殺人鬼に告ぐ 3-5



一晩経っても情報は入らなかった。


彩香は2時間の仮眠を取った。


音や神経の高ぶりで眠れるような状況ではなかった。


実質の睡眠時間としては、30分程度だろう。


ただ目を瞑っているだけの時間は、全身の痛みを訴えていた。


布団を直して部屋を出ると、シャワーを浴びに行く。


彩香がいる事が当たり前になった捜査本部には、彩香専用のパーティション付シャワールームが設置されていた。


湯船に浸かりたくとも、湯を張る桶が存在しない。


誰もが衛生を保つだけのシャワーを浴びて我慢していた。


濡れた髪をタオルで拭きながら体育館に戻ると、バタバタと捜査員たちが走り回っていた。


「折原!神楽坂を保護していた夫婦が見つかった。すぐに会いに行くから準備しろ!」


五十嵐が体育館の端から、入り口に立っている彩香に向かって大きな声を上げた。

彩香は小さく頷くと、体育館を後にした。


お手洗いで髪を乾かして、軽くメイクをすると、すぐに体育館へ戻った。


たった10分ほどで戻ったため、五十嵐はまだ資料の整理に追われている。


五十嵐の作業が終わって、二人は緒方を後部座席に乗せて車を出した。


「その老夫婦の家は、山を下りて10分ほど行ったところにあるらしい。辺りは田んぼと畑に囲まれていてすぐ分かる場所にあるって言ってた。パトカーが停まってるはずだから、見つけたら教えてくれ」


