第210話 母娘のチョコレート対決

 この日、高木家の台所では女同士による火花が散っていた。


 夜の闇さえ吹き飛ばしそうな視線のぶつかりあいは緊迫した空気を発生させ、リビングにいる春道の背中をぶるりと震わせる。


 事の発端はおよそ一時間前。愛娘の長女葉月が、明日に迫ったバレンタインデ―用のチョコレートを作ると言い出したことだった。

 手作りチョコと聞いた母親の和葉は、仲町和也にあげるのかと尋ねた。それに対する葉月の答えは実に簡潔であった。


「パパにあげるんだよ」


 親交のある男子生徒にはスーパーで購入した義理チョコをあげるが、春道のだけは愛情を込めて作るのだと笑顔で告げた。

 そこまではよかった。毎年恒例でもあるので、和葉も仕方ないわね的な笑みを浮かべていた。問題はその次の葉月の台詞だった。


 ――ママのより美味しく作るんだ。

 私の方がパパを好きだから、当然そうなるよね。


 子供の可愛らしい冗談だと受け流せばいいものを、瞬間的に表情を消した和葉はこめかみに血管を浮かび上がらせた。

 例えるなら威圧感みたいなものを全身から放出し、棘のある言葉で大人げなく娘と応戦し始めたのである。


 ――葉月の料理の腕はママが鍛えたのよ。いわば師匠と弟子の関係ね。簡単に上回れると言わない方がいいわ。恥をかくから。


 ――そんなことないよ。愛情というスパイスがあれば、実力の差なんて簡単に埋められるんだから。


 ――ずいぶんと言ってくれるじゃない。だけど春道さんへの愛情ならママも負けないわ。むしろ葉月では敵わないわね。


 ――そうかなあ? だってパパは葉月のだもん。前に約束したしね。


 葉月は今も当時の記憶を大切に頭の中へ保存していたのである。和葉が菜月にかかりきりだった頃、春道がママの代わりに葉月のものになってやると言ったのを。

 まさかその話を持ち出されると思わなかった春道は、しどろもどろになってしまった。そこへ葉月がとどめの一言を放った。


 ――パパはママのものじゃないんだよ。だから私のチョコレートを一番喜んでくれるの。それにしわが目立ち始めたママと違って、私は若いし。


 その時点で平和的な解決は不可能となった。

 夜に春道が寝室へ入る前、鏡の前で自身の顔を見てはため息をつく和葉の姿を知ってか知らずか、葉月はとてつもない勢いで母親の地雷を踏んだのである。


 ――いいわ。そこまで言うのなら、料理で白黒つけようじゃない。若いだけじゃ表現できない味と愛情を思い知らせてあげるわ!


