第192話 葉月の暴行疑惑

 休憩時間の一件があってから、露骨に柚は周囲に怯えるようになった。このままではいけないと、葉月は昼休みになるなり、彼女を連れて図書館へ移動した。

 教室にいれば御手洗尚の目を気にして、食事もゆっくり取れない。幸いにして高校からは給食がなく、必ずしも教室で昼ご飯をとる必要はなかった。


 葉月も柚も、それぞれの母親からお弁当を作ってもらっている。司書教諭の年配の女性に許可を貰い、他の人の邪魔にならないよう隅の席で並んでお弁当を広げる。

 箸を持ったはいいが、硬直したように動かない柚へ、葉月はかけるべき言葉を見つけられなかった。それでも寄り添ってはいてあげようと、隣に座り続ける。

 そのうちに柚がポツリポツリと事情を話し始めた。


「私立の中学校に通い出したのがきっかけだったの。そこはね、比較的裕福な家庭の子供たちが集まる学校だった。幼稚園から一緒という生徒が多くて、男子も女子も仲間意識が凄く強かった。だからすぐに友達なんてできるはずがなくてね。それでも楽しい中学生活にしたいと明るく振る舞って、自分から皆に声をかけていったの」


 教師に頼みごとをされれば笑顔で応じ、男子生徒とのたわいない会話にも大げさなリアクションをして笑った。すべては新しい学校、新しい仲間に溶け込みたい一心だった。

 ところが、そんな柚の行動が、一部の女子生徒の不評を買った。しかも不味いことにクラスどころか、学年のリーダー格の女性だったのである。


 男に媚を売っているなど謂れのない噂を流され、顔を合わせる度に罵倒された。

 自分に非がなくとも謝ってみたり、柚も出来る限りのことをした。だが状況は悪化する一方。程なくして柚は一人ぼっちの中学生活を余儀なくされた。

 遠足などがあればパシリにされ、お小遣いはすべて没収。本当はすぐにでも転校したかったが、一時期夜逃げまで検討するほど商売で追い詰められていた両親に、新たな心配事を抱かせたくなかった。


 最初は負けるものかと抵抗していたが、毎日執拗に続けられるうちに柚の心も折れた。髪の毛を黒く染めて三つ編みにして、目立たない姿を心がけるようになった。入学当初は積極的に声をかけてくれた男子も、その頃には柚を遠目で見て嘲笑うだけの存在になっていた。

 誰もが新たな標的となるのを恐れ、虐めに加担するうちに行為自体を楽しみだしたのである。それは小学校時代の葉月を虐める柚自身を見ているかのようだった。


「ごめんね、葉月ちゃん……」


 箸を持ってない方の手で覆うように口を押さえた柚が、幾つもの大粒の涙を図書館の長机の上に落とした。


「私、虐められるのがこんなに辛いなんて思わなかった……! 不安と恐怖で心が押し潰されそうになって、胸がズキズキ痛んで、毎日泣き喚きたくて……! 辛いって言ったけど、そんな言葉じゃ表現できないくらいで……私、とんでもないことを葉月ちゃんにしていたんだって! だから虐められるのも仕方ないって。自分自身への罰だって思って。でも辛すぎて、訳がわからなくなって!」


 どんどんと支離滅裂になりだす柚を、葉月は隣の席からそっと抱き締めた。


「柚ちゃんは優しいね。私は大丈夫だよ。だから辛いなら辛いって言おう。私はいつでも柚ちゃんの友達だから、何があっても力になるよ。それに実希子ちゃんや好美ちゃんも頼りになるんだよ」


 ずっと堪えてきたものが溢れだしたのか、柚は葉月の胸に顔を埋めて号泣する。そんな彼女を葉月は黙って受け止め、髪の毛や背中を撫で続けた。

 泣いて感情を爆発させたのがよかったらしく、次第に柚も落ち着きを取り戻す。葉月から離れ、微かな笑みを浮かべて再度の謝罪の言葉を口にした。


「ごめんね。葉月ちゃんに迷惑かけるつもりはなかったんだけど……」


「迷惑なんかじゃないよ。友達に頼られるのは嬉しいことなんだから」


「葉月ちゃんは本当に強いね。虐めた私を許してくれた。私が葉月ちゃんの立場だったら、そんな風に許せて友達になれたかどうかわからない。だから虐められて以降、葉月ちゃんに会うのが怖かった。でも、どこかで偶然に会った時、変わらない態度で接してくれて本当に嬉しかったの。この間、会った時もそうよ。私なんかを仲間に誘ってくれて……」


