第245話 葉月たちの帰省

 そわそわとなんだか落ち着かない空気が、数日前から高木家に漂っていた。理由はたった一つ。本日、高木家の長女が帰省するからである。


「たっだいまー」


 大きなリュックを肩から下げた葉月が、右手を高々と掲げながら玄関へ入って来た。電車で一緒に帰省した佐々木実希子らとは途中で別れたみたいだった。


「あっ、なっちー、ただいま!」


「ああ、帰ってたのね」


「まったまたー。さりげないふうを装って、わざわざ二階からお出迎えに来てくれたくせにー。なっちーってば相変わらずの照れ屋さんだね」


「ちょっ!? いきなり抱き着かないで! 手を洗ったの!?」


 ノースリーブのシャツに薄い半袖のカーディガン。下はジーンズにミュールという格好の姉は、数か月前よりもなんだか大人に見える。


「いっけない。すぐに洗っちゃうね。ママもただいまっ!」


 顔を出した和葉は呆れ顔だが、特に今日は朝から愛娘の帰宅を待ち侘びていただけに、全身から滲み出る歓喜のオーラを隠しきれていなかった。


「パパだーっ! なんか、凄い久しぶりっ」


 洗面所から出るなり見つけた春道に突進。昔から父親っ子ではあったが、一人暮らしを経てますます加速しているようにも感じられる。


「おかえり、葉月。大学生活は順調か?」


「うんっ。好美ちゃんには、ずいぶんと助けてもらってる」


「ほらほら、立ち話をしてないで、まずは部屋に荷物を置いてきなさい」


 元気に返事をした葉月が、母親の言葉に従って階段を上る。


「数ヶ月いなかっただけなのに、ずいぶんと懐かしいな」


「はしゃぎすぎて転びそうね。私はその方が面白いけれど」


「あははっ。なっちーの毒舌も懐かしいね。

 電話だとあまり毒を吐いてなかったし」


 姉が転んだら笑うという名目で二階までついていく。


「寮に向かった時のままだねー。でも、なっちーのお友達が泊まったりはしてたんでしょ?」


「ママがそうしなさいって言ったからね」


 迷惑だったか聞くと、葉月はよく覚えている通りの笑顔を左右に振った。


「全然。なっちーの自由に使っていいんだよ」


「……大学を卒業しても、もう戻って来ないの?」


「個人的には帰ってきたいけど、就職先があるかどうかの問題もあるし、希望だけじゃどうにもね」


 真面目に回答をしてから、急に葉月は小悪魔的な笑みを口元に宿す。


「ふふん。なっちーってば、お姉ちゃんに帰ってきてほしいんだね。甘えん坊さんなんだから」


「だから抱き着かないでってば!」


 懸命に振り払うも、久しぶりの姉の腕からもたらされる温もりは筆舌にし難い安心感を与えてくれた。けれども素直に認められない性格の菜月は、平静を装って葉月の言葉を否定する。


