第298話 進級と特訓
中学時代に全県大会に出場できた時並みに、嬉しかったかもしれない。
二年生になってクラス替えの通知を廊下で見た菜月は、思わず小さなガッツポーズをしていた。
「ふわぁ。今度は皆一緒だねぇ」
背後から茉優が圧し掛かってきた。後頭部に当たるたわわな感触が実に腹立たしいが、今日ばかりは文句を言うまいと菜月は嘆息する。
「こういうこともあるんですね」
五年連続で菜月と同じクラスに決まった愛花が、若干の驚きを見せていた。
「中三の時を思い出すな」
「楽しくなりそうね」
涼子が嬉しそうに言えば、いつになく明美もはしゃぐ。
男子陣の真と恭介も楽しげに挨拶を交わしている。
「こうなると担任は……」
菜月が予想を披露する前に、教室のドアがガラガラと音を立てて開いた。
「皆、席について。特に男女で話をしてる生徒ー。言うこときかないと山のような課題を出すわよー」
にこやかにとんでもない宣言をぶちかましたのは、去年だけである意味、校内で一番有名な教師となった美由紀だった。
「教室でも変わらないのね」
笑う明美に、疲れた様子で愛花が「だから言ったでしょう」と告げた。
「今年ばかりは学級委員長を辞退したいです……」
「愛花がそんなことを言い出すなんてよっぽどだな。風邪でも引いたのか?」
額に手を当てようと伸ばした涼子の手を、愛花がガッチリと掴んだ。
「それならまだマシです! 美由紀先生は常に異性交遊がないかばかり聞いてくるんです。あれはもう一種のセクハラです!」
「愛花、人聞きの悪いことを言わないでちょうだい」
話が聞こえていたらしい美由紀が、教卓に学級名簿を置くなり、やんわりと注意した。
「先生は皆が道を踏み外さないように見守っているの。来年は受験の人も多いでしょう? 準備は今から必要になるわ。そんな大事な時に男女間の煩わしい関係に悩まされて、身も心もボロボロになったらどうするの」
「あの……必ずボロボロになるわけじゃないと思います」
勇気ある女子生徒の一人がおずおずと手を上げて発言した。
だが鋭い眼光に晒され、一瞬にして首を竦めて黙り込んでしまう。
「なります。必ず。男なんて信じるに値しないんです! いっそ滅べばいいんです! そうです、そうしましょう!」
「ふわぁ。なんだかゲームの魔王みたいなことを言い出したよぉ」
「ボンテージとか着たら、しっくりきそうだよな」
「茉優も涼子もやめなさい。先生に聞こえてしまうわよ」
慌てて菜月が二人の口を塞いだ。
幸いにして、駄目な大人ぶりを示す演説を高らかに行う女教師には聞こえていないみたいだった。
*
「まさか立候補もなしに、委員長に指名されると思いませんでした」
昼休み。パンが売られている一回の昇降口を目指しながら、菜月の隣で愛花が苦笑いをした。
少し後ろから涼子と明美が、慰めるように彼女の肩を叩いている。
「おっひるごはん♪ おっひるごはん♪」
スキップしながら先頭を軽やかに進む茉優に、菜月は「楽しそうね」と声をかける。
「そんなにお腹が空いていたの?」
「それもあるけどぉ」くるりと振り返った茉優がにぱっと笑う。「皆で一緒に食べられるのが嬉しいんだぁ」
「去年も集まって食べたりしていたけれど、さすがに毎日ではなかったものね」
それぞれの教室でできた話し相手と一緒に食べたりなど、各自の事情があって基本的な集合場所だった菜月と愛花のクラスに全員が揃うのはそこまで多くはなかった。そんな中でも茉優だけは、恭介と一緒にかなりの参加率を誇っていたが。
「でも、まっきーは毎日、なっちーと一緒だったよねぇ」
「私の顔を見られないと、真が寂しがるのよ。いまだに毎日、一緒に登校しているのだけれどね」
菜月がやれやれと肩を竦めると、真が吹き出しそうになった。