 再び涙を流す柚を見て、彼女がどうして自分から連絡をしてこなくなったのかを悟った。別々の中学校へ進学し、それぞれの生活が忙しくなるにつれてそうなるのだと、寂しいながらも理解していた。


 ――いや。正確には理解したつもりになっていた。


 葉月が楽しい中学生活を送る一方で、仲間のいない地で柚は一人苦しんでいたのである。


「私なんか、とか言っちゃ駄目だよ。柚ちゃんは私の大切な友達なの。何かあったら私が守るから!」


 力強く決意宣言をしたつもりだったが、何故か当の柚に拒否されてしまう。


「それだけは絶対に駄目よ。本格的に葉月ちゃんも目をつけられてしまうわ。私なら大丈夫。学校の中でだけ我慢すればいいの。皆と一緒に登校できてるだけで幸せなの。本当よ。地元に戻ってこられてよかったって、心の底から思えているの」


「柚ちゃん……」


「さあ、早くお昼ご飯を食べましょう。午後の授業が始まっちゃうわ」


 それきり、虐めの話題を嫌うように柚は昨日のテレビ番組についてなどの話題ばかりを提供し、葉月が痛々しく思えるほど明るい笑顔を無理やりに作っていた。


   *


 午後の授業が始まる。科目は文学。教科書の一文を読むように柚が指定されるなり、不愉快な声が場に舞う。


「早くしろよ、グズ!」


 言ったのは御手洗尚だ。怒声を浴びせられた柚が、ビクッとして慌てて立ち上がる。怯えている様子が、前の席に座っている葉月にも伝わってくる。

 ニヤニヤしているのは尚とその仲間たち。老齢の教師は怪訝そうに眉をしかめるだけ。他のクラスメートは我関せずだ。下手に関わって自分が次の被害者になるのを恐れているのだ。


 中学校時代は虐めなんてなかった。女子は女子で葉月たちを中心に一つになっていた。コミニュケーションが苦手な子にも積極的に声をかけ、全員の仲が良かったと胸を張って公言できる。

 過去に虐められて、苦しさを知っている葉月だからこそ、他の誰にも同じような目にあわせたくなかったのである。


 授業が終わって休み時間になるなり、ドカドカと尚が柚の近くまでやってくる。高圧的な態度で罵倒し、教室中から蔑まれるように仕組んでいく。

 柚は俯いてじっと我慢していたが、膝の上の拳を震わせて泣きそうなのはすぐにわかった。


 彼女は言った。葉月に自分を助けたりしないでほしいと。

 普通なら友人の意思を尊重したがる葉月だが、今回ばかりはそうできなかった。

 過去に色々あっても今は心からの大親友。そんな柚が何の理由もなく虐められるのが我慢ならなかった。


 教室に乾いた音が響く。続いて、何かが教室の床に落ちる。尚に平手打ちされた柚の眼鏡が、衝撃で顔から外れたのだ。


 もう我慢はできなかった。葉月は立ち上がり、柚を平手打ちした尚の手を掴んで握力を込める。ソフトボール部で鍛えてきただけあって、並の女性と比べれば十分な腕力が備わっている。

 すぐに尚は苦痛で顔を歪める。


「何よ、アンタ。離しなさいよ、痛いでしょ!」


「じゃあ、柚ちゃんに謝って。叩かれたって痛いに決まってるんだから」


「何でこんな奴に――痛っ! 痛いってば!」


「謝って」


「葉月ちゃん! もういいから! 私なら大丈夫だから」


 頬を赤くして、涙を流しているのに大丈夫なはずがない。皆と笑って暮らすのを望む葉月だが、大切なものを傷つけられるのは我慢できなかった。


「ちょっとアンタたち、助けなさいよ!」


 喚くように助力を求めるが、他の女生徒たちは葉月にひと睨みされただけで戦意を失う。他のクラスメートはやや離れ、不安げに騒動の現場となっている葉月たちを見ているだけだった。


