第182話 夫婦の留守番

 愛娘の葉月が修学旅行に出発した。高木家の元気印なだけに、一日でもいないと奇妙な寂しさを覚える。ツンデレっぽいところがあるので、素直に認めたりはしないだろうが、よく遊んでもらっている妹の菜月はなおさらだろう。


 たまたま仕事を休みにした日と重なったので、一家の主でもある春道は、午後の自宅リビングのソファでボーっとしていた。普段から仕事に追われるケースが多いので、たまの休みにのんびりするのも悪くない。


 大きな欠伸をしていると、インターホンが鳴った。誰かが来たらしい。

 妻の和葉は風呂掃除をしている最中だ。自分が来客に対応しようと、春道はソファから立ち上がった。


 誰だろうと思いつつ、はいと返事をしてドアを開けた。外に立っていたのは戸高泰宏と祐子の二人だった。

 来訪の予定はなかったはずだ。戸惑いながらも、挨拶をする。


「こんにちは。どうかしたんですか?」


「うん。ちょっとね。上がってもいいかな」


 泰宏は和葉の実兄なので、適当に扱ったりもできない。構わないと答えて、春道は戸高夫妻をリビングへ案内する。

 タイミングよく、和葉もリビングへ戻ってきた。風呂掃除をするための短パン姿だったので、祐子を見るなり、恥ずかしそうに顔を赤くした。


「あら。和葉さんは、ふしだらですね。平日のお昼から、春道さんを誘惑しているなんて」


「違いますっ! お風呂掃除をしていただけです。すぐに着替えてきます!」


 赤面したままの和葉は、怒鳴るようにからかってきた祐子へ言ってから、駆け足で自分の部屋へ向かった。


「ハッハッハ。祐子と和葉は相変わらずだな」


 そうですねと相槌を打ち、食卓の椅子に座ってもらう。何か話があるのだとすれば、リビングにあるソファよりも使いやすいからだ。


「飲み物はどうします? コーヒーと緑茶がありますけど」


「それじゃあ、緑茶をもらおうかな」


 泰宏に続いて祐子も緑茶を希望したので、早速準備を開始する。

 戸棚にあった粉末タイプの緑茶を取る。適量をティースプーンで湯呑に置いてから、保温になっていたポットのお湯を注ぐ。

 手軽に緑茶が作れるだけでなく、値段が高いのはかなり美味しい。こうして、お客様にも普通に出せるほどだ。


「どうぞ。前にご馳走になった紅茶ほどは美味しくないかもしれないけど」


 春道が言うと、祐子が笑った。


「春道さんが淹れてくれたお茶なら、どんな高級な紅茶よりも美味しいですよ。私への愛が、たくさん詰まってますから」


「……祐子さんは、相変わらずのようで。言わなくてもわかってると思うけど、愛情は入ってないよ」


「照れてるんですね、可愛い」


 両の頬に手を添えて、キャッと言って赤らめる仕草を見せられる。頭を抱えたくなってるところに、着替え終えた和葉が来てくれた。


「何をくねくねしてるのかしら。

 もう歳も歳なんだから、落ち着いた方がいいわよ」


 袖の長い薄手のシャツに、カーディガン。下は春らしく無地で白色のロングスカート。シックだろうとカジュアルだろうと、どんな服装でも似合うのだから美人は得だ。そんなふうに思っていると、まじまじ見られてるのに気づいた妻の和葉が怪訝そうな顔をする。