「ありえないわ。私は私で、新しい友達と仲良くやっているもの」


「あ、ママから聞いてるよ。確か茉優ちゃんと真君だっけ。私も会ってみたいな」


「どうかしら。真君はご両親の実家に帰省中なはずだし、茉優ちゃんはお父さんが忙しくて家でお留守番とは言っていたけれど、何せお盆だしね」


 世間一般では正月に匹敵するくらい、ゆっくりしたい期間である。菜月自身も葉月の相手をそこそこしたあとは、リビングで本でも読もうと考えていた。


「お盆とかは関係ないと思うよ」


 葉月が言い終わるかどうかのタイミングで、呼び鈴が鳴った。揃って階段を下りると、一足先に和葉がジャージというラフな格好の実希子の応対をしていた。


「よう、葉月になっちー。遊びに来たぞ!」


「ほらね」


 ウインクする姉に降参の意を込めて頷く。よもや実家に帰省してすぐ、大学の同じ寮で暮らす友人の家へ遊びに来る人間がいるとは夢にも思っていなかった。


「何がだよ。それより好美も連れて来たぞ。生憎と柚と発情猿は捕まらなかったけどな」


「菜月ちゃん、お久しぶり。ずいぶんと女の子らしさが増したわね」


 実希子の背後から顔を出した好美がニコリと笑った。


「ありがとうございます。好美さんは疲れているみたいですね。怪力ゴリラの飼育員のボランティアはほどほどにして、大学生活に専念した方がいいですよ」


 どこからか、おい、などと少しばかり怒気を含んだ声が飛んでくるも、まったく気にせずに菜月と好美の会話が続けられる。


「私もそうしたいのだけど、うちのゴリラは頭脳の発達が遅くて、監視していないとすぐ他人様に迷惑をかけるのよ。この間も寮にある上級生用の冷蔵庫を勝手に開けて、盗み食いしようとして叱られたし」


「節操のないゴリラですね。

 いっそ首輪をつけて部屋に繋いでおいたらどうでしょう」


「それは名案ね。すぐにでも実行するわ」


 にこやかに言い放った好美が、軽やかな動作で実希子へ向き直る。


「ねえ、実希子ちゃん。行きたいところがあるんだけど」


「……どこだよ」


「ペットショップ」


「お断りだ! アタシに首輪をはめるつもり満々じゃねえか!」


 それは葉月が大学生活を始める前と、なんら変わりのないやりとりだった。

 まるで過去にタイムスリップでもしたような変な感覚に、菜月は反射的に頬を緩ませる。


「菜月、茉優ちゃんから電話よ」


「え?」


 玄関で騒いでいる間に電話が来ていたらしく、戻っていた母親に呼ばれて菜月は足早にリビングへと向かった。


   *


 田舎の接客業にとって、お盆は正月に匹敵する稼ぎ時だ。帰省する子供や孫らをもてなそうと、普段より豪華な食材や玩具などが飛ぶように売れる。


 おかげで茉優はせっかくの夏休みにもかかわらず、お盆の間は朝から晩まで一人ぼっちなのだという。父親から先方――つまりは菜月の家族にも予定があるだろうから、頻繁に連絡して迷惑をかけないようにと注意もされていたようで、ここ数日は我慢していたらしかった。


「駄目なら駄目できちんと言うし、連絡をするのまで遠慮はしなくていいわ。友達なんだしね」


 菜月がそう言うと、寂しさに耐え兼ねて遊びたいと少し前に連絡してきた茉優は心底安心したように首を縦に振った。実際、断られるかもしれないと思いながら、よく利用する大型スーパーの公衆電話から連絡したのだという。もちろん、いいよと言ってもらえた場合にすぐにでも駆けつけるためだ。


「そうそう。気なんか遣ってたら疲れるだけだしな」


 豪快に笑う実希子を、いつものように好美が困り顔で諫める。


「実希子ちゃんはもう少し遠慮を覚えるべきだわ。小学生に負けてどうするのよ」


「それがアタシの長所だからいいんだよ! ほら、早くやるぞ!」


 茉優からの連絡があったと伝えるなり、居合わせた実希子がそれなら全員で遊ぶぞと強引に決定したのである。


 普段もあまり人気のない昼下がりの公園で、実希子が持ち出したのはソフトボール用のグローブとボールだった。最初からそのつもりで持ってきていたらしい。


「なっちーだって、来年からソフトボール部に入るんだろ?」


「……勝手に決めないでほしいんだけど」


 呆れながらも、転がされたボールを素手で掴む。最初に葉月の試合を見に行った時は大きさに驚いたが、今ではきちんと持てるようになった。


「私が投げ方を教えてあげる」


 姉から丁寧な指導を受け、しゃがむ実希子のミット目掛けて腕を振る。


「菜月ちゃん、頑張れ」


 茉優の声援を受け、放たれたボールは真っ直ぐに……とはいかず、直前でバウンドしてしまう。器用に実希子がキャッチするも、キャッチャーが本職の好美がまだまだねと鼻を鳴らした。


