第266話 菜月の卒業式

 通い慣れたその道を、普段は何気なく駆け抜けたその道を、菜月は踏みしめるように一歩ずつ歩いた。低学年の頃に知り合ってから、日課になった気弱な少年の迎え。途中からは新しい友人となった少女が合流することになった。


 いつもの待ち合わせ場所で、中学校の制服となるセーラー服姿の茉優が立っていた。使い古したランドセルにはつい先日、皆でお別れの挨拶と労いを済ませたばかりだ。


「なっちー、おはよ。今日は良い天気だねぇ」


 燦燦と輝く春の太陽を見上げ、片手で日差しを防いだ茉優が目を細める。発育が良く、身長も高い少女にはセーラー服がよく似合っている。むしろ今までのランドセル姿が、どこかアンバランスだったほどである。


「おはよう。雪が降らなくて良かったわ」


 気軽に応じつつ、こっそりと菜月は中学生になろうとしているのに、頑なにいまだ平坦さを維持している自分の胸を見た。身長もあまり伸びてくれず、身長順に並べば最前列か二番目が定位置となる。和葉も葉月も決して背は低くないのに関わらずだ。看過できない現実に歯噛みしたい気分を、今日は晴れの卒業式だからとかろうじて堪える。


「本当だよねぇ。でも、なんだか変な感じだねぇ」


「私もよ。制服に着慣れていないからでしょうね」


「なっちーとお揃いだから、茉優は嬉しいんだ」


「私どころか、必然的に同じ中学校の女子は同じ服を着るけれどね」


 紺色がベースのセーラー服は、純白のスカーフが特徴的だ。デザインは昔ながらのよく見るタイプで、葉月の頃から一切変わっていないらしかった。


 その高木家長女は先日、卒業した大学の寮から出て、地元のパン屋に就職が決まったのもあって実家に戻ってきていた。


 葉月のお下がりもあったのだが、当時の葉月と比べても身長差があったので、結局新しいのを購入した。中学生活で身長が伸びた場合は、逆に姉のを貰い受ける形になる。


 会話をしながら、真の家へ向かう。初めの頃は真を誘ってから茉優と合流したものだが、年月が経過するにつれ、菜月と一緒に歩きたいとの理由から現在の形に変わった。


 中学校からは自転車通学も許可されるらしい。どのような登校になるのかはまだ不明だが、入学からしばらくは現状が維持されるだろう。


 とはいえ登校中に見る風景は確実に変わる。小学校と中学校では、向かう方向が別だからだ。


「中学校でもソフトボールをやるんだよねぇ?」


「もちろんよ。はづ姉の代は強かったみたいだけれど、今はそうでもないらしいわ。もしかすると、一年生からレギュラーになれるかしら」


 自分で口にしておいてなんだが、その可能性が低いのは誰より菜月がわかっている。部員数が少なくて出場しなければ試合が成立しないのならまだしも、そうでなければ入部してすぐに戦力たりえるのは佐々木実希子のような人外じみた選手だけだ。


「中学校でも、なっちーとバッテリーが組めるといいねぇ」


 茉優の願望は、そのまま菜月の希望でもある。秘密にしていたつもりが実は公然の事実だったらしく、昨年の夏の大会で捕手として試合に参加できた。


 さほど多い守備機会ではなかったが、菜月の特訓に嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた茉優のボールを試合で受けられたのは、とても幸せな時間だった。だからこそ中学校では、最初から捕手を希望しようと決めていた。


「まっきーはどうするんだろうねぇ」


「入学してからの話でしょうけれど、美術部があればそちらに所属するでしょうね。真のことだから、試合のたびに応援に来そうだけれど」


「きっとそうだねぇ。まっきーらしいねぇ」


 茉優と楽しそうに笑い合っているうちに、目的の鈴木家に到着する。インターホンを鳴らす前に、すでに学生服姿の真が家前で立って待っていた。


「私たちが呼ぶまで待っていればいいのに。相変わらず律儀というか、気を遣う性格をしているわね」


 困ったように笑う真に対し、いつも同様のにこにこ顔で茉優がとんでもない爆弾を放り投げる。


「きっと、見られると困るものがあるんだよ!」


「えっ!?」途端に発火したように顔を赤くした真が動揺を露わにした。「そ、そんなのないよ! この前だって僕の部屋で遊んだでしょ!」


 確かにその通りなので疑いようはないのだが、茉優はさらりと言葉を続ける。


「慌てて隠してるんだよねぇ」


「だ、だから違うってば! どうして茉優ちゃんはそんな話をするのさ!」


「この前ねぇ、パパの会社のお友達が来た時に言ってたの。年頃の娘さんがいると、見られて困るものは家に置けませんねって。絶対に見つからない隠し場所があれば別ですけどって。茉優はもう奥の部屋で寝てると思ったんだろうけど、こっそり聞いてたんだぁ」