鬱葱と茂った緑の木々の道を抜けると、通行止めで彩香がバスから下ろされたあの橋に出た。


橋を通過し、更に車を走らせる。


ここからは道路を避けるように木が姿を消し、見渡す限りの田んぼや畑が広がっている。


稀に木造家屋が姿を現すが、その古さからすると多分倉庫だろう。


それから5分ほど走った辺りでようやくコンクリートで作られた現代の家が姿を現す。


「あ、五十嵐くん。アレに見えるはパトカーの赤いランプではなかろうか?」


緒方が後部座席から前方700メートルにある民家のそばにあるパトカーを指差した。


家が無いというのは実に見渡しが良くて安全である。


左右からくる車の心配も数百メートル向こうから確認できるのだ。


もはやこの空間で一時停止マークなど何の意味も持たない。


しかしルールはルール。


五十嵐は目的地までの道のりを安全運転で進めた。


車が民家に近づくと、制服警官が車を誘導する。


運転席側の窓に近づいてきたため、五十嵐は窓を開けた。


「ご苦労様です。この先、地盤が悪いとのことなので、ここで車を停めて中にお入りください」


彼が言っているのは路上駐車だ。


公道に車を停め、目的の家までは砂利の敷かれた細い道を通って、100メートルほど歩いていかなくてはいけない。


まさに田畑に囲まれた家だ。


まだ少ないが、蛙の鳴き声が聞こえてくる。


この季節に聞こえるくらいだ。夏になったらうるさいくらいだろう。


室内に入った3人を待っていたのは、杖を手に持ったままひとり掛けのソファにもたれた老婆だった。


年齢はだいたい80代後半のような外見だが、実際はもっと若いかもしれない。


隣に座っている男性は70代前半くらいだろうか。白髪は多いが、色黒で体格も良い。


室内は神楽坂が住んでいた小屋を連想させるような家具の配置になっていた。


全てが種類や大きさなど、規則にのっとって棚に陳列されている。


余計なものなど見当たらない。あるのは生活用品のみ。


床には一切物が置かれておらず、塵ひとつ落ちていない。


築35年は経つであろうコンクリートでできた一軒家は、2LDKという小さな造りになっていた。



家の横には木造の倉庫がある。


収穫された野菜や米をそこで保管しているらしい。


ふと、彩香が室内を見回していてあるものに目を留めた。


古いラジカセだ。


再生専用のオーディオ機器。


しかし、そこにカセットは無い。


使い古されているのか、あちこちに傷が見られた。傷の間には泥が入り込んでいる。


見る限り農作業中に使っているものなのだろう。


「神楽坂智をご存知ですか?」


最初に言葉を発したのは五十嵐だった。


そして神楽坂が行方不明になった当時の写真を老父の前に差し出した。


神楽坂夫婦が中心に写っており、智の姿は後ろのほうにひっそりと存在するため、老父には顔がよく見えないようだった。


胸ポケットから老眼鏡を取り出すと、それをかけてじっと写真に集中した。


「ああ、そうだ。シンジだな」


「シンジですか?」


五十嵐は首を傾げた。


「そうだよ。神の子と書いて神子シンジと呼んでいた。実際、存在してはいけない子だ。どこに届けるわけでもない。どんな名前をつけても良かったんだ」


「神楽坂…あ、シンジくんは、自分の名前を名乗らなかったんですか?」


「名前どころか、何も話さなかった。私が見つけたときは道端で倒れて死にかけていたからね」


「死にかけていたというと?」


「ちょうどそこの道を軽トラで走っている時だったよ。あの子が道の端っこで倒れていたんだ。死んでいると思った」


老父は窓から見える細いアスファルトの道路を指差した。


緒方が窓からそちらを覗く。


「皮と骨だけで呼吸してた。まだ生きている。そう思って、トラックに乗せて自宅に連れ帰った。とにかく助けなくてはいけない。そう思って必死だったよ。少しずつ水を飲ませて、知り合いの看護師にも連絡した。病院に連れて行けるような状態じゃなかったからね」


「それで看病してたんですか?」


「数日は目を覚まさなかったが、ようやく意識を取り戻したときはひどく怯えていた。なぜ怯えているのかも分かっていたから、私たちも無理矢理、事情を聞き出そうとはしなかった」


五十嵐は首を傾げた。


それに気付いたのか、老父が再び口を開く。


「看病している間に見たのさ。体中にある傷やアザ。目も当てられないほどひどかったよ。看護師の知り合いが言った。“この傷はケガなんかでできるもんじゃない。誰かに故意につけられた傷だ!”…って。すぐに虐待から逃げてきたんだと思った」


「じゃあ、なぜ警察に届けなかったんですか?」


「警察が何をしてくれる?あんたたちがあの子を育ててくれるのか?」


五十嵐は困惑の表情を浮かべ、目を伏せた。


「どうせ施設に送られる。あの子はたらいまわしにされてしまう。数日でも一緒にいて看病したんだ。まるでわが子のようにかわいかったよ。年齢で言えば孫みたいなものだが、子どものいない私たちには神からの授かりもののように感じた」


「それで神の子と書いてシンジ、ですか」


緒方が感心したようにつぶやいた。


「ここで過ごしていたころの…シンジくんは、どんな子でしたか?」


五十嵐が手帳にメモしながら尋ねると、初めて老婦が口を開いた。


「優しい子でしたよ。何も言わないけれど、目の見えない私を気遣ってくれて、いつも手伝ってくれました」


「そうだったな。一切しゃべろうとしなかったけれど、妻の身体を気遣ってくれましたよ。私が農作業をしている時も、一緒になって手伝ってくれた。ラジオが好きでね。畑にラジオを持っていくと、自分でスイッチを押すんだ。教えるのが楽しみだったよ」


夫婦は当時の事を思い出し、幸せそうな笑みを浮かべた。


「シンジくんにはどんな事を教えたんですか?」


彩香が訊ねると、老父は目を細めて何かを思い出しているような表情を浮かべた。


「そうだな。私たちはこの通り歳が歳だったから、楽しい遊びなんかは教えてやれなかった。見るテレビもニュースや天気予報ばかりで、あの子にとってはつまらないだろうと思っていたが、一緒になってテレビを見ていたよ。テレビに映る文字の読み方を教えたり、災害にあったときに必要なことなんかも教えたな。農家をやっている身だから、災害は怖くてね。作物が傷んでしまうのも怖かったが、作業をするときに怪我をしないよう、準備が必要な事も教えた」


話を聞くごとに神楽坂の行動と老夫婦が教えてきたことが繋がっていく。


作物の点検をするときに怪我をしないよう教えた方法とは、きっと懐中電灯や道を照らす光となるもののことだろう。


ラジオが好きだった神楽坂にとって、ラジオには情報を手に入れる手段にもなっていた。


テレビを見て文字を覚えた神楽坂にとって、ラジオを聞きながら文字を思い出すのも大事な事だったのかもしれない。彼がメモ帳やボールペンなどを集めていた理由はその辺にありそうだ。


