第261話 小学校最後の夏の大会

 焼けるような暑さが空高く上った太陽からもたらされる。

 帽子のつばに隠された顔から汗を一筋流し、菜月は蜃気楼でも見えそうな真夏のグラウンドに目を向けた。


「春は負けてしまったけれど、この夏で小学校での部活は終わり。なんとか勝ちたいわね」


 過去二年とは違い、応援ではなく試合をする選手としてグラウンドに立つ。去年の秋も今年の春も公式戦には出場したが、最後という二文字が菜月に異様な緊張と高揚をもたらす。


 そばで力強く頷くのはこれまで一緒に部活を頑張ってきた茉優だ。ふわふわした性格とは裏腹に運動神経が良い彼女はチームの主力でもある。もっとも過去の葉月や実希子ほどではなく、菜月たちの代は決して強いとはいえなかった。


「なんとか一つは勝ちたいね」


 茉優はファーストで菜月はライト。守備位置は当初と変わらなくとも、実力は違う。自覚できるほどに成長している。


 応援席では試合開始前から、マネージャーとして助けてくれた真が大きな声で励ましてくれている。その近くには彼の両親のみならず、茉優の父親、それに春道と和葉の姿があった。


「菜月、全力で頑張りなさい!」


 和葉の応援を受けて、菜月は了解の意思を込めて頷く。一年も経たないうちに本来の役目を終えるこの小学校の代表として、共に過ごしてきた仲間と夏の大会を戦えるのはこれで最後だ。何度も頭の中で繰り返した確認を改めてして、菜月は選手を呼ぶ監督のもとへ走る。


「一回戦は何度も練習試合をしている学校だから、相手の強さも癖もわかってると思う。先生は皆を信じてるから、おもいきりやりなさい」


「はいっ!」


 菜月を含めた全員が腹の底から声を出し、先に始められる攻撃に備える。

 茉優は三番、菜月は八番だ。初回に堕石が回ってくる親友はさぞかし緊張気味――と思いきや、わりと普段と変わらない笑みを見せていた。


「茉優、なんだか嬉しそうね」


「えへへ。茉優ねぇ、なっちーと試合に出れるだけで嬉しいんだ。今日も大切な思い出になるねぇ」


「その気持ちは私もだけど、茉優のさっきの言葉通り、一つは勝ちたいわよね。去年の秋も今年の春も一回しか試合できていないもの」


 要するに一回戦負けである。それも接戦ではなく、わりと点差が離されての敗戦だ。部活の記念に試合ができればいいなんて考えてる部員はおらず、誰もが悔しがって練習をした。その成果を少しでも発揮したいと今日に臨んでいるのは、菜月だけではないだろう。


 チームメイトを見渡せば、誰もが鬼気迫るような表情で自分のグラブの確認や、投球練習をし始めた相手ピッチャーの球筋を食い入るように見たりしていた。


 程なくして球審がプレイボールの号令をかける。チームで一番脚の早い選手が打席に立ち、相手投手と相対する。


   *


 一進一退の攻防が続く。初回にチームは茉優のタイムリーヒットで幸先よく一点を先制。しかし直後の相手攻撃で同点にされてしまう。三回裏には相手四番の本塁打で逆転されるも、四回表にはこちらの四番がタイムリー二塁打でやり返す。そうして迎えた五回表。打席に入るのは菜月だ。


 六番が四球。七番が死球で出塁。ノーアウト一二塁となり、菜月は指示を求めてベンチを見る。


「……ヒッティング? この状況で?」


 思わず驚きの声が零れた。小さな声だったので、相手捕手には聞こえていない。

 てっきり送りバントだとばかり思っていたが、監督は菜月に打てとサインを送ってきた。最後の大会というのもあり、選手に花を持たせようと思ったのかもしれない。


 確かにここでヒットを打って得点し、チームを勝利に導けばヒーローならぬヒロインだ。菜月自身、葉月や実希子のような活躍をしてみたいと思ったのも一度や二度ではない。達成できるかどうかはともかく、そのチャンスが目の前に転がっているのは事実だった。