 何故か、えっへんと胸を張る茉優。本人的には、大人の知識を皆に披露したとでも思っているのかもしれない。


「茉優パパのお友達が、なんとくなくだけどろくでもない人間なのは理解できたわ。健全な男性が、年頃の娘相手に見つかってはいけない、隠したいものなんてそう多くもないでしょうし」


「そうなんだ。なっちーはそれが何か知ってる?」


「私は女性だから詳しくはわからないわ。そういうのは茉優パパと同じ男性の真が詳しいはずよ」


 視線を向けられた真は嫌な予感でもしたのか、空でも飛びそうな勢いで左右に首を往復させていた。


「し、知らないよ!」


「そんなことを言っておきながら、実はベッドの下とかに隠してあるのではないの?」


「じゃあ卒業式が終わったら探検だねぇ」


「べ、べべ別に何もないってば! 探検しても無駄だよっ」


「慌てれば慌てるほど、図星をつかれた言い訳みたいに見えるわよ」


 虐めるつもりは毛頭なかったのだが、真はガックリと肩を落としてしまった。


「……本当に変なものはないんだよ。ただ、その……描き貯めた、あの……似顔絵が……たくさん、あって……」


 消え入りそうな声での釈明に、真っ先に反応を示したのはもちろん茉優だった。


「まっきーは絵が得意だもんねぇ。誰の似顔絵を描いたの?」


 友人の顔を覗き込む少女の瞳には、ひと欠片の悪気もなかった。泣きそうになりながら、こちらをちらりと見る真の反応で、誰の似顔絵かを察した菜月は仕方なしにため息をつく。


「真が描くといえば、私と茉優のに決まってるでしょう。勝手にモデルにして怒られると思ったのかもしれないけれど、今更だわ。もう何度もモデルにしてデッサンしているでしょうに。それともまさか海での水着姿を思い出して、参考にでもしたのかしら。その場合はバストを増し増しにしなければ絶交よ」


「そ、そんな水着なんて……えっ? 絶交に増し増しって……」


 言葉を途切れさせる真に、菜月は「冗談よ」と微笑む。


「いずれにしても、あとでその似顔絵は見せてもらうわよ。モデルの当然の権利だもの」


 菜月が怒ってないと理解したからか、露骨に安堵した真は嬉しそうに頷いた。


   *


 登校中にあれだけ騒いでも、教室に着けばしんみりとした気分になる。硬い床もサビついた椅子も、卒業していった六年生のと思われる奇妙な落書きが残る机も、なんだかすべてが名残惜しい。在籍中はあれだけ新品が欲しいと思っていたのに、身勝手なものである。


 別れを惜しむかのように騒がしい教室の壁には、もう何も張られていない。習字の作品も卒業を前に菜月たち児童に返却された。


 着飾った担任が教室へ入ってくると、いよいよかという思いが強くなる。

 本当にこれで最後なのだと、卒業式の練習時にはなかった形容し難い感情がこみ上げてくる。


「それでは皆さん、廊下に並んでください。この学校で最後の卒業式です。胸を張って、巣立つ立派な姿を校舎にも、保護者にも、後輩にも見せてあげてください」


 返事をして立ち上がる。茉優と少しだけ顔を見合わせて微笑む。私語はなく、緊張と惜別の想いを胸に一歩を踏み出す。


 歩き慣れたはずの廊下が、なんだか違ったものに見える。ふわふわと空にでも浮かんでいるかのような感覚。頭の中が空っぽになっていくようで、それでいて胸だけは一杯になってくる。


 近づく体育館。普段とは違う赤と白で飾り付けられ、少しだけ薄暗い。日中なのに照らされるライトの下、音楽に合わせて入場する。


 通り過ぎる保護者席を横目で確認した直後、菜月は目を剥いていた。

 呼吸まで止まりそうになった原因は両親ではなく、その近くで各々に着飾った葉月たちの姿だった。


 姉が来るのは知っていた。けれど小さい頃からよく遊んでもらったその友人までとは予想外だった。好美も実希子も柚も尚も、全員が暖かな笑顔を浮かべて拍手をしてくれてくれていた。


 恥ずかしいような、照れ臭いような。それでいて勝手に頬が緩むほどに嬉しい。泣きそうになったのを見られたくなくて顔を背けるも、付き合いの長い姉やその友人は菜月がどのような状態なのかを瞬時に見抜いたみたいだった。


 席に座り、粛々と学校最後の卒業式が進行する。昨年は緊張の送辞を行ったが、今回は立場が逆になる。


「答辞。卒業生代表、高木菜月」


「はい」


 進行役の教師に名前を呼ばれ、壇上に上がる。見下ろす先にいるのは、暖かくも優しく見守ってくれた両親。何かと相談に乗ってくれた姉。家族みたいに接してくれた年上の友人。そしてこの小学校に通えて良かったと、心から思える要因となった親友の二人。


