。でも彼女がいたから、先生は高校生になって虐められてた子とも、今では仲が良い友達になってる」


 改めての驚き。

 それはそうだろうと柚も思う。ほとんどドラマみたいな話なのだから。


「嘘だっ」


 広大が叫んだ。数人の男児が同調する。


「調べればすぐにわかるわ。そんなこともしないで親に頼るの? 先生をクビにできたら、さぞかし得意げに皆に言ってまわるんでしょうね。でも、その親がいなくなったらどうするの? 貴方が得意げに振るおうとしている権力は貴方のものではないのよ? 今回の件が後で嘘だとバレたらどうするの? その時に親がいなくなってたらどうするの? 誰かを貶め、嘲り笑ってきた貴方を守ってくれる人はいるかしら。今の友達が、何の力もなくなった貴方の傍にいるかしら」


「う、うるさいっ!」


「ねえ、黛君、人はどんな時に怒るか知ってる?」


「アンタがムカつくからだよ!」


「ある意味正解ね、人は図星を突かれた時にもっとも怒るのよ。

 今の黛君みたいにね」


 パンと手を叩く。


「これから先生は呼び出され、彼のお母さんに責められるでしょう。でも知ったことじゃないわ。虐めてた側として虐めを許せないとは口が裂けても言えない。だけど覚えておいて。今は加害者でも、ふとしたきっかけで被害者にもなるのよ。少しでいいから想像して。そうなった時の自分を。果たして救いはあるかしら」


 話が一段落したところで、待っていたわけではないだろうが教室のドアが開かれた。恐らくは詳しい事情を説明しに来たのであろう他クラスの教員が、自宅待機中になっているはずの柚を見て目を丸くした。


「どうして室戸先生がいるんですか!」


「子供たちを歪んだ道へ進ませないためにです」


 それだけ言うと、教室を後にする。

 このまま校長室に突撃するつもりだったが、予想外に一人の女生徒が追いかけてきた。


「先生っ」


 涙をボロボロ流し、三つ編みを揺らして柚のブラウスを掴んだのは委員長の春日井芽衣だった。


「私が悪いんですっ」


 しゃがみ込み、震える小さな肩に両手をそっと置く。

 伝わる体温が僅かでも落ち着きを与えたのか、しゃくり上げながらも芽衣は言う。


「私がっ、夏休みに健斗君とばかり遊んでたからっ、それでっ」


「違う!」


 また一人廊下で児童が声を張り上げる。

 子供らしい服装ながらも、頭脳明晰さが顔立ちにも滲み出ている坂本健斗だ。


「僕がしつこく誘ったから!」


 彼も泣いていた。

 感情を爆発させ、委員長の隣に並ぶ。


「芽衣ちゃんが好きで、誰にも取られたくなかったから!」


 これが原因かと柚はようやく理解する。

 小学生と侮ることはできない。学校は社会の縮図みたいなものなのだから。


「そうだ、お前が悪いんだ!」


 話を聞きつけた黛広大までも加わって、廊下に輪ができる。

 もう一人の女性教師はどうすればいいのかとおろおろした挙句に走り去った。恐らくは職員室に事情を報告しに行ったのだろう。


「芽衣が俺を避けたのは、お前が俺の文句を言ったからだろ!」


「僕はそんなことしてない!」


「そうだよ! 広大君と遊べなかったのは、本当に家の都合だったんだから!」


「でも、健斗とは全部遊んだんだろ! 付き合ったとも聞いたぞ!」


「そんなことないもん!」


 ギャアギャアと騒ぐ三人を柚は抱き締める。


「恋愛は難しいわよね」


「先生?」


「実は先生ね、助けてくれた友達を好きな男の子がずっと好きだったの」


「ええーっ? ほ、本当なんですか? それで先生はその……」


 もっとも話に食いついてきた芽衣だけでなく、教室から状況を見守っている生徒たちも興味津々だった。

 皆で無視までしたのにと思いつつも、それでもいいかと柚は笑う。


「結果がわかってても告白したわよ。友達にきちんと言った上でね。大好きな友達だから嘘なんてつきたくなかったし」


 三人の頭を撫で、優しく言う。


「人間だもの、ぶつかることだってあるわ。でも、追い詰めるのはだめ。

 そのうちに罪悪感を消すために自分を肯定し始める。そうなったら後戻りできなくなるわよ」


「先生……」


 せっかく止まっていた涙が、また芽衣の頬を濡らす。


「ほらほら、そんなに泣かないの。先生には楽しい思い出もたくさんあるし、そのうち話してあげるわね」


 ウインクして立ち上がる。

 その頃には慌てた顔の校長と教頭、それに熱血教師の明石がこちらへ走ってくるのが見えていた。

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