「ほう。それなら見本を見せてもらおうか」


「いいわよ。ミットを貸して」


 白パンツをはいた足を曲げ、今度は好美がミットを構える。今一度葉月から投げ方を教わった菜月が、その通りに身体を動かしてボールを放る。


 いつかの試合で姉が見せたような快速球とはいかなかったが、それでも今度はノーバウンドで好美のミットへ吸い込まれた。

 後ろで審判役になった実希子が驚きの声を上げる。


「うお、ストライクじゃねえか。葉月の教えがよかったのか?」


「それもあるけれど、好美さんの方がなんだか投げやすかったのよ」


「な、何っ!? そんなバカな。きっと気のせいだ。ようし、今度は茉優ちゃんの番だ」


 大袈裟なまでに動揺する実希子の指名により、茉優が転がされて戻って来たボールを拾い、葉月の指導を経てえいやと腕を回す。


「ふわあ。茉優にも投げられたよ」


 山なりではあったが、茉優の投じたゴムボールはきちんと好美のもとへ届いた。しかもストライクのおまけつきだ。


 大喜びする茉優に目を細めつつも、今度は自分がキャッチャーをやると実希子が好美からグローブを奪う。


「さあ、茉優。アタシのミットにお前の情熱をぶつけるんだ!」


「うんっ。ええいっ」


 ポテポテポテと音が聞こえてきそうなほど勢いのないボールが、実希子の足元に転がる。わざとでないのは、心底不思議そうに自分の手を眺める少女を見れば一目瞭然だ。


「ま、まさか……投げ辛いとかって言わないよな……」


 わなわなと肩を震わせているのは気のせいではないだろう。ともすれば泣き出しそうな勢いで、実希子は葉月に視線を向ける。


「ちょ、ちょっと葉月も投げてみてくれよ。高校時代の球技大会じゃ、アタシと最強バッテリーを組んでただろ!」


「それじゃ、いくよ」


 ボールを受け取った葉月が綺麗なフォームから一球を投じた。まるでボウリングでもするかのように。


「あれれ? おっかしいなー」


「葉月ィ!」


「……はづ姉の意地悪でゴリラが泣いたわ」


 特徴となっているポニーテールを跳ねさせ、恵まれた体格の女子大学生が腕を上下に振りつつ抗議のジャンプを繰り返す。その様は小学生かと見間違うほどである。


「大体、なっちーが最初に投げミスするからいけないんだ!」


「私のせいにしないでほしいわ。好美さんにはしっかり投げられたのだから」


「くおお! 納得がいかねえ! もう一回だ! なっちーならできる!」


 はいはいとため息を零しつつも、菜月はグローブを構えてしゃがむ実希子へ今度こそストライクの一球を放る。


「ほら、見ろ! アタシだってやればできるんだ!」


「……どうして実希子ちゃんが喜んでるのよ」


 どっと疲労を感じて肩を落とす菜月に、満面の笑みを浮かべつつも気にするなとばかりに実希子が手を振った。


「なっちーは妹みたいなもんだからな。ところでさ」


 実希子がやや真剣な面持ちになったので、何事かと菜月は緊張を覚える。


「何で好美はさん付けなのに、アタシはちゃんなんだ?」


 軽く呑み込んだ生唾を返してほしいと叫びたくなるような質問に、思わず菜月は頭を抱えようかと両手を伸ばしかけた。


「好美さんは尊敬できる先輩だからよ。柚さんもね。尚さんは……微妙かしら」


「なるほど……って、ちょっと待て。それじゃ、何か。アタシは尊敬できない先輩だってのかよ!」


「だってゴリラじゃない」


「アタシは人間だっ! 茉優も驚いたような顔をするんじゃない!」


 ギャーギャーと騒ぎつつも怒ってるわけではない実希子は、すぐに見慣れた笑顔を作る。昔からのお遊びみたいなので、葉月も好美も止めようとはせずに微笑――というよりは苦笑をしていた。


「ごめんね、茉優ちゃん。せっかくの夏休みにゴリラの相手をさせて」


「ううん、すっごく楽しいっ。茉優ねぇ、ゴリラ大好きっ」


「だからアタシはゴリラじゃねえっての! はあ。でも、ま、楽しいってのはいい事だな。よしっ、今度はまた茉優が投げてみな」


 葉月も含めて年上の女性たちは揃って面倒見がいいので茉優もすぐに懐き、その日は夕暮れになるまでずっと皆でソフトボールを楽しんだのだった。

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