第115話 旅館に泊まろう

 海の家で水着の上から軽くシャワーを浴びただけで旅館へ戻ってきたので、春道たちは夕食前に温泉を利用することにした。

 混浴ではないので、もちろん中は男性用と女性用に分かれている。1階のロビーを抜けた奥に温泉への案内が書かれたボードがあり、それによると手前が男性用、奥が女性用の出入口になってるみたいだった。


 近所の銭湯みたいに仕切り壁ひとつ隔てて繋がっているわけではないので、何かが足りないからといって、投げて渡すことはできない。

 もっとも、きちんとした温泉施設なので、わざわざ持参しなくともシャンプーやボディーソープは置いてある。タオルなども受け付けで売っているし、身体を洗う道具に関しては心配しないでもよさそうだ。


 一旦部屋に戻ってそれぞれの着替えを持ったあと、皆で温泉施設を利用しにいく。途中で別れ、春道はひとり男湯へ入る。

 脱いだ海水パンツを、それ用のために持ってきた袋へ入れる。濡れた水着を他の着替えなどと一緒にして同じバッグにしまうのは駄目だと、出発前に和葉が用意してくれたものだ。


 和装の脱衣所は綺麗に整理整頓をされている。畳独特の匂いが鼻腔をくすぐり、旅の醍醐味みたいな感覚を一時的に味わわせてくれる。

 10人以上が同時に着替えていても余裕がありそうなくらい広く、ゆったりした雰囲気で過ごせる。評論家でなくとも、唸りたくなるくらいに素晴らしい。

 春道が他の温泉を知らないだけかもしれないが、とりあえずは気に入った。


 浴室へ続く重いスライドドアを開き、いよいよ温泉が待っている本拠地へ突撃する。中へ入った瞬間にもわっと白い湯気が上がり、まるでホワイトアウトにでも遭遇したみたいに視界が白く染まる。

 呼吸をするたび、宙を舞う湯気が空気と一緒に肺へ飛び込んでくる。体の内側が少しだけ熱くなると同時に、童心へ返ったようにワクワクする。


 脱衣所との出入口から入って、真っ直ぐ進んだところに大きめの浴槽が2つある。サウナはその横だ。

 浴槽まで行かずに、途中で春道から見て右に曲がると、洗い場へ到着する。

 シャワーと鏡がセットの個人用スペースが、軽く2桁を超えるくらい用意されている。風呂桶と椅子だけでなく、シャンプーなども置かれてるので、身ひとつで来ても温泉を楽しめる。


 夏の海水浴シーズンというのもあって、温泉内にはそれなりの数の入浴客がいた。子連れの父親や、常連っぽい老人など色々だ。その中で春道はまず、身体を洗おうとする。

 いきなり浴槽に入るのも気持ちいいかもしれないが、やはり入浴前に体を洗うのはマナーのひとつだ。前々から銭湯に通っていたのもあって、公衆浴場内での礼儀作法は習得済みだった。


 最初に髪の毛を洗ってから、次に身体。その後に顔を綺麗にする。

 全身がさっぱりしたところで、いよいよ浴槽に入る。2つあるが、手を入れて確認すると、どちらも同じくらいの熱さだった。

 人が少ない方を選び、足から入る。太腿くらいまでの高さなので、普通に座っても大丈夫そうだ。浴槽内には椅子みたいに座れる段差も用意されており、そこは主に子供や半身浴をしたい人が利用中だった。


 泉質がいいのか、お湯が非常に柔らかく肌に馴染む。美白効果がありそうなので、女性陣は大喜びの温泉かもしれない。温度も丁度いい。

 42度くらいといった感じなので熱めを好む人には物足りないだろうが、春道は大満足だ。


 ゆっくりと温泉を楽しんだあとで、浴槽から出る。

 途中で洗い場に寄って、シャワーで身体の表面を洗い流す。持参したフェイスタオルで全身を拭き、きちんと絞ったあとで肩にかけて脱衣所へ移動する。

 体がポカポカしているうちに服を着て、待ち合わせに指定したロビーへ行く。

 まだ和葉や葉月は来ていなかった。


 春道や葉月の入浴時間は短めだが、和葉はゆっくりめだ。きっと今頃はあがりたがる愛娘に苦笑しながら、早めに入浴を終わらせようとしてるだろう。

 勝手な想像を働かせながら、ロビーに設置されている自動販売機で紙パックに入ったフルーツジュースをひとつ購入する。

 四角いパックを手に取ると、気持ちいいくらいに冷たかった。額に当てたりすると、実に気持ちいい。


 ふうと息をついたあとで、ストローを差してジュースを飲む。ゴクゴクと喉を動かしていると、遠くから「あーっ」という声が届いてきた。

 ストローから一旦口を離した春道へ、女性用の脱衣所から出てきたばかりと思われる葉月が、全速力で近寄ってくる。彼女の視界には、しっかりと春道が持っているフルーツジュースが映っているはずだ。

