第227話 長女のいない高木家

「パンフレットで見るより良い部屋だったわね」


 愛娘の葉月が春から所属する大学の寮に入った夜、自宅でくつろぐ春道に妻の和葉が話しかけた。


 葉月たちと一緒に寮長さんへ挨拶をして、部屋の中を見せてもらった。シンプルながら造りは丁寧で、まさしくマンションの一室という感じだった。

 寮というともっと狭いイメージがあったのだが、少し広めの1DKという感じだった。トイレやシャワーは共同ではなく、ユニットバスで各部屋についている。

 色々と気の遣いそうな環境ではあるが、葉月も好美も極端な綺麗好きとかではなかったので問題ないだろうと思う。


「そうだな。

 大学も見学させてもらったけど、食堂のメニューも美味しそうだったぞ」


 部屋に荷物を置いて簡単に整理するなり、葉月たちは実希子にくっついてソフトボール部の練習を見学に行ってしまった。そのため、春道達は柚の両親と一緒に大学内を見て回ったのである。


「キャンパスライフというのに憧れはあるわね」


 和葉は葉月を娘とした影響で就職したが、そうでなければ進学をしていた可能性が高い。


「それなら今年、受験をしてみるか? いや、駄目だな。合格したとして、飢えた大学生の群れの中に愛する妻を放り込めないか」


「まあ、春道さんたら」


 指定席となる春道の隣に腰を下ろした和葉は、照れながらも嬉しそうだ。


「あの……リビングには私もいるんだけど」


 呆れた声を出したのは菜月だ。彼女は元から春道と一緒にソファへ座っていた。

 夕食は帰宅途中で済ませてきたので、お風呂に入ったあとはこの場でのんびりとしている。


「何だ、焼きもちか。もちろん菜月も愛しているぞ」


「それはどうもありがとう」


「……冷たいな」


「私ははづ姉と違ってファザコンじゃないもの」


 相変わらず、年齢に似合わず色々な言葉を知っている。

 成長を重ねても、言葉遣いや知識量は同年代の他者を圧倒する。小学生時代は比較的成績の良い子が多いとはいえ、ここ最近では満点以外取っていないはずだった。抜群といえるほど春道は頭が良くなかったので、もしかしなくとも和葉の血のおかげだろう。顔立ちも徐々に似てきている。


「じゃあ、せっかくだから憧れの葉月を真似てなってみたらどうだ」


「……娘をファザコンにしてどうするのよ。それにパパにはママがいるでしょ」


「まあな」


「ふう。でも仲が悪いよりはいいわよね。あんまり娘の前でイチャイチャされても困るけど」


 そう言いながらも、露骨に嫌がっていたりはしない。

 意外と菜月は皮肉屋なのだ。


 とはいえ所構わずに本性を曝け出したりはしない。

 菜月曰く、そういうのは阿呆のやることらしい。学校での彼女は品行方正そのもので、教師からの覚えもめでたい。


 積極的に学級委員長をこなし、天使のごとき微笑みを披露してクラスをまとめる。家では冷笑されるような会話にも、やや大げさなくらいに感情を表して相手を良い気分にさせる。


 当初は愛娘の裏表を知らなかった和葉も、最近ではだいぶ理解していた。そのため菜月も自宅では猫を被らなくなったのである。

 だが春道にとっては可愛い子供。からかったりすれば、すぐに年相応の顔も見せてくれる。それが実にたまらない。


「パパ、何かよからぬことを考えてたでしょ」


「そんなことはない。どうやって菜月をからかおうか悩んでいただけだ」


「最悪。私は部屋に戻るわ」


「……寂しかったら、遠慮しないで一緒にいていいんだぞ」


 これまで菜月は葉月と一緒に二階を使っていた。部屋の中の光景は変わらなくとも、人の気配が減ったのは悲しいくらいに実感できる。慣れるまではそれなりの時間を必要とするはずだ。