「どうかしたの?」


「いや、とても似合ってて、綺麗だなと思ってさ」


 頭の中にあった感想を素直に口にしただけなのだが、途端に和葉は先ほどよりも顔を真っ赤にしてしまった。


「お、お客様もいらしてる席で、何を言ってるのですか。こ、これだから、春道さんは……」


 照れ隠しなのかどうかは不明だが、口調が以前までの丁寧な感じに戻っている。


「和葉は、愛されてるな。兄としても、嬉しいよ。ハッハッハ!」


「ええ、本当に。私へ注いだ愛情のおこぼれとはいえ、よかったですね」


 テーブルの上にお茶が乗ってるのを確認した和葉は、複雑そうな顔をしながら春道の隣に腰を下ろした。正面に祐子。その隣に泰宏という配置になる。


「それで、今日はどうしたの」


 和葉が切り出すと、待ってましたとばかりに泰宏が身を乗り出した。


「菜月ちゃんを、預かりに来たんだ」


「……意味不明な言動をいきなりしないで。兄さんらしいけど、こっちはついていけないわ」


 頭痛がすると言わんばかりに、人差し指で和葉が自分のこめかみを軽く押さえる。


「簡単な話だよ。葉月ちゃんは今日から修学旅行だったろ? 一日だけ家で預かるから、たまには仲良くすればいい」


「以前にも似たようなお節介をされた記憶があるけど、どうして急に?」


「家でも仲良くしたくなった時に、息子の宏和を預かってもらえればと思ってね。恩を売りに来た」


 兄妹だからというわけではないだろうが、あまりにもストレートな発言に春道は苦笑するしかなかった。


「兄さんの意図はわかりましたが、菜月が納得するとは思えません」


「そんなことはないさ。前に話したら、お泊りしてもいいと言ってくれたからね」


「……いつ、菜月にそんな話をしたんですか」


「和葉たちが、去年の秋に来てくれた時だよ。そのうち、菜月ちゃんひとりだけでお泊りに来てくれるかいと聞いたら、別に構いませんと。堂々とした態度だったよ。とても四歳児とは思えなかったね」


