家族の新生活編
第313話 春道と和葉の温泉旅行
木々の隙間から尾を引くような光が足元へ届く。
長袖を撫でる優しい風が僅かな冷たさと一緒に、確かな季節の移り変わりを感じさせる。
運転席から降りた春道は乗用車のドアを閉めると、うーんと声を出して大きく伸びをした。
凝り固まった手足を順に解していると、助手席から降りた愛妻が荷物を手に声をかける。
「お疲れ様でした、春道さん」
ふわりと春風に靡くサイドテールを右肩で躍らせながら、眩しい笑顔を贈られれば、長時間の運転の疲れも一気に癒える。
「思っていたよりも、早く着いたわね」
夜が明けるかどうかの時間に出発して、現在は正午を少し過ぎたばかりだった。
「近くに自然公園があるみたいだから、足を足を延ばしてみるか」
「運動もできそうだし、お弁当もそこで食べれば気持ちよさそうね。賛成だわ」
「汗をかいても温泉に入ればいいしな」
方針が決まると同時に、春道は愛妻の和葉から受け取ったバッグを背負った。
*
意気揚々と出発したはいいものの、今年で47歳になる春道の息はすぐに上がり始める。
爽やかに息を弾ませてスニーカーを動かす妻も同い年で、彼女の提案で日頃からよく一緒に散歩をしている。
だからこそ今回も余裕だと思ったのだが、やはり運動不足であったらしく、自宅作業が基本の春道はすでに息も絶え絶えだ。
「もう少しだから頑張って」
螺旋のように整備されていたアスファルトが車を導いてくれたのは自然公園の入口までで、そこからは徒歩移動だったのも誤算だった。
「やっと着いた……」
ひいひいはあはあと乱れきった呼吸を地面にぶつけ、膝に両手を置いていた春道は、愛妻の「お疲れ様でした」を合図になんとか顔を上げる。
「では、あちらの休憩スペースでお昼にしましょう」
目の前に立ち塞がるような愛妻は笑顔で、しかし微妙に不自然でもあった。
何より彼女の背後にあるものを目撃して、春道は半眼になる。
「和葉……ロープウエーはないって言ってたよな……」
「そうね」
「そこにあるのは……」
「春道さん、疲れてるのね、幻覚を見てしまうなんて」
「いやいやいや、笑顔で皆、乗り降りしてるし!
道理で遊歩道を利用してる人が少ないわけだよ」
春道は一生懸命にロープウエーを指差すが、当の愛妻は飛んできそうな唾を回避しようとするかのように、そっぽを向いて額に手を当てていた。
「山にある自然公園だから疲れたより憑かれたのかしら」
「うわ、なんか怖いこと言い出したぞ」
愕然とするふりをした春道に、もう、と言いたげに和葉が軽く叩くポーズをする。
「見て、春道さん。とてもいい景色よ」
眼下に広がるのは壮大な緑。森のような一帯の先には遠目で駅周辺の発達した街並みまでが見える。
冷たさを含んだ少し強めの風が前髪を揺らす。緑と土、僅かな砂の匂い。手を置いている金属の落下防止の柵はひんやりとしている。
「結構遠くまで見渡せるんだな」
「高さ1メートルからなら、3.57キロメートル先くらいまで見渡せるんじゃなかったかしら」
森みたいな緑地地帯には数多くの生物が住み、家の一軒一軒ではそれぞれの人間が生活している。
そう考えるだけで、なんとも不思議な温かみで春道の心が満たされた。これも山という自然環境がもたらす恩恵なのかもしれない。
「春道さん、何を考えてるの?」
「哲学的なことかな」
予想外の答えだったのか、和葉がプッと吹き出した。
「私はてっきり、寂しさを噛み締めてるのかとでも思ったわ」
「うん? 出会った頃の和葉のツンとした感じも魅力的だったけど、俺は今の方が好きだぞ」
「……っ! もう……それは嬉しいけど、以前のことは……って、そうじゃなくて」
「ハハ、わかってるさ」
顔を真っ赤にして拗ねる愛妻の黒髪を優しく撫でる。
指の隙間からさらりと流れる感触を楽しみながら、春道は目を細めた。
「葉月も菜月も無事に育って、巣立ってくれたからな。
長女はまあ家に戻ってきてるけど」
「だから意外と平気なのかもしれないわね。
葉月が寮生活の時は菜月がいてくれたし」
「友人関係も賑やかだったからな。色々あったみたいだが、良い友人に巡り合ってくれたよ」
「当時は当時で大変だったけどね。私では解決できなかった問題もあったし」
和葉が表情を曇らせた。
長女が小学生時代、虐めにあっていたのを思い出しているのだろう。
問題を知った和葉は担任教師に申し出たが、余計に話が拗れてしまい、虐めは収まるどころか激化の兆候を見せ始めていた。
そんな時に春道は当時松島姓だった2人と出会い、偶然に近い形だったが虐めを解決する手助けができた。
そこから業務的だった和葉との関係も大きく変わっていったのである。
「過ぎてしまえば良い思い出……にはならないかもしれないが、それでもあの一件は葉月や俺たちを成長させるために必要だったと前向きに考えよう」
それもこれも結果が上手くいったから言えるのだが、そう付け加える前に、僅かに瞳を潤ませた和葉が頭の上にある春道の手に触れた。
「俺たち、と言ってくれるところが春道さんの優しさね」
平日で利用客が少なかったのもあり、春道と和葉はしばらく手を繋いだまま、肩を寄せ合って美しい景色を眺め続けた。
*
「こ、こういうのは、照れるわね……」
もじもじと背中を見せている愛妻の項が実に色っぽく、春道もまた湯舟の熱さとは別の影響で顔を真っ赤にしていた。
