第308話 高校最後の夏の大会

 夏は暑い。

 そう痛感させられるグラウンドで、キャッチャーマスクを被っている菜月は、頬に汗が流れ落ちるのも気にせずに大きな声を上げる。


「ここは、なんとしてもしのぐわよ!」


 真っ先に呼応するのはファーストの茉優だ。

 続いてマウンドに立つ愛花が大きく頷いた。


「もちろんです! 春みたいな悔しい思いはもうたくさんです!」


 美由紀と実希子の猛烈な指導に耐え、春の雪辱を胸に抱いて望んだインターハイ県予選。


 優勝候補の本命とされていた菜月たちはプレッシャーに打ち勝って、葉月たち以来、十年ぶりのインターハイ出場を決めた。

 当初、応援に来る予定ではなかった葉月や実希子が、両親と一緒にスタンドで応援してくれている。


 今頃、ムーンリーフでは好美と和也、さらには尚までもが、子供を実家に預けてまで手伝ってくれていた。

 申し訳なさそうにする葉月に対し、当人は丁度良い気分転換になると快く承諾してくれたらしかった。


「てえいっ!」


 気合の咆哮を放った愛花渾身の一球が、菜月のミットを激しく揺らした。


 見事に二死一三塁の窮地を脱した愛花は、やはり観客席にいる宏和に向って拳を突き上げた。

 まだ一年生ながらすでに試合にも出ている宏和だが、怒られるのを覚悟でこっそり応援に来てくれたらしかった。


「愛花が踏ん張ってくれてるうちに、なんとか先制点を取るわよ!」


 美由紀の檄に応え、回の先頭打者となった二番の明美が執念で四球をもぎ取る。

 こうなれば菜月のやることは一つだ。


「ナイスバント!」


 頭上から実希子の嬉しそうな声が降ってきた。

 打順こそ三番にまでなったが、群を抜くほどの打力を身に着けたわけではない。小柄でもある菜月は、こうして繋ぐ技術も熱心に会得していた。


「ワンナウト二塁! チャンスだよ!」


 二塁上から明美が声援を送る相手は四番の涼子だった。


「わかってるって! 南高校、主砲のボクに任せといてよ!」


「涼子! 振りが大きい!」


 悲鳴にも似た監督の注意が飛ぶも、時すでに遅し。

 活躍を夢見た主砲はあえなく三振に倒れてしまった。


「ごめん……」


 とぼとぼとベンチに戻ろうとする涼子の肩を、ドンマイと茉優が叩く。


「茉優、頑張って!」


「うん! まだなっちーや皆と野球がしたいから、打つよ!」


 気合を漲らせた茉優が打席に入る。

 そんな彼女から、まるで実希子が乗り移ったような威圧感が立ち上る。


「茉優なら涼子に匹敵、あるいはそれ以上の能力があるはずなのよ。だけどむらっ気があるせいで、その実力を完全に発揮できないでいた。

 ……と私は予想するけど、一番の親友の意見はどう?」


 意見を求められた菜月は、隣の美由紀に思ったままを答える。


「それに加えて闘争心も不足気味ですからね。茉優が試合に臨む際に考えるのは、勝ちたいよりも遊びたいですし」


 チラリと打席の親友を見て、しかし菜月は少しだけ頬を緩める。


「でも今日は違います。三年生の私たちが次の試合をするためには、勝つしかない。しかも次が見えた中学生の時とは違います」


「進路が異なれば、このメンバーで試合できるのも最後かもしれない。だからこの夏は気合が入りまくってるのね。正直、四番にしても不足がないくらいよ」


 菜月と美由紀の会話が聞こえていたのか、愛花がベンチから上半身を乗り出す。


「わたしだって、まだまだ皆と試合がしたいです! 茉優、打ってください!」


「もちろんだよ!」


 タイミングを完全に外されたチェンジアップ。しかし茉優は体勢を崩されながらも、左腕一本で払うように白球を左翼前へ運んだ。


 二死になっていたことで、茉優が打つなりスタートを切っていた明美が猛然と本塁へ帰ってくる。好返球が来たものの、間一髪スライディングをした明美の足がホームベースを捉えた。