「大丈夫よ。はづ姉の部屋にあるものは好きにしていいって言われたし、逆にゆっくりできるくらいよ」


「……パパ、寂しい」


「はあ。

 ……はいはい。そのうち、また一緒にいてあげるわよ」


 リビングから退出する際、菜月は小声で「ありがとう」と言った。気を遣われているのを理解しているからこそだろう。


「しっかり者でいて、意外に寂しがり屋でもあるからね」


 春道の隣にいる和葉は、どことなく心配そうだ。


「まあな。その点は葉月に似ているな。やはり姉妹か」


「フフ。菜月に聞かれたら、はづ姉と違うって怒られるわよ」


「それは困るな」


 テーブルの上に置かれてるマグカップを取り、中に入っているコーヒーを飲む。

 普段と変わらない夜の一コマだが、なんだか妙に寂しく感じられる。


「春道さんがいてくれてよかったわ」


 ポツリと和葉が言った。


「そうでなければ、菜月にずっと付きまとって嫌われていたかもしれないもの」


「意外と和葉も寂しがり屋なんだよな」


「春道さんと出会ってからよ。だから、どこにも行っては駄目よ」


「その時は和葉も一緒だ。俺達は夫婦なんだからな」


 テレビはつけず、肩を寄せ合ってゆっくり流れる時間に身を任せる。

 もうこの家にはいないのに、次の瞬間にはリビングのドアを開けて見慣れた笑顔が飛び込んできそうな気がする。


 改めて和葉は「寂しい」と言った。

 その気持ちは、春道にも痛いほど理解できた。


「子離れの切なさか。これも親でなければ、経験できなかった感情だよな。そう考えると、少しばかり感謝の気持ちも芽生えるな」


「親であることの実感を得られるから?

 そうかもしれないわね。やっぱり、春道さんが一緒にいてくれてよかった」


「そう言ってもらえて光栄だよ」


「あら、大変。調子に乗らせてしまったわ」


 いつまでも笑い合える関係でいたい。巣立った子供が、いつでも安心して戻ってこられるように。この夜、春道は強く思った。


   *


 葉月の入学式には参加しなかった。希望者には大学が用意した別室でモニター越しに見学できるみたいだったが、せっかく自立の道を歩み始めたのだからと我慢したのである。


 頭では理解していても心で納得するのは難しかったのだろう。掃除をしながらも和葉は複雑そうな表情をしていた。


 それが一変したのは昼過ぎになって、午前中に行われた入学式後の様子が葉月から送られてきてからだった。

 動画や写真がたくさん送られてきて、それを一つ一つ見ながら食休み中だった春道に話しかけてくる。葉月が入寮して以降、夫婦の会話時間が格段に増えた。長女の不在を埋めようとしているわけではないのだろうが、とても不思議だった。


「ほら、見て。あの子ったら、こんなにはしゃいで。まったく、もう。好美ちゃんたちに迷惑をかけてなければいいけど」


 言いながらも、和葉はとても嬉しそうだ。そんな妻を見てるだけで、春道も浮かれそうになる。


 連絡を取りやすいようにと和葉もスマホを持った。使い方をすぐに覚えて、今では楽しんでいるみたいだった。

 葉月ともメールだけでなく、他のアプリも使ってやりとりをしている。その様子を見ては菜月が羨ましそうにするも、やはり高校生になるまで買い与えるつもりはないみたいだった。


 とはいえインターネットを完全に禁止しているわけではない。やりたい場合はリビングでノートパソコンを使用させる。他の家からすれば厳しいのかもしれないが、特に反対する理由もないのでそこらへんは和葉に任せていた。