「だ、だって、それは……菜月ちゃん!?」
「恥ずかしがる必要はないでしょうに」
口元に手を当てた愛花が、クスクスとお嬢様っぽく笑う。
「ソフトボール部の朝練の時間に合わせてまで、菜月や茉優と登校してるのは女子の間では有名な話ですし」
「おかげでまっきーは菜月狙いだった男子に恨まれてるっぽいな」
ニヤニヤする涼子に、真ではなく菜月が「そうなの?」と尋ねた。
「知らなかったのか。外見はちっこくて可愛らしいのに、性格がキツいのがいいらしいぞ」
「……なんだか真っ当な人気ではない気がしてきたのだけれど」
「いいじゃねえか。ないよりはあった方がいいだろ、何でもな」
「それはそうだけれど――」
頷いて菜月はハッとする。
いきなり横からかけられた聞き覚えのある声は、本来この場にいない人間のものだったからだ。
「実希子ちゃん!? どうして――って、パンを売っているの?」
所狭しとパンが並べられた長机の後ろに、ムーンリーフの制服姿の実希子が立っていた。相変わらず色々とパツパツなので、思春期の男子生徒の注目を一身に集めている。
「遠方の配送は仲町がやってるからな。別の高校には好美が行ってるぞ」
「ならチェンジで」
「高額な違約金が発生するけどいいか?」
阿呆なやり取りをしながらも、菜月は好物のメロンパンを手に取る。
「これからは実希子ちゃんが、私たちの高校を担当するってことかしら?」
「多分な。本当は葉月がやりたがったんだが、あいつは店長だしな。昼前に必要な分の調理を終わらせて、今は店に立ってるよ」
「はづ姉をからかうネタが出来たのは喜ばしいけれど、急にどうしたのよ。去年までは用務員さんや購買の人に頼んでいたでしょう?」
だからだよ、と実希子は口角を軽く吊り上げた。
「いつまでも高校の関係者に任せきりってわけにもいかないだろ。仲町だって昼前に戻ってきて動員されてるんだぞ」
「それから昼休憩を挟んで、午後の配送に向かうの?」
「商品が不足してたらな。もっとも、午前中に納入する量を増やしたから、最近はこまめに補充することは減ってるっぽい。葉月はたくさんの商品を並べておきたいみたいだが、好美が廃棄を増やすよりは、多少なりとも希少価値を出した方が人気が続くって主張してな」
「喧嘩したの?」
「あの二人がそんなことになるわけないだろ。最終的に葉月が納得したんだよ」
というよりも、好美があらゆるデータを駆使して納得させたのだろう。
「はづ姉が店を持つことに当初は心配したけれど、好美ちゃんのおかげで何とかなりそうでホッとしているわ。これが実希子ちゃんと二人だけだったらと考えると……ああ、恐ろしい」
「なっちー、そのメロンパン、100万円だから」
「訴えるわよ?」
普段と大差ないやりとりをしながら、菜月たちは部活後の分も含めて実希子からムーンリーフのパンを購入したのだった。
*
「ああ……感じます……感じてしまいます……って、菜月! どうしてわたしから距離を取るんですか!」
「マウンドでくねくねしながら意味不明な言動をしていれば、私でなくともドン引きするのは当たり前だと思うのだけれど」
半眼で指摘した菜月だが、愛花の気持ちがわからないわけではなかった。
その愛花が、だってと興奮を隠そうともせずに両手を広げた。
「見てください! あの新入部員の数を! 十人を超えてますよ! わたしの華麗な投球フォームに、視線が集まってるのを感じます!」
「新入部員ではなくて見学者よ。それに後輩なら中学でもいたでしょう」
グラウンドの隅に整列して見学中の新一年生の中には、中学生時代からの菜月たちの後輩も含まれていた。
「数が違います、数が! 高校って素晴らしいです……」
「感動しているところ悪いけれど、たまたまだと思うわよ。二年生は私たち5人を含めて8人しかいないのだし」