「セーフ!」


 球審が両手を広げた瞬間、南高校のベンチは歓喜に包まれた。


   *


 茉優の先制点で勢いに乗った菜月たちは全国大会で初勝利を収め、続く二回戦もエースの愛花が踏ん張って4-3で辛くも逃げ切った。


 葉月たちの代でさえ成し得なかった快進撃に地元は大興奮だと、泊りがけで菜月の応援を楽しんでいる両親とは違い、試合がない日には店に戻っている葉月や実希子が教えてくれた。


 クラスメートからも続々と祝福のメールが入り始めた頃、菜月たちが臨んだのはベスト8をかけての一戦だった。


 さすがに全試合を愛花に任せるわけにはいかず、この日の先発は茉優が務めた。


「まだまだ気合は売り切れていないみたいね」


 初回から全力で飛ばしているにもかかわらず、中盤の五回に突入しても茉優のボールの勢いは少しも衰えていなかった。


 チラリとスコアボードを見れば、両軍ともに0が並んでいる。


 どちらが先に均衡を破るのか。

 試合をしている選手のみならず、両校の応援席も固唾を呑んで見守っていた。


 甲高い音がして、打球が勢いよく転がる。


「簡単には抜かせません!」


 茉優に代わって一塁に入っている愛花が横っ飛びで捕球し、ダッシュでベースカバーに入った茉優にボールを放る。

 塁審が右手を高々と掲げ、五回表の敵の攻撃が無得点のまま終了する。


「愛花ちゃん、ナイスプレー!」


「任せてください! ここまで来たら全国制覇です!

 さあ、菜月! 次は貴女からですよ!」


 準備を整えて相手投手と対峙した菜月は、ふうと大きく息を吸い込んだ。

 負けたくないのも、もっとこのメンバーで試合したい気持ちも一緒だ。


 高校三年生の夏。大好きな姉と同じく主将として全国大会の舞台に立った。

 そして実希子を擁しても勝ち抜けなかったインターハイで、ベスト16まできた。


 人間とは不思議なもので、大会前には予想もしなかった好成績を収めても、次から次に上が欲しくなる。


 ――まだまだ霞んでいるけれど、せっかく見えた頂点に手を伸ばさないのは愚行ね。


 左足でタイミングを取り、高めの真っ直ぐ一本にヤマを張る。


 ――きた! 狙い通りのストレート!


 頬を膨らませて息を止め、渾身の力でバットを振る。

 三年間、苦楽を共にしてきた相棒が奏でたのは、ソフトボール人生で初めて聞くような極上のメロディだった。


「行ったァ!」


 今日も応援に来てくれていた葉月が叫ぶ。

 両親が抱き合って喜ぶ。

 興奮しすぎた実希子がスタンドから落ちそうになって、周囲から注意を受ける。


 ――ありがとう。ソフトボールの神様。


 心の中でお礼を呟いた菜月が見つめる先、遠いフェンスの向こう側に重そうな音を立てて白球が落ちた。


 公式戦で初めて打った本塁打だった。


「いよっしゃあああ!」


 腹の底から菜月は叫んだ。こんなに感情を出したのは生まれて初めてだった。

 観客席の真が大喜びしながら写真を撮っている。きっと後で絵に描くつもりなのだろう。

 高々と右手を突き上げた菜月に応えるように、ベンチの興奮も最高潮に達する。


「勝つわよ、茉優! もっともっと熱い夏を続けましょう!」


「うんっ!」


 チームメイトとハイタッチを終えた菜月は、最後に大好きな親友と思い切りハグをした。


   *


 インターハイに来て以来、お世話になっていた老舗旅館の大部屋で、監督の美由紀が部屋着姿でジュースが並々と注がれたグラスを掲げる。


「皆の頑張りと、関係者の応援もあって、南高校ソフトボール部は創立以来初めてとなるインターハイベスト8の好成績を収めました。私は滅多に部員を褒めませんが、今日ばかりはいい加減にしろと怒られるまで褒めたいと思います!」