 ――若さは何にも勝るんだよ。ママに待っているのは敗北だけなんだから。


 お互いに指差し合い、睨み合ってから、両者同時に台所へ突撃した。


   *


 こうして現在に至っているわけだが、相変わらず台所の空気は殺伐としている。


 クリームシチューとパンにサラダという美味しい夕食は終わっているので、空腹で悶えたりしなくて済むのは唯一の救いだが、好ましい状況とは言えない。

 否応なしに審査員に任命された春道は、ハラハラしながらソファで二人のやりとりを見守るしかなかった。


「まったく、付き合っていられないわ」


 同じ女性でありながら、一人冷めた目の菜月がため息をつく。つい先ほど部屋に戻ろうとしたのを、パパを一人にしないでくれと全力で引き止めたばかりである。


「俺のせいじゃないだろ」


「原因はパパの存在だけどね。あっちにふらふら、こっちにふらふらしてるからよ」


 大人びた次女にジト目を向けられるも、反省よりあんまりだと叫びたい気持ちの方が強い。

 浮気をしていて修羅場になったのなら全責任は春道にあるが、相手は妻と娘である。家庭内でどちらに愛情を注いでるのかと言われても困るだけだ。


「こっそり仕事部屋にこもったりしたら、後が怖いしな。可能な限り、平和に決着がつくのを祈るだけだ」


「無理よ。だって審査員はパパだもの」


 優劣をつけたら間違いなく騒ぎになるし、事なかれ主義で引き分けにもしても文句は出る。菜月の指摘通り、どうにもならないのである。

 逃げられない以上、毒を食らわば皿までではないが、とことん付き合うしかない。だが春道一人では心細いし、寂しすぎる。


「ちょっと聞いてくれ! 試食は菜月もするから、その分も用意しておいてくれよ。参考にする意見は多い方がいいだろ」


 大声での春道の要求内容に、我関せずと隣で本を読んでいた菜月がソファの上で全身を揺らした。もちろん動揺によるものだ。


「いいわよ。でも菜月、ママが大好きだからといって、わざと葉月に不利な判定をしては駄目よ?」


「ママってば面白い冗談を言うね。なっちーが好きなのは葉月だよ。勘違いをしすぎると、しわが増えちゃうかも」


「……上等よ、このファザコン娘」


「……何よ、若作りママ」


 バチバチと両者の目の間で散る火花の量が加速度的に増加する。台所で引火して燃え上がらないかと、本気で心配になるレベルである。

 同時に冷たい視線が横から春道へ向けられているのも実感できる。


「パパ、私を巻き込んだわね」


「よく言うだろ。死なばもろともってな」


 格好よく立てたつもりだった親指を、菜月に噛まれそうになる。隣にいたのは二女ではなく、猛獣だったようだ。


 ソファ上で挌闘してるうちに、美味しそうなにおいが漂うようになってきた。普段なら期待に胸をふくらませるところだが、生憎と今夜は事情が異なる。刻一刻と審判の時が迫っているのを告げる地獄への案内状みたいなものなのである。