 側まで来た愛娘は予想どおりに、瞳を輝かせながら「美味しそう」と言ってきた。


「葉月も何か飲むか?」


「うんっ」


 元気に顔をコクコク頷かせた葉月が、自動販売機に視線を移す。ジュースだけではなく、アイス用のもあるため、何を買ってもらおうか悩み始める。こういったところは、とても子供らしい。


 春道が微笑みながら見守っていると、先に出ていった娘を追いかけるように和葉も女湯方面から姿を現した。当初は早足だったが、葉月が春道と一緒にいるのを見て速度を緩めた。


「春道さんも、もう上がっていたのですね」


 湯上りで肌を薄らと桜色に染めている和葉が、話しかけてくる。

 すっぴんになっているが、元から薄くしかメイクしないので十分に綺麗だった。


「まあな。ひとりでこっそりジュースを飲んでいたら、葉月に見つかったよ」


 春道が笑うと、和葉も「まあ」と笑った。

 傍では葉月が、今もなお何を買ってもらおうか、唸りながら悩み中だ。


「和葉も何か飲むか?」


「いいのですか?

 それなら、春道さんと同じものをお願いします」


「わかった」


 持っていた硬貨を自動販売機へ投入し、妻の分のフルーツジュースを買うためにボタンを押す。すると、それを見ていた愛娘が「葉月も同じのー」と言ってきた。

 再び「わかった」と返事をした春道は、続けてお金を入れて合計で3つめのフルーツジュースを購入する。


 取り出し口に落ちてきた2つの紙パック入りのジュースを手に取り、和葉と葉月に渡す。

 2人とも「ありがとう」とお礼を言って、春道の手から受け取る。立って飲むのも行儀が悪いので、自動販売機近くにあるソファへ3人で移動した。


「美味しいねー」


「そうね。お風呂上りだけに、とても美味しいわ」


 先にジュースを飲み終えた春道は、母娘が揃ってストローを咥えてる姿を見ているしかなかった。そのうちに葉月が飲み終わり、満足したように「ごちそうさまでした」と言った。

 あとは部屋へ戻ってゆっくりするだけだと思いきや、葉月がロビーの隅に設置されている卓球台を発見してしまった。


「パパー、卓球ができるよー」


「そういや初めて和葉の実家に出掛けた帰りも、泊まった旅館で葉月と卓球をしたな。俺はあれ以来だが、葉月は学校とかでもやったりするのか?」


「うんーっ。学校の体育館の用具室にもあるから、マットとかを片づける時に皆で遊ぶのー」


 旅館から浴衣を借りているわけではなく、全員が家でも着てるジャージを着用しているので、運動するのに支障はない。

 問題があるとすれば、皆揃って風呂上りな点だけだ。


「せっかくお風呂へ入ったのに、汗をかいたらどうするの」


 少し強めの口調で和葉が注意する。

 すると葉月は当たり前のように「もう1回、お風呂へ入ればいいんだよー」と返してきた。

 このやり取りも、記憶に残っている光景とそっくりだった。


「どうやら、卓球をするのは決定済みなようだ」


 諦めたように春道が言うと、妻の和葉も観念して「そのようですね」と同意する。結局、葉月と和葉の母娘チームと、春道が対戦することで話がまとまった。


 懸命にはしゃぐ葉月に釣られて、気がつけば春道も和葉も温泉卓球を全力で楽しんだ。

 そうなればもちろん汗もかく。遊んだあとにもう一度温泉へつかり、部屋へ戻った頃には夕食の時間になっていた。


   *


 宿泊の予約を取った時に部屋食を頼んでいたので、午後7時過ぎに仲居さんが食事を運んできてくれた。

 普段、和葉が作ってくれる料理も十分に美味しいが、たまには旅館の豪勢な食事もいい。皆でお喋りをしながら、美味しい夕食を堪能する。


「パパ、あーん」


「おう、ありがとう」


 少しどころか、かなり照れ臭い。

 だからといって応じなければ、せっかくの1泊旅行なのに娘を落ち込ませてしまう。これも家族サービスの一環だと覚悟して、恥ずかしがりながらも春道は口を開く。そこに葉月が箸で持った料理を運んでくれる。


「美味しい?」


 わずかに首を傾げて、葉月が感想を求めてくる。この状況では、仮に料理の味が不味かったとしても「美味しい」と言うしかない。


「ああ。葉月が食べさせてくれたからな」


 そう言って、隣に座っている愛娘の頭を撫でる。葉月はくすぐったそうにしながらも、嬉しそうに鼻を鳴らした。


「ウフフ。本当に仲が良いですね。羨ましくなってしまいます」


 自分で料理を食べながら、和葉が微笑む。


「じゃあ、ママもやったらいいんだよ。パパにあーんって」


「えっ?