 打席に入る。ベンチからは茉優の、観客席からは真や両親の声援が届く。バットを持つ両手に力を入れ、対戦投手のフォームを凝視する。そして――


 ――菜月はバットを横に寝かせて、向かってきたボールの勢いを殺して三塁側へ転がした。


 ピッチャーは追いつかず、三塁手が捕球して戻ってもランナーを殺せない。確実にアウト一つを選択するしかなく、ボールが一塁に送られる。菜月が自分の意思で試みた送りバントが成功した瞬間だった。


 ベンチに戻った菜月を拍手で出迎えながら、監督はそれでよかったのかと問いたそうな目を向けてきた。


「活躍はしたいです。でも、皆で勝ちたい。それだけです」


 菜月の言葉にチーム全員が頷き、普段は闘争心に欠ける茉優もうん、うんと何度も嬉しそうに頷いた。


「勝とうねぇ。絶対に皆で勝とうねぇ!」


 一丸となった空気が打者にも伝わったのか、続く打者が走者一掃の二塁打を放つ。これによりチームは一気に三点のリードを奪い、試合を有利に進められる。


 勝てる。公式戦で初めての勝利だ。

 試合中にもかかわらず、そんな風に思ってしまったのがいけなかったのか、六回裏にエースが相手打線に本格的に捕まってしまう。


 懸命に腕を振った一球が無情に弾き返され、一人また一人と相手校の走者がホームベースを踏む。なおもワンナウト一三塁でピンチが続く。


 ここでベンチから出た監督が、何故か菜月と茉優を呼んだ。

 守備交代かと落胆しつつも慌てて戻った直後、監督がとんでもないことを言い出した。


「ポジションを変更するよ。茉優がピッチャーで菜月がキャッチャーだ」


「え? な……何を考えているんですか。実戦でバッテリーを組んだことなんて……」


「確かにぶっつけ本番だけど、いつも練習後に誰もいなくなってから二人で練習してたでしょ。エースはもう限界。それならあなたたちに賭けてみるわ。大丈夫。先生がこっそり見たボールが本物なら、茉優は立派に投手を務められるわ」


 監督が菜月の頭に手を置いた。


「本当なら菜月から捕手も出来ますと言ってほしかったけどね」


「す、すいません……まだ自信があまりなかったものですから……」


「だったら今日、自信をつけよう。皆で勝つんでしょ」


 茉優と顔を見合わせる。親友の少女は目でやろうよと菜月に訴えかけていた。


「わかり……ました。精一杯、やってみます」


 次に呼ばれたのは捕手で、外した防具を菜月につけてくれる。投手は立っているのもキツそうだったため、五年生の選手が菜月の守備位置だったライトに向かう。この後は捕手だった選手が一塁手として守備につく。


「ごめんなさい。なんかいきなり守備位置を奪ったみたいで……」


 謝る菜月に、防具の装着を手伝ってくれたチームメイトが笑う。


「何を言ってるのよ。菜月ちゃんだってずっと練習してたじゃない。あれだけできるなら大丈夫。それに茉優ちゃんは菜月ちゃんとの方が、相性は良さそうだしね」


「……知ってたの?」


 その質問は、菜月と茉優がこっそり秘密練習をしていたことに関して。チームメイトの少女はどこかばつが悪そうにしながらも首を縦に動かした。


「私だけじゃなく皆がね。菜月ちゃんと茉優ちゃんが一生懸命だから、私たちも頑張ろうと思えた。おかげで隠れて特訓する癖がチーム全体についちゃったんだから」


「……練習だけでも結構キツかったのに。チーム揃ってどうしようもないわね」


「まったくよ。だからせめて、この試合は勝とう。皆で」


「もちろんだわ」


 捕手として初めての試合参加。本当は大好きな姉のように勢いのある投球をしてチームを勝利に導きたかった。


 けれど残念ながら菜月にそんな力はない。ならできることで頑張りたい。二年と少し、一緒に汗を流してきた仲間と喜びを分かち合いたい。


 三塁手がホームに還ってもまだ同点。それなら一点を惜しんで内野を前に出すよりも、ダブルプレー狙いの方が良いように思えた。


 ベンチからの指示はない。そこで練習後に覚えたサインで内野手をベース寄りに移動させる。改めて監督を見る。肯定の首振りに勇気をもらい、菜月は念のためにと持ってきていたキャッチャーミットで軽く手を叩く。捕手をしてみたいと思った時に相談した好美に、昔使っていたものだからと譲ってもらったものだ。