「相変わらず菜月は冷静ですね。涼子なんて、あんなにはしゃいでいるのに」
ショートでノックを受ける涼子が、普通に追いつける打球にもダイビングキャッチを披露する。
感嘆の声が見学者から上がり、それを見た菜月はため息をつく。
「普段から愚痴っているわりには、自分から女性ファンを増やしに行っているようにしか――って、ちょっと。サードに部外者が乱入しているのだけれど」
「バッチコーイ!」
元気に叫んで、わざわざ持参したっぽいジャージ姿で実希子が土埃を上げる。
去年からたまに練習を見に来てくれていたので、部員で怪訝そうにする者は誰もいない。
「ふわぁ、実希子ちゃんがいるねぇ」
会話に加わるためか、とことこと茉優がマウンドまで歩いてきた。
「なんか中学の方は監督の邪魔をしたくないから、教えに行くのを控えるみたいだよぉ」
「そうなの? それなのにウチには来るのね」
「美由紀先生が招集してるみたいだよぉ。中学より部員も多いし、個別練習をさせたい人にコーチさせたいんだってぇ」
「……茉優って何気に情報通よね」
「ふえ? そうなのかなぁ? なんか茉優が隣にいると、皆、話しかけてきてくれるんだぁ」
元からほんわかした性格だったのに加え、恭介と交際してからの茉優は笑顔が絶えないので、隣にいると不思議な安心感がある。そのせいで美由紀や実希子も口が軽くなってしまうのだろう。
「何にせよ、実希子コーチがわたしたちに注力してくれるのであればありがたいです」
「まあね。天才肌だから才能だけで打っていたかと思いきや、意外と教えるのも上手いし」
モチベーションの管理も含めて実希子は優秀なコーチになれそうだし、性格に多少の難こそあるものの、美由紀もソフトボールをよく理解しているので、監督として頼りがいがあった。
*
「なっちー! 愛花! お前らはこっちに来てくれ!」
投球練習を終えるなり、実希子が右手を上げて呼び寄せる。
「ブルペンで新球習得の特訓でもするんですか!?」
新入生が見学しているのもあり、大張り切り中の愛花が瞳を輝かせる。
「うんにゃ。お前らは打撃練習。主力なのに打てなさすぎ」
「う……」
愛花が言葉に詰まる、
球技大会なら主砲でも、公式大会となれば彼女も菜月も下位打線の主だ。攻撃の流れを途切れさせてしまうことも珍しくなかった。
「美由紀先輩から、もう少しなんとかしてくれって要望があったからな。しばらくはアタシがつきっきりで面倒を見てやる」
「お店はいいの?」
「心配すんなって。昼を過ぎれば多少の余裕はできるんだよ。店には好美もいるし、葉月にもなっちーに協力してやってくれと頼まれてるからな。野球部ともども」
「野球部?」
「おう。あっちには仲町が臨時のコーチとして入ってんだよ。宏和は最後の大会になるし、母校のために少しは役に立ちたいんだと」
野球部の専用グラウンドの方向を実希子が見つめる。
少しだけ一緒に眺めたあと、愛花がむんっと両拳を握りしめた。
「わたしも頑張ります! そして宏和先輩と一緒に全国大会へ行きます!」
「心掛けは立派だけれど……。
ソフトボール部の全国大会は甲子園で開催されないわよ?」
「そ、それくらい知ってます!
わたしだって初心者だった中学生の頃とは違うんです!」
「ハハっ。それくらい元気がありゃ、多少は厳しくしても大丈夫だな。まずは素振り500くらいからいっとくか」
実希子が笑顔でとんでもないことを言い出した。
「嘘でしょう……」
さすがに500スイングはさせられなかったが、マシンを使った打撃練習と合わせて、日が暮れるまで菜月と愛花は徹底的にバットを振らされた。
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