 泰宏という男性は、何も考えてないようでいて、色々と考えている。しかも、外堀から埋めていくタイプなだけにたちが悪い。

 本当に菜月がお泊りすると言ったのであれば、反対しても仕方がない。それに自宅以外の家に宿泊するというのも、ひとつの人生勉強になる。

 その考えを妻の和葉に伝えると、そうですねという言葉が返ってきた。


「まずは、もう一度菜月に意思確認をしましょう。続きはそれからね」


   *


 送迎用のバスに乗って菜月が幼稚園から戻ってきた。

 話がまとまって、数分後のことだ。最初から戸高夫妻は、菜月が幼稚園から帰ってくる時間を見計らって来訪したのだ。


「ただいま」


 バスの排気音が聞こえると同時に、玄関まで出迎えに行った和葉がドアの鍵を開けた。

 リビングにやってきた菜月が、泰宏と祐子を見つける。軽く驚いただけで、すぐにこんにちはと挨拶をする。


「こんにちは。菜月ちゃん、今日、家にお泊りに来ないか?」


 いきなりの誘いにも、表情を変えない。母親譲りの精神力を備えているのは、間違いないだろう。


「そう言えば、前に約束してましたね。私は構わないですけど」


 もうすぐ五歳になるという女児なのに、敬語をほぼマスターしつつある。和葉の教育の賜物というより、母親の口調を真似てるうちに覚えた感じだ。

 片づけなどもきちんとできており、幼稚園の先生からは常に褒められる。鼻が高くなると同時に、自分の子供の頃とは偉い違いだなと思わされてばかりだった。


「菜月ちゃんも問題ないみたいだな。きっと宏和も泣いて喜ぶぞ」


「……喜んでるというより、泣かされてばかりじゃないの。兄さんは、それでもいいの?」


 菜月と宏和が遊んでる光景を何度も見ている和葉が、呆れた感じで尋ねた。


「これからの世の中は、どんどん女性の方が強くなっていくからね。今のうちに、尻に敷かれるのに慣れておいて損はないよ」


 とんでもない理由を、笑いながら口にしてくる。普通なら冗談だと判断できるが、相手が泰宏だとそうだと言いきれなかったりする。

 どちらにしても、戸高家へ宿泊するのを菜月は嫌がらない。気を遣ってるのではないかと、何度も母親の和葉が娘の気持ちを確かめる。


「無理に泊まったりしなくていいのよ。お節介な伯父さんが、勝手に計画しただけだから」


「私なら構わないよ。たまには、パパと二人でゆっくりすればいいよ」


 先ほどの戸高泰宏ではないが、父親の春道でさえも、本当に菜月は四歳児なのかと疑いたくなるほどだ。

 葉月も小学生時代から大人顔負けの気遣いを見せてはいたが、その上をいってるように思える。

 将来を不安に感じたりもするが、きっと春道の心配などものともせずに我が道を歩いていくのだろう。


「菜月ちゃんは立派だな。家の宏和に見習わせたいよ」


 宏和の名前が泰宏の口から出た瞬間、愛娘が口端をいびつに歪めた。

 母親の和葉は気づかなかったみたいだが、春道の目は誤魔化せない。リビングのソファへひとりで移動すると、こっそり愛娘を呼び寄せた。

 どうかしたのと言いながらやってきた菜月に、耳元で話しかける。


「お前……幼稚園で猫を被って溜まったストレスを、宏和君で晴らすつもりだろ」


「違うよ。お姉ちゃんじゃないんだから、そんな真似はしませんー」


「……嘘ついても無駄だ。なんとなくわかるんだよ。泊まるのはいいが、宏和君をいじめたりするんじゃないぞ」


「むー……パパってば、意外に鋭いよね。心配しなくて大丈夫よ。いじめるんじゃなくて、遊ぶだけだから。ンフフ」


 何を言っても無駄な感じもしたが、とりあえずもう一度だけ注意してから、和葉のところへ戻した。

 話はまとまり、明日の幼稚園が始まる時間まで戸高夫妻が菜月を預かってくれることになった。


 戸高夫妻の車に乗り込んだ愛娘を見送ったあと、急に春道はドキドキし始めた。菜月が生まれてから、二人きりになる機会などほとんどなかったからだ。


「さ、さて、これから、ど、どうしようか」


「ちょ、ちょっと。いきなり緊張しないで。私まで変になりそうだわ」


「へ、変になりそうって……」


「そういう意味では……。

 と、とりあえず、夕食の準備でもしましょう!」


 事前に予定を立てたりもしてないので、二人揃ってひたすら戸惑う。出会った当初よりもギクシャクしてる自分に、春道は苦笑した。


「なんだか急に、初めて出会った時を思い出したよ。確か、銭湯の前だったよな」


「ええ。偶然にも春道さんを見つけた葉月が、パパと呼んだのよね。あれがすべての始まりになるのかしら」


「すべての始まりといえば、北海道じゃないのか? たまたま同じ日に旅行してたんだからな」


「そうね。その北海道に、葉月が修学旅行で滞在してる。フフ。なんだか不思議な感じがするわね」


 まったくだと春道は頷いた。あの日、北海道に行ってなければ、今の幸せな生活は得られなかった。考えるだけで、感慨深くなる。


「ありがとう」


 気がつけば、愛妻にお礼の言葉を贈っていた。


「どうしたの、急に?」


「俺と出会ってくれたことへの……感謝かな。あまり言う機会もなかったからさ」


 照れ臭くなった春道が、人差し指で軽く鼻を掻いた。

 顔を赤くしてるのは和葉も一緒だった。


「お礼を言いたいのは私の方よ。この人が父親だと、葉月に教えた相手が春道さんでよかった……」


 どちらからともなく抱き合い、唇を軽く触れ合わせる。相手の愛情が流れ込んでくるみたいだった。

 まだ明るいうちから仲良くしすぎるのもどうかと思ったので、唇を離したあとで買い物へ行こうと提案してみる。


「いいわね。

 そういえば、菜月が欲しがっていた服がセールで安くなっていたはずよ」


「おいおい。菜月もいいけど、今日くらいは自分のために時間を使ったらどうだ」


 春道が言うと、いけないとばかりに和葉がぺろっと舌を小さく出した。


「せっかくの機会だから、春道さんの好きなゲームショップにも一緒に行きましょうか」


「いいね。あ、そういや、葉月が見たがってたDVDがそろそろ発売だったな」


 無意識に発した春道の言葉に、目の前にいる和葉が吹き出した。


「春道さんだって、娘のことを考えてるじゃない」


「そういや、そうだな。ハハ。俺たちもすっかり、父親と母親になったんだな」


 暇があれば顔を思い浮かべ、心を癒してもらえる相手がいるのは、とても幸せなことだ。お互いに苦笑してはいるが、決して気分は悪くなかった。

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