 春道が見せてもらったスマホのディスプレイの中で、愛娘は出発前に購入したスーツ姿で踊るように飛び跳ねていた。いつもと変わらない姿に安心する。

 他の友人たちも皆スーツで、好美と実希子の二人はパンツタイプを着用していた。全員が新たな生活への希望に満ち溢れている。


 こっちは皆元気だから、心配しないでね。

 明るい声が聞こえ、ディスプレイを見つめる和葉が目を細める。


「夜には菜月にも見せてやらないとな。またスマホを羨ましがるだろうけど」


「かわいそうだけど、そればかりは仕方ないわ。持たせるのを悪いとは思わなくても、まだ早いような気がするもの」


 姉妹で血が繋がっていないからこそ、差をつけたくない。妻の考えには、春道も賛成だった。


「きっとすぐに菜月も成長するんだろうな。葉月がそうだったみたいに」


 この間まで小学生だと思っていた葉月は、スーツを身に着けてずいぶんと大人っぽく変わった。もうすぐ年齢の上でも一人前になる。


「そう考えると待ち遠しいような、寂しいような気がするわね」


「仕方ないとわかってるが、俺もだよ」


「でも私と春道さんはずっと一緒よね」


「当たり前だろ」


 事あるごとに言葉で確認する夫婦の愛情。態度だけでは伝わらないこともあるからこそ、素直な表現が大事になる。


   *


 葉月が大学で寮生活を始め、一人少なくなった高木家でも時間はこれまで通り平等に規則正しく流れていく。

 始業式を経て三年生となった菜月は元気に学校へ通い、春道は仕事をして、和葉は家事をする。


 元気印がいなくなって寂しさは完全に払拭できていないが、泣き暮らしても葉月を心配させるだけである。

 その長女は大学でもソフトボール部に所属し、スポーツ科の講義が終われば仲間たちと一緒に白球を追いかけている。

 高校で部活引退後に練習してなかったのもあって、全身が筋肉痛だとこの間の連絡で苦笑していた。


「少し休憩するか」


 仕事部屋から出てリビングに向かう。そこではいつものように和葉がいて、春道を確認するなり笑顔をプレゼントしてくれる。


「コーヒーを入れるわね。最近また太り気味だから、お菓子は出せないけど」


「いや、そんなに変わってないと思うんだけどな」


 甘い物欲しさに白々しく嘘をついてみたが、実にあっさりと愛妻に見抜かれる。


「私の目は欺けないわよ。毎日、春道さんだけを見てるんだから」


「そいつは怖い。

 お? 前髪を少し切ったのか。似合ってるぞ」


「フフ、ありがとう。すぐに気づいてくれて嬉しい。春道さんも、私を見てくれている証拠だものね」


 ちょっとした変化に気付けたおかげか、入れてもらったコーヒーは抜群に美味しかった。


「ねえ、春道さん。午後から少し時間が取れそうかしら」


「今日は大丈夫だな。買物か?」


「ええ。運動のための散歩もしながらね」


 そいつはいい。

 太り気味と言われた春道が賛同しようとした時、インターホンが鳴った。


「そういえば、今日の授業は午前中だけだと言ってたわね」


 思い出したように言った和葉が玄関へ行き、すぐに菜月を連れて戻って来た。


「ただいま。

 あれ? パパが仕事をサボってる」


「相変わらず和葉譲りの毒舌だな。傷つくぞ」


「まあ、面白い冗談ね。春道さん譲りでしょ」


 恒例のやりとりをしてから、春道は菜月も買物に行かないかと誘う。


「仕方ないわね。太っているより恰好いい父親がいいのは確かだし、特別に付き合ってあげるわ」


 すぐに着替えて、三人で家を出る。

 昼過ぎになり、日差しも強くなってきた。春とはいえ、少し暑いくらいだ。

 動き易い服装の和葉が「いい天気ね」と言った。家族三人で外出できるので、目的が散歩と買物であってもとても楽しそうだ。


「ついでに葉月への仕送りも何か買おうかしら。部活をしていればお腹も空くでしょうし、食料がよさそうね」


「それだと実希子ちゃんへの餌になりかねないわ。

 どうせならパパを送ってあげましょう」


「……菜月、お願いだからパパを邪魔にしないでくれ。泣くぞ」


「はいはい。さあ、それじゃ行きましょう。私は何をはづ姉に送ろうかな」


 最初に歩き出した菜月が、真ん中の位置から春道と和葉の手を繋いで引っ張る。

 地面に伸びる三つの影は、今日も仲が良さそうに寄り添っている。


 ……その日の夜。

 仕送りをした報告を兼ねて、菜月が自宅から葉月に電話をかけた。


 日中の出来事を散々自慢した結果、今すぐ帰ると葉月が騒ぎ出し、同室の好美は一晩中なだめ続けたそうである。

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