神使の怒り 6-1




地井から犯人の精神状態を聞いた後、彩香は再び五十嵐の運転する車で神藤邸へと帰ってきた。


車内で二人は黙ったまま、お互いに考え事をして過ごしたせいで、あっという間に自宅に着いた。


しかし、車が家に近付いていくと、家の門の前に揺れ動く何かが見えて五十嵐は動揺し、声を上げた。


「なんだ…あれ……?」


五十嵐の声に反応し、彩香も顔を上げる。


視線の先の道路上には、夕日の中に揺らぐ何かがある。


しかし、オレンジ色の夕日が差し込んでいるからはっきりとは見えず、目を細めて見ても、しっかり理解するには時間が必要だった。


先にの正体に気づいたのは五十嵐だった。


五十嵐はその場に車を停めると、慌ててシートベルトをはずし始めた。


「折原!外に水道とかホースとかあるか?」


同じころ、彩香もの正体に気付いた。


彩香もまた慌てふためき、シートベルトをはずしてドアから飛び出す。


「庭の水まき用の水道がある!五十嵐くんはそっちを!」


彩香が一目散に門をすり抜けて自宅の庭へ走っていくと、五十嵐はジャケットを脱いで、揺れる何かを叩き始めた。


近くまで来て、五十嵐はの正体を確信した。


毛の生えた白い手足、背中は炎が揺らめいていてはっきり模様は分からないが、白ではない。頭部にも火が点き、猫であろうはその場で何度も転げまわり、壁に激突する。


あまりにひどい光景を前に五十嵐の動揺が身体の動きを封じようとし始めた頃、彩香がホースを引っ張ってきて、シャワーを噴射した。


に当たって跳ね返った水が、五十嵐の身体中に当たる。


嫌な匂いが鼻をかすめ、彩香は泣きながらホースの水をにかけ続けた。


完全に火が消えた後、は水から逃れるようによろよろと壁際に逃げようとするから、彩香も水を止めた。


「猫……だよな?」


五十嵐は壁にもたれて小さくなった猫を見て、かすれ声で訊く。


彩香は不安と恐怖と緊張から来る興奮状態で、慌てて家の中へと飛び込んで、数枚のバスタオルと氷の入った袋を持ってきた。


バスタオルで猫の身体をくるむと、ゆっくりと持ち上げる。


「動物病院へ連れてって」


五十嵐に言うと、ようやく我に返って、五十嵐は濡れたスーツのまま自分の車に乗り込んだ。


夕方の動物病院はまだ穏やかな方だったのかもしれない。


混んでいるとも言えない病院内に入ると、受付で猫の状態を説明し、医者に預けた。


待合室で待っていても落ち着かない。


普段、可愛いと思って見ている犬や猫が足元を通り過ぎても、飼い主に抱かれているのを見ても、何も感じない。


と、いうより、周囲が見えなかった。


濡れた猫を抱いていたせいで、彩香の服も濡れてしまい、ずぶ濡れの二人からは異臭が漂っている。


鼻を突くようなにおいと、焦げ臭さ。


彩香と五十嵐の表情を見れば、深刻な状況で飛び込んできたのだろうとすぐに理解できたようで、待合室の人間たちは静かだった。


一人、また一人…患者が帰って行き、入り口に掛けられていた札がOPENからCLOSEにひっくり返された。


もう何時間経ったか分からない。


彩香の手はずっと震えっぱなしで、長い間吐き気と戦っていた。


その時、スリッパで歩く音が聞こえて、彩香と五十嵐は顔を上げた。


現れたのは、割と年配の男性だった。


「運が良かったというべきでしょうか。焼けたのは毛と皮膚の表面で、皮膚表面全体のうち20%くらいの火傷で済みました。発見が早かったから助かったんだと思いますよ。それに、すぐに病院に連れてきていただいたので手当も早くできました。…とはいえ、痛みはまだまだ続くでしょう」


痛みは続く…という言葉には胸が痛かったが、それ以外の言葉ではホッと胸を撫で下ろす気持ちだった。


彩香の瞳から涙が溢れ出し、幾粒もの雫を落とした。


五十嵐も一命をとりとめた事にホッとしたようだ。


しかし、野良猫が普通に生活をしていて火だるまになる事などありえない。


「いったいどうしてあんなことになったんですか?」


五十嵐が訊くと、医師は猫の状態を見て想像できる範囲で説明してくれた。


「おそらく人間のいたずらでしょうね。ただ火を近づけたくらいじゃあんな燃え方はしません。かといって、全身に灯油を掛けていたとしたら命はなかったでしょう。おそらく、ライターオイルやスプレーなどを使って引火させたのではないでしょうか」


動物虐待以外のなにものでもない。

なぜそんな恐ろしい事ができるのか理解できない。


自分が火を点けられても笑っていられるのだろうか。


いっそ同じ目に遭わせてやりたい…と、彩香は両手の拳を痛くなるほど強く握った。


しかし、医師の話はそこで終わらなかった。


医師はエコー写真を取り出し、二人に見せた。


「あと、もうひとつ大事なことが。この猫は妊娠しています。あと2週間ほどで出産することになりそうですが、このままじゃ体力が持ちません。どうなさいますか?」


「妊娠!?」


思わず大きな声を上げてしまった彩香だが、医師が出産の話をしたという事は、お腹の猫たちは無事だという事だろう。


あの状況で無事でいられたことに驚かずにはいられない。医師たちも治療中にお腹が妙に大きいのが気になり、エコー検査を行ったそうだ。


しかし、彩香と五十嵐は顔を見合わせた。


自分で飼っている猫でもないし、勝手な判断はできない。


もしかしたら、飼い主がいるのかもしれない。


しかし、もうすでにお腹の中にいる命を無視なんてできない。


彩香は数回深呼吸をして頭の中を整理すると、先に大事なことを確認する。


「母子ともになんとか無事に出産させる方法はありますか?」


「出産をお望みでしたら入院をお勧めします。いち早く体調を元に戻す事を優先できますから。しかし…一番怖いのはストレスでお腹の中の子どもが死んでしまう事です。あれだけのストレスを味わった後で、痛みはまだ続いてます。助けてくれたお二人の顔を見ると安心するでしょう。できるだけ会いに来てあげてください」


医師の言葉は、『全力で助ける』と、いう意味に聞こえた。






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