   *


 やがて完成したチョコレートが二つ、テーブルの上に並べられた。

 葉月が持ってきたのは大きなハート型のホワイトチョコである。隣には小型のハートもある。恐らくは菜月の分だろう。

 和葉が完成させたのは、一つ一つは小さいがやはりハートを象ったオーソドックスなチョコレートだった。色は黒く、香りからして味付けはビターだとわかる。


「さあ、召し上がれ」

「もちろん葉月のからだよね」


 二人の声が重なったかと思ったら、またしても春道の前で睨み合いが展開される。注意したらこちらへ矛先が向きそうなので、あえて放置しておく。


「菜月はどっから食べたい?」


「パパが先に選んでいいよ」


「何を言ってるんだ。娘を優先するのは父親として当然だろ」


「それならパパは最初にはづ姉のを食べるのね」


 うぐっと言葉に詰まる。

 男春道。三十代も半ばに迫りつつある年齢で五歳児に言い負かされる。

 新聞の見出しにもなりそうな状況に肩を落としそうになる。


「春道さんは娘思いね。妻を思ってはくれてないみたいだけど」


 棘つきの言葉を剛速球で投げられる。あくまでも体感速度だが、時速百キロメートルは出ているだろう。

 一方で葉月は純真さを表現するかのように、瞳を輝かせていた。


「やっぱりパパは、ママより葉月を選んでくれるんだね。わかってたけど嬉しい」


 次いで勝ち誇った笑みを和葉に見せる。母娘でありながら、明確な敵意を執拗にぶつけ合う。そこには慈悲も容赦も存在しなかった。

 吐いた言葉は飲み込めないので、震える指先で春道は葉月の作ったホワイトチョコをひと欠片だけ口内へ放り込む。


「おお、美味いな」


 免許皆伝のどーんを披露して、台所に恐怖と混乱を撒き散らしたのも今は昔。料理の腕を上達させた葉月のチョコレートは本当に美味しかった。


「でしょ、でしょ。どんどん食べていいからね」


「そうしたいが、これだけ食べると胸やけしそうだな」


 まるで落雷でも食らったかのような衝撃を葉月が受け、隣では何故か和葉がしてやったり的に口角を吊り上げる。


「甘さと美味しさだけを追求する。まだまだ子供の証ね。大人になりきれない少女に、本当の愛の価値はわからないわ」


 春道には意味がわからないし、何を言ってるんだとしか思えなかったが、母と娘ではある意味で意思疎通ができているみたいなので余計な指摘はしない。


 春道が葉月のを試食する一方で、菜月は和葉のを食べていた。口に含んだ直後に顔をしかめ、苦いという感想を告げる。


「春道さん用のだから、菜月には少し早かったわね。こっちを食べなさい」


 葉月が何か言うより先に、別に用意していたチョコレートを和葉は菜月に提供する。それを口に含んだ次女は表情を一変させて、蕩けそうな頬を押さえるように両手を当てた。


「甘くて美味しい。これならいくらでも食べれそう」


「構わないけど、寝る前にきちんと歯を磨くのよ。それと、葉月のを食べれるくらいのお腹は残しておいてあげてね」


 余裕を取り戻した和葉が示したのは、強者の配慮だった。

 ぐぬぬと歯ぎしりでもしそうな顔を葉月がする中、今度は春道が和葉のチョコレートを指で摘んで口に運ぶ。


 食べやすいように一口サイズであり、濃厚なチョコレートの香りが鼻をくすぐる。口に含んだ瞬間からチョコレート特有の風味が鼻から抜け、自然と涎が溢れてくる。

 ビターな中にも甘さが含まれており、飽きを感じさせない味付けはまさに見事の一言。硬さも程よく、歯に優しい。まさに絶品である。


「……確かに美味いが、これは……少しばかり、大人げがなさすぎないか?」


 そう思わずにはいられない出来栄えだった。そもそも毎日食事の準備をして、春道の好みを熟知している和葉が最初から圧倒的に有利なのである。

 早くも敗北を感じ取ったのか、涙目になりつつある葉月の姿を見て和葉も多少の罪悪感を覚えたらしい。申し訳なさそうにするも、だからといってすぐに謝罪をする気にもなれないみたいだった。


「で、でも、葉月も悪いのよ。しわが、とか言うから……」


 拗ねた和葉に、春道は率直な疑問を口にする。


「どうしてしわが嫌なんだ? 俺と一緒の人生を歩んできてくれた証じゃないか。俺は和葉のしわも含めて愛してるぞ」


「春道さん……」


 今度は和葉が瞳に涙を溜める番だった。

 春道にはあまり理解できないが、女性である以上いつまでも綺麗でいたいと思うものなのだろう。仮に太っても痩せても和葉自身に変わりはないので愛情に変化はないのだが、きっとそういう問題でもないのだ。

 今度、何かの記念日にエステの回数券でもプレゼントすれば喜んでくれるかもしれない。


「はづ姉の負けね。私はこの白いチョコも好きだけど」


「ありがと、なっちー。

 ……あーあ、やっぱりママには勝てないか。高校生になったし、そろそろ勝てると思ったんだけどな」


「フフ。残念だったわね。でもね、葉月。春道さんの中では勝者なんていないのよ。家族皆を一番に考えてくれる人だもの」


「うん、そうだね」


 ようやく二人が仲直りしてくれたのもあり、その後は作ったチョコレートの試食会になった。


「葉月も、本当に料理が上手になったわね。私が風邪で寝込んでも、台所を任せられそうだわ」


「もちろん。パパもなっちーも、私がまとめて面倒見るよ」


「頼もしい限りだな。菜月もそう思うだろ?」


「むぐぐ、んぐっ、んぐぐ」


 口の中へ詰め込んだチョコレートで頬を膨らませた菜月が、何度も頷く。


「アハハ。なっちーてばハムスターみたい!」


「本当だな」


 恥ずかしさと怒りを覚えても、チョコレートの美味しさの前にはすべて溶けてなくなってしまうみたいだった。


「俺は幸せだよ」


 コーヒーの入ったマグカップに口をつけながら春道は言う。


「和葉と葉月と菜月、こんなにも素敵な家族に囲まれて暮らせるんだからな」


「私もよ。こんなに幸せな家庭の中に自分がいる、まるで夢みたいだわ」


「夢じゃ困るよ。私はパパとママ以外の子供になんてなりたくないし」


「……私も」


 最後に照れたような菜月の声が積み上げられた。

 騒がしさも含めてこれが高木家の団欒なのである。この日は夜が更けても、家の中を笑い声が楽しそうに歩いていた。

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