 目に見えるすべてへの感謝を心に念じながら、菜月は用意してきた答辞をミスらずに終える。拍手の波が押し寄せ、ごくごく自然に瞳が潤んだ。


 終わってしまう。

 楽しかった小学校での日々が。


 新しい生活に期待はある。それでも過ぎ去る日々を掴んで離したくなくなるのは、自分で思っていた以上に充実していた証拠だろう。


 それならいつまでもメソメソするのではなく、きちんとした態度で終わろう。大きく息を吸い込み、顔を上げた菜月は心からの笑みを浮かべて見せる。校舎にありがとうを伝えるために。


   *


「菜月ちゃん、私とも写真撮って!」


 恒例の卒業式後の昼食会へ向かう前に、教室では生徒同士による寄せ書きや記念撮影がそこかしこで行われていた。児童会長だったからなのか、特に菜月は周囲から呼ばれる回数が圧倒的に多かった。


「……まるで見世物にでもなったみたいな気分だわ」


 求めに応じた撮影を終えると、もうすぐお別れの自分の席でグッタリする。教室の後方では保護者が、そんな子供たちの様子を微笑ましそうに眺めながらあれこれと今後の会話をしていた。その中には春道と和葉もおり、茉優の父親と真の両親と談笑中だ。


「いっやー、懐かしいな。アタシもここで勉強してたんだよな」


 開け放たれているドアから、堂々と教室へ入って来たのはパンツスーツ姿の実希子だった。背後にはワンピースを着た葉月たちもいる。


「勉強? 破壊活動の間違いでしょう? それに実希子ちゃんの教室は校庭の隅にある檻だったはずよ」


「周りに大勢いる中で、でたらめを言うのはやめろ! 校庭に檻なんぞないし、学校の備品も……部活中に特大のホームランを打ちすぎて、窓ガラスを何枚か割ったくらいだ!」


「……やっぱりは破壊活動はしてるじゃない」


「うぐぐ……なっちーはやっぱり葉月より好美に性格が似てるよな。末恐ろしいことになりそうだぜ」


 生唾を呑み込んだ実希子が、次の瞬間にはひいっと顔を歪める。菜月との会話を聞いていた好美が、彼女の脇腹をおもいきりつねったのである。


「私に似ると、将来が恐ろしくなる理由について一度じっくり聞かせてほしいわね」


「こ、こういうところだよ! 葉月、助けてっ!」


 懐かしそうに教室内を見回していた葉月が、助けを求められて苦笑する。


「自業自得だよ。でも、そうしてると小学生時代とあまり変わらないよね」


「あーあ、私も菜月ちゃんたちを同じ小学校だったらよかったのにな」


 OLみたいな服装の尚が、一人だけ同じ思い出を抱いていない事実に軽く拗ねる。


「そればかりは仕方ねえだろ」


 ようやく解放された実希子が脇腹をさすりつつ、菜月の机を懐かしむようにそっと撫でた。


「でも、同じ思い出があるのは有難いよな」


 小学生時代に戻ったかのように、それぞれが空いている席に座る。恐らく、当時の葉月たちの席順なのだろう。そこに尚も乱入する。


「これで私も仲間入りね。今更、ぼっちにしないでよ」


「あはは。なんだか小学生をやり直してる気分だね」


 朗らかに葉月が笑い、姉たちを見ている菜月もなんだか嬉しくなる。けれど同時にそれは切なさも呼び寄せる。


「この学校……なくなっちゃうんだね」寂しそうに葉月は言った。


「正確には学校として使用されなくなるということね。気軽に立ち入ったりもできないでしょうし、この光景は今日で見納めかもしれないわね」


 机に肘をついた好美だけでなく、他の面々も少しだけ表情を曇らせる。


「ちょっと。私の卒業式で、しんみりとしないでもらえるかしら」


 指摘されてようやく菜月の存在を思い出したように、複数の視線が注がれる。


「仕方ねえだろ。しんみりするために来たんだ。なっちーの卒業式の見学はついでだよ、ついで」


 悪びれもせずにハンと鼻を鳴らす実希子の態度に、菜月は可愛らしいこめかみをヒクつかせる。


「パパ、卒業祝いに今すぐ麻酔銃が欲しいの。脱走したゴリラを動物園へ返すためにも」


「おい、なっちーの目が本気だぞ。

 姉! しっかり妹の教育をしないと駄目だろ!」


「ねえ、好美ちゃん。近くのスーパーで麻酔銃って売ってたかな?」


「取り寄せの方が早いと思うわ。大手通販サイトで何とかならないかしら」


「そこ! 本気でなっちーに麻酔銃を与えようとするんじゃない! あたしが撃たれちまうだろ!」


 ギャーギャーと喚きながらも、実希子と騒いでいるだけで卒業の悲しさが少しずつ和らいでくるのを菜月は感じていた。

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