神使の怒り 1-2




その日、折原彩香は引っ越し作業に励んでいた。


勢いで仕事は辞めてしまい、祖母の家を訪ねたら、祖母が事件に巻き込まれて殺害されていた…という、信じがたい状況だったが、何とか事件も解決し、彩香は義父である神藤司と祖母の遺品整理を終えて祖母の遺骨と共に札幌の自宅に帰ってきた。


祖母の遺品はほとんどのものが廃棄処分された。


古い木造家屋は、築50年は優に超えたおんぼろ小屋だったし、祖母の私物も日用品ばかりで、どこの自宅にもあるものばかりだった。


アルバムや祖母が大切にしていた物以外は全て捨ててしまうと、軽自動車のトランクに収まるほどの荷物しか残らなかった。


悲惨な事件を目の当たりにしても、自分が恵まれているとは思えず、彩香はただ将来を案じるばかり。


アパートで独り暮らしをしていたが、祖母を失った父の気持ちを考えると、離れて住むのは薄情に感じる。


それに、定職にも就かずに不安定な収入で一人暮らしを続ける事にも不安はあった。


近所のディスカウントショップでアルバイトを始めたが、正職員ではないし、就職活動は必要だろう。


それでも、現在の社会状況を見ると、企業に勤めることが賢明とは思えかった。


大企業が突然の倒産、犯罪や脱税などの容疑でマスコミから袋叩きにされている様子を見れば、就職先がいつ倒産してもおかしくない。


今や政治家よりもマスコミの報道力の方が国を動かす時代だ。


質素に個人経営する方が無難に思えてきた。


かと言って自分にそういった才能がない事も理解していた彩香は、とりあえず神藤の家に居候し、もう一度自分の生き方を考え直してみようと思ったのだ。


夕方5時に自宅のインターフォンが鳴ると、彩香は玄関の扉を開けた。


立っていたのは美しい顔立ちの男性だった。


化粧をしている様子もないのに肌質は艶やかで、肌の色もきれいな男性。年齢は30代後半くらいだが、20代でも通用しそうな美しさ。


「詩音さん、こんにちは。どうしたんですか?」


珍しい来客に、彩香は首を傾げた。


「いや…あの、母からお裾分けを持って行けと言われまして。よかったらこれどうぞ。なんか…大根の煮物らしいです」


すらりとした体型によく似合う細くて長い指が、彩香の前に差し出された皿を支えていた。


身長も高いし、声も低くてよく通る。多くの女性が魅了される存在感。


「あ、ありがとうございます。いつもお母さんにはよくしてもらって……。あ、そうです。良かったらお茶でも飲んでいきませんか?お母さんに渡したいものもあったんです」


「いや…そんな。別にいいんですよ、母の事なんて気にしないでください。母が勝手にやってることですから」


そうは言っても彩香に手を引かれると、大人しく玄関に入って来た。


「もうすぐ父も帰ってくると思うんです。リビングで待ってていただけますか?」


「ああ…はい」


彼がリビングのソファに腰掛けたのを確認すると、彩香はもらった大根の煮物を持ってキッチンに入った。


煮物を鍋に移し替えて、お皿を洗うと、ペーパータオルできれいに水気を取った。


その後、冷蔵庫から未開封のチーズを取り出した。


有名な物なのか高い物なのか彩香にはさっぱり分からないが、神藤もこのチーズはあまり得意ではないらしく、彩香もクセのあるチーズは苦手なので、食べられずにいたのだ。


「そう言えば詩音さんがこの時間に仕事してないのって珍しいですね」


お湯を沸かしながら彩香が声を掛けると、リビングから低い声が聞こえてきた。


「今日は昼間に学会があって、午後から父が大学病院の手伝いに入るので、午前中の診療で終わらせたんです」


たいら詩音しおん38歳、独身。

神藤のご近所さんで、詩音は内科・リウマチ科・心療内科・整形外科の医師だ。

詩音の父もまた内科・リウマチ科・心療内科の医師で、数年前までは一人で病院経営をしていたが、詩音が大学病院の医師を辞めた後、父の病院で働き始めた。


「リウマチ科っていつも混んでますけど、お医者さんが足りないんですか?」


彩香がコーヒーを淹れながら訊くと、リビングの方から再び声が返ってくる。


「確かに患者さんも2時間、3時間は平気で待たされますよね。どこにでもある診療科ではないので当然ですけど、診察が難しいって言うのも問題じゃないですか?完璧な治療法も確立されていないからこそ、患者一人に掛ける時間も長くなりますし」


以前、詩音の母が家に来て話をしていったことがあった。


『いつまで経っても彼女の一人も連れてこないのよ?そりゃ、毎日午後8時過ぎまで仕事してたら恋人なんか作れないでしょうよ。ねえ、彩ちゃん。うちの子と結婚する気ない?』


そう言われた時は思わずむせてしまいそうになったが、確かに大変な仕事だと思う。


コーヒーを持ってリビングに向かい、詩音の向かいのテーブルの上にコーヒーを置くと、詩音は深々と頭を下げて「いただきます」と、言った。


「ところで、彩香さんは最近お仕事辞めたんでしたよね?」


「ええ…なんだかカウンセラーという仕事が向いていないような気がして」


詩音はコーヒーをすすりながら、視線だけ天井に向けて何かを考えているようだった。


そして、コーヒーをテーブルに置いた詩音は、

「うちでカウンセラーの仕事やりませんか?」と、言ってきた。


「え?でも…詩音さんの病院って、ほとんどがリウマチ科の患者さんですよね?」


「そうですねぇ…でも、ほら。日々痛みを抱えている人ってひどいストレスを受けるんですよ。そのストレスを理解して欲しいと思うから、医師にいろいろ話したがるんですけど、僕たちはたった5分程度の時間で患者の身体の状況を把握して、処方薬を決めていく必要があります。患者さんの言葉を全て聞き取ってあげることは実質不可能なんですよね」


リウマチ患者の多くは原因不明の痛みに苦しんでいる。目に見えない痛みの原因に怯え、活動範囲も狭くなり、人に理解してもらえない事で苛立ちを抱えている。


ただ普通に生活したいだけなのに、それすら叶わず、社会から後ろ指をさされ、怠けもの扱いされるのだ。


「でも…わざわざ私を雇わなくても、看護師さんならいっぱいいるじゃないですか」


「彼女たちは処置のプロですが、ほとんどの看護師にはを受け止める能力はありません。目に見える傷に対して“痛い”と理解できても、目に見えない痛みに対しては“私だって痛いわよ”と、自分の肩コリレベルにしか感じ取れない人がほとんどですから。だから患者さんも心を開いて話そうとはしないんです」


その言い分には納得したが、果たして再びカウンセラーの職に就くべきか悩まされる。


アルバイトとはいえ、今は接客業にもついているし、慌てて仕事を見つけようとも思っていなかったが、今までカウンセラーをやってきた中で、初めての試みともいえる仕事内容だった。


興味はあるが即決はできない。


それを察してか、詩音はコーヒーカップを持ち上げ、微笑んだ。


「急がなくてもいいですよ。ただ、考えてみてください。できればうちの看護師たちにも、彩香さんのようなカウンセリング能力が備われば最強だな…と、思っただけですから」


しばらく談笑していたが、神藤がなかなか帰ってこなかったため、詩音はお皿とチーズを持って帰っていった。


詩音の両親はワインが好きだから、きっと喜んでくれるはずだろうと思った。














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