第325話 柚の教師生活~奮闘~
底抜けに明るい夏の日差しとは対照的に、柚の表情も心も曇りっぱなしだった。
始業式から数日、担当するクラスの雰囲気は日に日に悪くなっている気がする。
表面上は何も問題ないからこそ感じるある種の歪さに、胃の奥がもやもやして気持ち悪い。
傍目の柚でもそうなのだから、クラスに在籍している児童はもっとだろう。
しかし教師でありながら、柚にはいまだ原因を掴めていない。
心当たりはある。
一学期の終業式までは仲良しだったのに、夏休みを終えたら口を利かなくなっている二人の男児だ。
坂本健斗と黛広大。
委員長の春日井芽衣を支え、クラスの取りまとめ役でもあった。
運動が得意な広大は率先して先頭に立ち、勉強が得意な健斗は後ろから見守る。
そして真ん中に芽衣が立つ。
そんな構図を柚は担任として頼もしく思っていた。
どうしてこうなったのかと、職員室で頬杖をついたところで問題は解決しない。
ドラマみたいに劇的な展開が起こればいいのだが、生憎と知り合いに声をかけてくれていた葉月たちから有力な情報は上がってきていなかった。
「お疲れですね、室戸先生」
「明石先生」
昼休みの職員室で声をかけられ、いつの間にかボーっとしていた柚は顔を上げた。
体育教師で柚が新任して以来、何かと気にかけてくれている男性だ。
年は六つ上ですでに結婚しているが子供はおらず、夫婦関係があまり上手くいってないのか、それとも単に浮気性なのか、よく柚を飲み会などに誘ってくる。
だが生徒たちには慕われているようで、顧問の野球部の生徒と談笑している姿を職員室でも頻繁に見かける。
「もしかして、この前の一件ですか」
問いかけられた柚は苦笑とともに頷いた。
異変を察知した始業式に、相談というか事情を話していたのもあって、誤魔化したりせず正直に話す。
「どうにもクラスがギクシャクしたままで……いえ、表面上は平穏なんですけど、それがまた不気味といいますか……」
腕を組んだ明石は少々考えてから、
「表立って何もなければ、しばらく静観するのはどうですか?」
と筋肉質の肉体からは想像もできない無難な対処法を提示した。
Tシャツから出ているムキムキの腕を組み、真剣な顔つきで顎を摩る。
「このくらいの年頃の子らはよく喧嘩をしますが、自然と仲直りしていることも多いのです」
神妙な顔で柚は肯定するも、そのくらいは言われなくても知っていた。
「私もそうすべきとは思うのですが、対象がクラスの中心児童だけに心配なのです」
他の生徒であれば間違いなく柚も様子見を続ける。
それとなく委員長の芽衣に話をし、聞いた彼女が健斗と広大に相談し、二人が対立する児童の仲介をする。
わだかまりがあってもクラスのリーダー的存在二人が積極的に気に掛けるため、仲間外れにはならずにいつしか心からの和解を果たす。
似たような事態は何度もあった。
しかし今回ばかりは事情が違う。
その点を説明すると、明石も「うーん」と唸る。
「単純に暴れてるだけなら、指導するなりやりようはあるんですけどね」
「ええ……暴力行為がないのは救い……と言うべきなのかどうか……」
健斗に目立った怪我はなく、教室に荒れた気配もない。
「ただ坂本君の孤立が目に見えて酷くなってる気がして……」
「無視ですか。ふうむ」
一緒になって真剣に考えてくれる体育教師は、しかし柚とは真逆の答えを出す。
「やはり静観が一番ではないですか?」
驚いて凝視する柚に、明石は言葉を続ける。
「そのうち飽きるかもしれないですし、無視される子に非があったのかもしれない。問題が複雑だった場合、かわいそうだからと手を出した結果、余計に事態の悪化を招く可能性もあります」
瞬時に激高しかけて、柚は目を閉じて深呼吸をする。
まだその程度の冷静さは残っていた。
理性が勢力を回復させてくると、なるほど、体育教師の言うことにも一理ある。
しかし――
「私には無理です」
きっぱりと柚は告げた。
「室戸先生?」
「きっと明石先生は虐めにあわれた経験がないのでしょう。性格も社交的ですし、クラスの中心だったでしょうから。でも私は違います。暴力がなくても、傷つく言葉がなくても、無視は立派な虐めになります。いないものとして扱われる寂しさ、哀しさ、孤独、辛さは並大抵のものではありません」
特に教室が明るい雰囲気であればあるほど、望まずに孤立させられた者の否定的な感情は強くなる。
想像したくはないが、それが積み重なっていった挙句、最悪の選択をする可能性だって考えられる。
実際に中学時代の柚も、何度もそれが頭をよぎった。
なんとか回避できたのは、地元にいる友人たちとまた一緒に遊びたいという願望と、柚自身がしてきた仕打ちの報いだと受け取ったから。
けれど坂本健斗に支えとなるものはあるだろうか。
考えるほどに、まるで自分事に感じられて柚は泣きたくなる。
心情が顔に出ていたのか、気が付けば体育教師が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……取り乱してすみませんでした」