 あーんって……」


 愛娘に無邪気な瞳を向けられ、妻の和葉はおおいに戸惑う。どうしようといった感じでこちらを見るが、春道にそんなことがわかるはずもなかった。


「ほらほら、早くー」


 葉月に促されて、そのうち和葉も春道の隣にやってくる。風呂上りの時点より、顔は真っ赤だ。


「あ、あの、は、はい……あ、あーん」


「お、おう……あ、あーん」


 とてつもなくぎこちないやりとりを経て、春道は和葉に料理を食べさせてもらう。


「ど、どうですか?」


「お、美味しいよ。そ、その……和葉に食べさせてもらったからな」


「ちょ……も、もう……」


 恥ずかしそうに和葉が俯く。横にちょこんと座った葉月が、持っていた箸を春道に渡してくる。

 意味が分からずに彼女を見ていると「今度はパパの番ー」と言った。


「俺に食べさせてほしいってことか」


「うんっ」


「……和葉も?」


 一応聞いてみたのだが、茹蛸のように顔を真っ赤にしたままの妻は「知りませんっ」と顔を背けてしまった。


   *


 楽しかった夕食も終わり、後片付けに来てくれた仲居さんが布団を敷いてくれた。3人で仲良く眠りたいという葉月の要望で、3つの布団がくっつけられている。真ん中がもちろん葉月の場所だ。


「何をしてるんだ、葉月」


 持ってきた自分のバッグの中から、ごそごそと何かを取り出そうとしてる愛娘に春道が声をかける。


「今日ね、楽しかったから、忘れないように絵日記をつけておくのー。夏休みの宿題だしー」


 そう言うと葉月は布団の上にノートを広げ、うつ伏せの恰好で鉛筆を持って絵日記を書き始めた。

 覗こうとすると「駄目ーっ」と追い払われてしまうので、仕方なしに春道と和葉は窓際のスペースへ移動し、備え付けられている椅子に座った。


「葉月ではないですけど、今日は私も楽しかったです。ありがとうございます」


「気にしないでくれ。もともと俺が、家族旅行をしたかっただけなんだからな」


「ふふ、そうですね」


 しばらく他愛もない話をしていたら、ふと絵日記を書いているはずの葉月の鼻歌が聞こえなくなった。どうしたのだろうと思って様子を確認する。

 ひたすら遊びまくって疲れ果てたのか、いつの間にか葉月は眠りに落ちていた。

 鉛筆を右手に握ったままで、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てている。そんな娘の姿があまりに可愛らしくて、春道と和葉は顔を見合わせて微笑んだ。


「私たちも眠ることにしましょうか」


「そうだな」


 葉月の手から鉛筆を回収し、邪魔にならないところへ絵日記と一緒に移動させる。その後、春道は最愛の妻や娘と川の字になった。

 だいぶ疲れていたらしく、瞼を閉じるとすぐに眠気がやってきた。


   *


「どーんっ」


「うわっ!?」


 いきなり腹部を襲った衝撃に驚き、春道は慌てて目を開く。

 宿泊した旅館の和室には、気持ちよさそうな朝日が入り込んでいる。

 布団へ入った瞬間に熟睡し、あっという間に朝を迎えた。そこまではすぐに理解できたが、問題はまだ耳に残っている「どーん」という声と、ずっしりと重い腹部だ。


 布団から顔だけを起こして確認すると、春道の布団の上には朝から元気な葉月が乗っていた。目を開けた春道に気づくと、得意そうに「おはよー」と挨拶をしてきた。ちらりと横を見ると、妻の和葉はまだ眠ってるみたいだった。


「葉月、せっかくだから、ママも起こしてあげるんだ」


「うんー。

 それじゃ、いくよー。

 どーんっ」


 ゆっくりと上半身を起こした春道の頬に朝日が当たる。今日も暑くなりそうだ。

 滅多に耳にできない妻の悲鳴を聞きながら、春道は両手を上に上げて、うーんと伸びをするのだった。

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