「た、たまにはいいだろ、せっかくの機会だし……」
自然公園で景色を堪能したあと、旅館に戻った春道たちは早速ひと風呂浴びようとして、家族風呂があったのを思い出した。
夕方前だけに利用している人もおらず、1時間の貸し切りで入浴したのだが、頼む時はわりと意気揚々だったのに、いざ実行に移そうとしたあたりから照れと恥ずかしさが急速に膨れ上がってしまったのである。
少しでも冷静になろうと、春道は立ち上る湯気を吸いながら周りの様子を見る。
露天でこそないが大きめの浴槽が壁に沿って設置されていて、対面の壁には2つのシャワーが仲良く並んでいる。
浴室自体はさほど広くはなく、大人二人に子供が二人も入れば手狭に感じられるくらいだった。
脱衣スペースは休憩所みたいになっていて、木目調のモダンな椅子と長机が用意されていた。ハニーブラウンの床や壁と同色なのが自然的な雰囲気を演出している。
だが少し視線をずらすと、浴室と脱衣所を隔てている大きなガラスドアとガラス壁が目に入る。
家族風呂を利用するくらいなのだから問題はないのだろうが、浴室からは脱衣所の、脱衣所からは浴室内の様子が丸見えだった。
曇り止めでも使っているのか、浴室内の湯気にも一切負けていない。
「は、春道さん、どうして、その、黙っているの」
「すまん、ちょっと中の様子を見てた」
「そ、そうよね、おばさんを見てるよりは――えっ」
最後まで言わせずに、春道は愛妻の細い肩を抱いた。
「和葉は綺麗だよ、いつだって魅力的だ。だから俺も照れてしまう。もう立派なおじさんなのにな」
「……ありがとう。春道さんはいつだって私の欲しい言葉をくれるのね」
「たまに的外れなことも言うけどな」
照れ臭くなった笑う春道に、和葉もまた負けないくらい照れと愛情のこもった笑顔を見せてくれた。
*
「美味しい」
湯上りで火照った美貌が蕩けるように緩むのを見て、春道も嬉しくなる。
「そうだな、有名なとこだけあって、料理もパンフレットに近いし」
大きめの座卓に用意された夕食は日常とは違う彩りに溢れていた。
メインとなるお刺身の他に魚の照り焼き、根菜をふんだんに使ったサラダ。汁物には肉も入っている。
それなりに奮発したかいがあったと、ほくほく顔の愛妻を見るたびに春道は嬉しくなる。
「お豆腐もお出汁が染み込で最高だわ。作り方を教えてもらえないかしら」
「ハハ、さすがに料理長を呼ぶわけにもいかないだろ」
「そうね、あ、こっちのデザートは水饅頭ね」
「世間一般では葛饅頭と言うみたいだけどな」
地方と都会の言葉の違いを二人でお喋りしつつ、春道が水饅頭の乗った小皿を差し出すと、嬉しそうに愛妻は箸を伸ばした。
「食べた分は、明日しっかりと運動しないと」
「今日、自然公園で動いた分の補充ということにしておいてくれ」
「却下します。春道さんはすぐサボろうとするんだから」
クスクスと笑いながら食後のお茶を堪能し、障子を開けて縁側の椅子に揃って座る。10畳程度の本間と違って二人が並んで座ると少し手狭に感じられる。
だがすぐにさほど気にならなくなる。
周辺に大きなビル群のない夜景は広々としており、温かみのあるオレンジの明かりと舞い降りる月光が混ざり合って、なんとも幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「門限までまだ時間があるし、外に出てみるか?」
「是非、そうしましょう」
少しだけ呑んだお酒と肌寒い夜風、あとは解放感のせいだろうか。春道と和葉は自然と腕を組み、言葉もなく歩き続けた。
「綺麗ね……」
呟いた愛妻に頬を寄せ、悪戯気味に春道は呟く。
「月並みな臭い台詞を思いついたけど、どうする?」
「少しはムードを考慮してほしいわね」
自宅で留守番をしている長女みたいに唇を尖らせた和葉だったが、すぐに顔を綻ばせた。
「でも今夜は特別に、月並みな臭い台詞を頂こうかしら」
「かしこまりました、マダム」
顔を寄せ合い、はしゃぐ。
ただ歩いているだけなのに、春道は二人にはなかった恋人としての時間を過ごしているような気分になった。
*
「今日は本当に楽しかったわ」
二つ並んだ布団で和葉が顔だけをひょっこり出した。
枕元のスタンドに薄っすらと照らされた美貌は、まだ興奮が残っているかのように色っぽい。
「俺もだ。こんなに幸せな時間を過ごせるとは思わなかった」
枕の上で両手を組んでいた春道は、慌てて天井に向きかけていた視線を愛妻に戻す。
「だからといって普段が不幸ってわけじゃないからな。和葉がいて、葉月がいて、菜月がいて、忙しいけど賑やかな日々も間違いなく幸せなんだ」
「わかってるわよ」
クスクスと笑う和葉は少女みたいで、けれど不意に見せる優しげな表情はまるで聖母みたいで、春道の心臓は先ほどからずっとドキドキしっぱなしだった。
「ねえ、春道さん」
「ん?」
「……そっちに行っていい?」
「ああ……今夜は少しだけ寒いしな」
「ふふ、そうね」
お互いの温もりが届く距離で、何故か自然と囁くような声に変わっていく。
抱き締めた妻の息遣いを腕の中で感じながら、春道はこの上ない安心感に包まれて、ゆっくりと眠りに落ちていった。
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