冷静になれば、先輩教師に対してあまりにも生意気すぎた。
教師としての矜持はあれど、必要以上に事を荒立てたいわけでもないのだ。
「いえ、私も考えが足りませんでした。勉強になりました」
すんなりと非を認め、謝罪をする。
想像していたよりもずっと真っ直ぐな性格に、筋肉絶対主義みたいに思っていた自分が恥ずかしくなる。
改めて謝罪をしようとしたが、その前に予鈴が鳴る。
お互いに次の授業の準備があるので会話を切り上げ、それぞれの教室へ向かうために職員室を出た。
*
なんとかしようと該当児童との面談も再度行ったが、良好な結果は得られなかった。ならばと他の児童に手を伸ばしてみても、知りませんという返事があるだけ。
同学年の他学級の担任に助けを求めても、下手に掻き回して自分たちのクラスの和を乱したくないのか、積極的な助力が期待できない。
それでも問題解決のために柚が自分で動くと、学年主任に越権行為だと叱られた。普段は何でも報告しろと煩いくらいなのに、事が虐めになると途端に事なかれ主義に変貌する。
実家の自室のベッドに、着替えもせずに飛び込んだ柚の心に広がるのは焦燥と絶望。そして一番忌避すべき諦観を心の奥底で見つけた時、知らず知らずに柚は涙を流していた。
「……上手くいかないな」
表面上は凪のように静か。
だからこそ他の教師は放置しろと執拗に忠告してくる。
しかし虐めの加害者である柚は思う。
仲間外れにしている側が狡猾で上手くやっているだけに過ぎないと。
そして虐めの被害者である柚は思う。
決定的な決壊を迎えていないだけで、坂本健斗の心は限界に近づいていると。
だが担任である柚に解決する力がなければ、策も思いつかない。
こうした虐め問題に真剣に取り組みたいと教師になったにも関わらずだ。
握った拳をベッドに叩きつけるも、ギシリと音を立てて弾むだけ。気分など晴れはしない。
そんな時だった。
柚のスマホが、意外な人物からの着信を知らせた。
「祐子先生? どうしたんですか?」
もしもしと挨拶をしてから驚き混じりに切り出す。
電話相手は旧姓小石川で、それこそ柚が葉月を虐めていた時代に担任だった女教師だ。
現在は結婚して戸高姓を名乗っており、夫はその葉月の母親の実兄なので、頻繁ではないにせよ、会ったりする機会もあった。
「葉月ちゃんから話を聞いてね」
現役を退いているとはいえ、かつて教師だった女性の経験には重みがある。
素直に厚意に甘え、事情を説明する。
「無視だけなので虐めと言えないかもしれないですけど……」
上手くいかない現状から柚がそんな風に締めくくると、祐子は強く言い切った。
「虐めよ」
電話口で息を呑む柚に、優しく語り掛けるように祐子は話す。
「柚ちゃんほど熱心なら教室の空気の変化は気が付いてるでしょう。そうした場合は大抵異変が起きてるの」
「先生……」
もう違うけどねと祐子は笑い、
「最初はね、なんとかしようと頑張るの。でも学校は何もしてくれない。それどころか責任をすべて押し付けてくる。そんなことを繰り返して、弱い私は見て見ぬふりを覚えてしまった。そのうちに教室の空気に鈍感になり、気が付けば流れに合わせて、一人の女生徒を一緒になって虐めてたわ」
誰のことを言っているのかはすぐにわかった。
柚は口を挟まず、先輩教師の助言に黙って耳を傾ける。
「迷わないで、真っ直ぐに突き進みなさい。駄目なら、柚ちゃんには頼りになる仲間がいるでしょう?
後悔するより、やるだけやった方がすっぱり諦められるものよ」
あまりな言い分に柚はたまらず吹き出した。
「先生、それ励ましてるんですか?」
「もちろん」
「フフ、ありがとうございます」
電話を切って柚は考える。
祐子は教えてくれた。
学校は助けてくれない。
責任は全部押し付けられる。
それなら、と柚は拳を握る。
「好き勝手にやってやろうじゃない」
虐めをなくしたくて教師になったのだ。
全力でぶつかっても夢破れるのなら、白旗を挙げてムーンリーフに就職してやろう。何の解決にもなってない行動方針が決まると、なんだか妙におかしくなった。
*
破れかぶれにも似た前向きさを持ったことが運を呼び込んだのか、翌朝に登校したばかりの柚に事態を一変させる情報が飛び込んできた。
「室戸先生、知ってますか? どうやら生徒たちの間で、裏サイトというものが流行ってるらしいです」
体育教師の明石がもたらした一報に、席に着いたばかりの柚は目を丸くする。
「裏サイトって、一時期話題になってた学校とかクラスのやつですか?」
「はい。野球部の奴に聞いたんですが、学校全体というよりクラスでやっているところがあって、その話を聞いた連中が面白半分で自分たちのも作ってという感じで広まってるらしいです」
匿名の掲示板を使用しているらしく、明石はすでにURLも入手しているらしく、校長に報告に行くと息巻いていた。
「明石先生、私も一緒させてもらっていいですか」
とにかく原因を解明したい一心で申し出ると、熱血の体育教師は快く了承してくれた。
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