「では、シンジくんはいつごろここを出て行かれたんですか?」


五十嵐が問い掛けると、夫婦は同時に目を伏せた。


よほど離れ離れになったのは悲しい経験だったのだろう。


「保護してから2年後…だったな。あの子の体調も良くなってきて、そろそろ小学校の事も考えなくてはいけないと、妻と話していたんだ。しかし、あの子がどこの誰なのか分からない以上、学校にも通わせてあげられない。妻と施設に預けるしかないのではないかと話していたときだった。あの子は気付いていたのかもしれないな……」


老父は目に涙を浮かべながらそう言った。


実の子のように可愛がっていたのだろう。


しかし、それは神楽坂にとっても同じだったのではないだろうか。


両親に虐待され体中に傷を負い、耐えかねて実の親を殺した。


人里離れたこの場所まで逃げてきた神楽坂を看病して愛してくれたのは、他でもないこの夫婦だ。


きっと神楽坂は夫婦が悩んでいたことに気付いていたのだろう。


しかし、決して施設に送られる事を恐れたのではない。


夫婦を悩ませているのが自分自身だということに気付いていたからこそ、彼は突然姿を消したのだ。


たった2年の月日をここで過ごし、その間に受けた愛情によって、神楽坂の生活基盤は大きく変わった。


だとすれば、神楽坂の行動も読み取りづらくなる。


五十嵐がまだ質問を続けている中、彩香は外へ向かった。


少しだけ強い風が吹いて、彩香の髪を揺らす。


4歳から6歳までの間、ここで過ごした神楽坂。


農業を手伝い、夫婦を手伝いながら、家事や料理も手伝ったのだろう。


掃除もここでの生活を手伝ったおかげで身についたものか。


しかし、人肉を食べるなんてことが思い浮かぶだろうか?


さすがに老夫婦もそこまでは教えていないだろう。


そう考えたとき、彩香は急に目の色を変えた。


玄関に駆け込むと、ちょうど五十嵐たちが外に出てこようとしている時で、思わず体当たりしてしまった。


慌てて一歩下がると、玄関の向こうから見送りに出てきた老父に目を向けた。


「あの!もう一個、教えてください」


「なんだい?」


五十嵐と緒方が2人の壁にならないように壁際に寄った。


「お父さんは戦争へ行かれた経験は?」


「戦争?ああ……私自身はないよ。ただ、私の母さんが樺太出身でね。戦争のときに大変な目にあったと聞いたことがある。私はその頃にはもう北海道に出てきていたから、母とは一緒に行動してなかったんだ」


「じゃあ、お父さん自身は戦争などの経験は無いんですね?」


「確かに時代が時代だったから太平洋戦争の頃には生まれていたが、北海道は広島や長崎のような、テレビで見るような状況じゃあなかった。それでもまあ…いつも怯えていたよ。


ただ、あの出来事を忘れないように、戦争のテレビや映画はよく見ていたな」


「シンジくんも?」


「ああ。私と一緒にね」


「戦争で食料がなくなったとき、テレビの中ではどうすると話してましたか?」


「野草を食べたり、川の水を飲んだり…戦死した者の肉を食うと言っていた番組もあったな」


繋がった────。


「そうですか。ありがとうございます」


彩香は納得したように玄関を後にし、砂利の道を歩き始めた。


五十嵐と緒方も老父に頭を下げ、彩香に走り寄る。


「今の質問はなんだ?」


五十嵐が背後から声をかけてきた。


「いろんな謎が繋がったの。あとは無事に神楽坂を逮捕するだけ」


「彩香ちゃんは一人で納得しちゃうんだよねぇ。俺たちも捜査員なんだけど」


緒方がへらへらしながら彩香の前方へ回りこんだ。


「神楽坂にとって生きることは戦争と同じなの。彼の中に自殺と言う選択肢はない。最後の一人まで敵を殺すか、自分が殺されるまで戦いは終わらない」


緒方は先ほどまでのへらへらした表情を一変させ、目つきを変えた。


「それってつまり……」


「もしかしたら、神楽坂を殺さなくてはいけないかもしれない」


それは最悪の場合だ。


事件から5日目。


食料もなければ暖を取る事もできない。


もう体力も残っていないだろう。


それを狙って逮捕できなければ、最悪の結末が待っている。


殺るか殺られるか。


全ては運だ。


神楽坂を生きたまま保護したい。そう思った。









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