 熱戦の余韻と悔しさが残る中、主将の菜月が美由紀に呼ばれた。

 頬に涙の痕が残っていないか指で確認してから、キャプテンとしての最後の務めを果たす。


「目指していた優勝はできませんでした。もちろん悔しさはまだあります。ですが、それ以上に私は楽しかったです。気の置けない仲間に囲まれ、夜遅くまで練習し、たまには好きなパン屋さんで買い食いして……すべてが大切な想い出です! だから最後は涙ではなく、皆で笑って締めくくりましょう!」


 拍手が起こり、涙目だった部員も頑張って笑顔を作る。

 次に一緒になって部を支えてくれた愛花に場所を譲り、特別に彼女にも挨拶をさせた。


 結局、三年生全員が挨拶をしてから、本格的に反省会兼三年生の送別会が始まった。次の主将に指名された二年生は、来年の夏は菜月たちの雪辱を果たしたいと誓ってくれた。


 ゆっくりと温泉に浸かり、修学旅行みたいな大部屋でお喋りをする。

 強豪よりも部員数が少ないのもあって、学年ごとに大部屋を借りていた。


「この旅館とも今日でお別れかあ。インターハイってのもあって、春よりも奮発してもらったのになあ」


「涼子、その発言は春にお世話をしてくださったところに失礼ですよ」


「大丈夫だって、聞こえてないから。

 それに……もう行くこともないだろうしな……」


 寂しそうに涼子が枕に顔を埋めた。

 全員が部屋着に着替えており、いつでも眠れる準備はできていた。

 けれど誰も目を閉じようとはしない。


「終わっちゃったんだねぇ……」


 茉優がポツリと呟いた。

 静かな夜に切ない沈黙が舞い降りる。


 今夜ばかりは美由紀も早く寝ろと見回りに来ることはなかった。春道や和葉を筆頭に何人かまだ残っている保護者と、酒盛りでもしているのだろう。


「でも……楽しかったわ」


 ごろんと仰向けになって、菜月は笑う。

 やりきった感が強く、これまでと違って悔しさよりも満足が上回っていた。


「あたしもかな。中学で入部した時はどうなることかと思ったけど」


「最後までやりきりましたね」


 明美も愛花も、菜月と同じように寝転がって天井を眺める。


「まあ、楽しかったのは確かだよな。特にベスト8進出を決めた試合が」


 含み笑いをした涼子に、すかさず茉優が同意する。


「なっちーがホームランを打ってくれたんだよねぇ」


「そう! で、その後、まさかのいよっしゃが飛び出したわけだ」


「アレはホームランより驚いたかも」


 明美にまで笑われ、菜月は赤面する。


「もうそろそろ勘弁してほしいのだけれど」


「だめだめ!」


 涼子が楽しそうに首を左右に振った。


「ずっと語り継ぐんだよ。皆の進路がバラバラになったとしても、集まるたびにね」


「……私、出席を拒否してもいいかしら」


「構いませんよ。その場合は皆で菜月のところに押しかけますから」


「もう……そんなことを言う愛花はこうよ!」


 飛び跳ねるように起きて、愛花の顔に枕をバフッと乗せる。


「やりましたね! お返しです!」


 逆襲の枕が、高校生になってもさほど成長してくれなかった胸にぶつけられる。もっともそれは愛花も一緒なのだが。

 中立から明美軍寄りになった涼子が、菜月たちを見て目を爛々と輝かせる。


「枕投げならボクも混ぜてよ!」


「今夜だけはあたしも参加するわ。覚悟してね」


「茉優も負けないよぉ!」


 日中の昂揚感そのままに三年生全員が枕投げに興じ、最終的には般若のような顔をした美由紀に乱入され、枕ではなく菜月たちが布団に投げ飛ばされた。

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