「さあ、茉優。私のミット目掛けて、おもいきり投げ込んできなさい!」


 マウンドまで声が届かずとも意思は伝わったのか、燃える炎を瞳の奥に宿した茉優が葉月直伝の投球フォームで初球を放る。


 気合の乗った一球が、うなりを上げるように菜月のミットへ近づく。


 打ち気にはやった打者がアウトコースにやや外れたボールに手を出す。強引に引っ張りにかかったせいでこねるようなスイングとなり、弾き返された打球は待ってましたと腰を下ろしている遊撃手の足元へ向かう。


 完全に打球が死んでいれば併殺は取れなかった。その点に関しては運が良かったといえる。ショートのグラブに収まったボールは二塁手から一塁手に渡り、観客席からわっと歓声が上がった。


「茉優ちゃん、ナイスピッチング!」


「菜月もよくやったぞ」


 降り注ぐ賞賛の言葉が、日差しに焼け付く肌を癒すみたいに染み込んでくる。胴がブルリとして、得体の知れない感覚が背筋をこみ上げてくる。痺れるような、こそばゆいような、それでいて嫌ではない不思議な感覚だった。


「よく守ったわ。さあ、追加点を取って試合を決めましょう!」


 監督の指示通りに追加点こそ奪えなかったものの、最終回のマウンドにも茉優が上がり、バッテリーを組んだ菜月のリード通りに放ってくれた。


 エースと正捕手に比べれば力量は劣る。それでも全力を尽くし、球審のゲームセットを心地よく聞くことができた。


 はしゃぐ茉優が菜月に抱き着く。「やった! 勝ったよ。凄いねぇ!」


「茉優のおかげよ。頑張ったわね」


「何言ってるのよ、菜月ちゃんも頑張ったでしょ!」


 茉優を引き剥がす前に、チームメイトが菜月を中心に輪を作った。


「もう一試合できるよ。でも、その前に皆で写真撮ろうよ。勝利記念!」


「いいわね。でも整列を終えてからよ。相手だって一生懸命戦ったんだもの。悔しいに決まっているわ。だからロッカーに戻ってから、おもいきり喜びましょう」


 全員が賛成し、それでも笑顔で整列する。相手校の選手は涙を流しながらも、自分たちの分まで頑張ってと激励してくれた。


   *


 夕方の反省会。葉月の代から恒例の焼肉屋で、二階を借り切って行われる。


 初戦は見事に勝利したが、続く二戦目はエースが序盤で打たれ、救援すべき茉優も捕まってしまった。必死になって食い下がったものの劣勢を跳ね返すには至らず、そこで菜月のソフトボール部での夏が終わった。


 もちろん悔しいが、嬉しさもあった。敗北直後こそ皆泣いていたものの、今では気持ちに整理をつけて争うように焼肉に箸を伸ばす。


 茉優と真に挟まれながら、菜月はしっかりと肉だけではなく野菜も頬張る。二試合をレギュラーとしてではなく、一部は捕手としても出場できた。結果は最上ではなかったが、それでも敗戦のショックが過ぎ去れば満足感もある。


「だけど、やっぱりこのままでは終われないわよね」


 菜月の独り言が聞こえていたらしく、ひょっこり傾けた顔を茉優が輝かせる。


「それじゃあ、中学校でも一緒にソフトボールをやろうねぇ」


「ええ! はづ姉ほど上手くはないけれど、私もすっかりソフトボールをするのが大好きになってしまったもの」


 練習を辛いと思ったのも一度や二度ではない。けれど終わってみれば、それすら良い思い出に変わっている。きっと心を許せる親友と、信頼できる仲間、そして支えてくれたマネージャーがいてくれたからだろう。


 部活を卒業する前に全員にきちんとお礼を言おうと決め、菜月は大切に焼いていたカルビを口の中に放り込んだ。

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