「もう二度と柚ちゃんを虐めないと約束して。そうすれば私も手を離すから」


「あうう……ぐ、ううう……!」


 涙目になった尚が降参して、葉月の交換条件を飲もうとした時、急に教室の外が騒がしくなった。見れば一人の男子生徒が、教員を連れて葉月を指差している。

 男は同じ中学校出身の柳井晋太だった。当時から執拗に葉月に絡んでいた。それ以降は大人しかったので、同じクラスになっても特には気にしていなかった。


「高木葉月が、女生徒を虐めてます!」


 柳井晋太が連れてきた教員の中には、担任の田沢桂子の姿もあった。


「高木さん! 貴女、一体何をしているの! すぐに手を離しなさい!」


 柚が虐められていたのを助けただけ。

 そう言おうとしたが、それよりも早く腕を掴んでいる尚の口が開かれた。


「助けてください。私、何もしてないのに、高木さんがいきなり暴力を振るってきたんです! 痛いって言ってるのにやめてくれなくて!」


「高木さん!」


 複数の教員が教室に雪崩れ込み、強引に葉月と御手洗尚が離された。


   *


 生活指導室と書かれた職員室横の個室内で、葉月は担任教師の田沢桂子と向かい合っていた。


 田沢良太の妻であり、女生徒の風紀を担当している。髪の毛をアップにして、縁なしの眼鏡をかけている姿は厳しい女教師のイメージそのものだ。

 今日は紺色のスーツだが、普段から派手すぎない色のを愛用している。スカートかパンツスタイルかはその時々によって違うが、スーツなのは一貫していた。彼女にとって仕事着に当たるのだろう。


 中年と呼ばれる年齢だがスタイルは良く、スカートから伸びる足も綺麗だ。身長は一メートル六十センチ少々といったところか。憤ってる様子は見受けられないが、眼鏡の奥の目は鋭い。


「どうしてあんな真似をしたの? 入学早々暴行事件を起こすなんて信じられないわ」


 桂子に事情を説明すると、彼女はふうと大きく息を吐いて首を左右に振った。


「騒動を見ていた人は、貴女が室戸さんを虐めているのを御手洗さんが助けようとして、逆に乱暴されたと言っているわ」


「違います! 柚ちゃんがそう言ったんですか!?」


「御手洗さんは室戸さんと同じ中学校の出身だけど、高木さんも彼女を知っていたの?」


「小学校が同じで、仲良くしてました」


 葉月の内申書なのか、自分だけが見えるようにして桂子が書類を確認する。


「素行に問題はなく成績も優秀。中学校時代の貴女の評価と、暴力は結び付かないわね。だからといって貴女だけを全面的に信じるわけにはいかないの。

 もちろん、御手洗さんの証言がすべて正しいと言うつもりもないわ。でもね、高木さんは御手洗さんに危害を加えようとしている現場を他の先生にも見られた。その点は不利になるわ」


「後悔してません。友達が虐められてるのを、見て見ぬふりをするくらいなら、怒られる方がずっといいです」


「怒られる程度で済めばいいのだけどね。とりあえず、ご両親に連絡をさせてもらうわ。誰かが御手洗さんのご両親に今回の騒動を教えたみたいでね。つい先ほど怒鳴り込んできたみたいなの。校長先生や先生も交えて、話し合いをすることになるわ」


「そこに柚ちゃんは来ないんですか?」


「先方はとにかく、高木さんとそのご両親に謝罪を求めているわ。娘が傷物になったらどうしてくれる、とね。

 正直、今のところ先生はどちらが正しいのかわからない。やりとりを見てはいないからね。客観的な判断として、御手洗さんが虐められていたと証言する女生徒はいても、高木さんが虐めをやめさせようとしていたという証言はないわ。

 ただ、貴女の発言が事実なら、最後まで主張を貫きなさい。途中で相手の言い分を認めたら、貴女が加害者で決定する。そこからは、どう頑張っても覆せないわよ」


 話は終わりとばかりに書類を手にしたまま、桂子が立ち上がる。これから葉月を連れて、校長室へ向かうと告げられる。


「わかりました。あの……」


「何?」


「桂子先生って怖いけど、意外と優しいんですね。きちんと私の言葉も聞いてくれました」


「私は教師で、高木さんも御手洗さんも教え子だもの。どちらの言い分も公平に聞くわ。それが私の教師としての信念よ」


 葉月も立ち上がり、桂子の背中を追うようにして校長室へ向かう。両親に迷惑をかけそうなのは申し訳なく思うが、それでも途中では退けない。

 虐められている時はどうにも心が弱くなってしまう。だからこそ、自分が柚の代わりに戦おう。葉月はそう決意していた。

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