37 すべてが夢であったなら
「本部といえば」
眉をつり上げていたローランから視線を逸らしシャルルマーニュが歌うように舌を動かす。
「本部がお前に報告もせず行った悪魔狩りがありましたね」
「あ? おう。急にぶり返してなによ?」
「その際に逃げた悪魔憑きが
「オイッ! 悪魔憑きの逃走については隠されてたはずよ!」
強気な態度が一変。ローランは血の気を引かせた。
「私だって知るまで時間掛かったのに、どっから聞いたンよ! 先生とは言え、いまは」
「安心なさい。お前の掴んだものは漏れてはいません」
焦燥すら孕んだローランの感情的な声をシャルルマーニュの落ち着いた声が塗り潰す。ローランが半端に口を開口したまま固まった。
「諸々を照らし合わせて吹っ掛けただけです」
「は?」
「お前はオレ相手だと気が緩みますねえ。ふふ……禿げろ馬鹿弟子が。ここが自分の
氷点下まで落とされたシャルルマーニュの叱責。
すぐさま自分の失態に気が付き、ローランは奥歯をきつく噛んだ。拳を握り「すみません」と己の愚かさに頭を下げる。
鼻を鳴らし一蹴された。前髪の隙間から黄昏の眼球だけをもたげれば、早くしろとばかりに手を振られる。
ローランは汚泥の如く濁った気持ちを切り替え、顔を上げた。ここでうじうじと暗い気持ちを引き摺ることを師は好まない。伝えるべき項目を頭の中で整理し、言語化した。
「調査中。でも多分そうよ。円卓の奴らが面倒な動きをしているから、こっちが探るンのも結構厳しいンよ。できれば保護したいンだけど」
悪魔憑きを疎む本部の輩が悪魔憑きの案件を管理するローランに一報もせず勝手に動いた結果の失態。
隠蔽しているつもりだろうがローランは大まかな詳細をすぐに掴んだ。
ローランが悪魔憑きを保護対象とすることを疎み、すべてを消してしまおうと本部の過激派の中でも特に厄介な一部が独断で悪魔憑きを生み出すユダの実験施設を奇襲。その際に一体の悪魔憑きが逃走。
逃げた悪魔憑きが
悪魔憑きが潜む
無意識のうちに色々と思案し、現実から意識が遠退き始めたローランの鼓膜に「なんだ」と気の抜けた欠伸混じりの声が届いた。ローランの意識の焦点が現実に戻る。
「ぐだぐだしているから何も浮かんでいないのかと思ったら……ちゃんと諸々含めて考えているじゃないですか」
「ただ単にぐだぐだ言いたかっただけですか。弟子の愚痴を聞くのも師匠の務めですから別に良いのですけど」
「あー……すンませン」
「ジリリー。なぜ謝るのです? 人間悩む時もあります。聞いてくれる相手がいるのなら口にしなさい馬鹿弟子」
「……ありがとうございます」
「ジリリー」
「え?」
「他にあるはずでしょう。さっさと言っておきなさい」
シャルルマーニュが急かすように長椅子を踵で叩く。
激しい音を聞きながらローランは思考を巡らせ、辿り着いたものとシャルルマーニュの言い分が重なった。確かに先に言っておくべきだとローランは脚を揃え、背筋を伸ばす。
「師匠。巻き込ませてもらうわ。お願いします」
シャルルマーニュが引退してからは先生と呼んでいたが、改めて師匠と呼び直してローランは彼に深く深く頭を下げる。
教団の言い分を一蹴し悪魔憑きであるローランを己の弟子として側に置き、育て続けられたのはシャルルマーニュの強さと功績の賜物。引退したとはいえ、教団内でのシャルルマーニュの影響力は未だ強い。
今回、彼がここまで関わったのならばもはや巻き込まないという選択肢はない。シャルルマーニュ自らローランに吹っ掛けてきたのも彼自身が関わる気が満々ということでもある。なら、外堀から埋めてやろうとローランは引退した師を巻き込むことを断言した。
姿勢を正した時、目があったシャルルマーニュは至極愉悦に染まった笑みを顔面に貼り付けていた。
「リンゴン。リンゴン。リーンゴーン」
歌いながらシャルルマーニュは丸まった猫のように真ん丸なボディを持つティーポットを掴む。琥珀を溶かして黄昏と混ぜ合わせたとろける色合いの液体をティーポットからカップに注ぐ。眠気を誘う羊のように湯気が揺れる。
「良いですよ。乗ってやりましょう」
ティーカップにできた穏やかな水面。シャルルマーニュはケーキスタンドから摘んだジンジャークッキーをいくつか、池に斧を放り込む勢いでポイポイと紅茶へ投げ入れた。ティースプーンで乱暴に砕きながらかき混ぜると一気に飲み干す。
クッキーの残骸をティースプーンでかき集め、嚥下。空になったティーカップをテーブルへ戻してから、シャルルマーニュは満足そうに長椅子の背もたれに身体を落とした。彼は脚を組んで完全に脱力する。
師の茶の嗜み方は一気飲みだか一気食いだか分からないと、ローランは呆れを隠しきれずに短く息を吐いた。頭を下げた際に前に戻ってきた横髪に触れる。
「ん?」その時、胃が空腹を知らせた。
腹が鳴りそうで鳴らない半端な感覚に、
空腹感に突かれて、そういえばなぜ自分は出入り口に突っ立っていたのかと脳髄を働かせた。「……ああ。そうだったわ」
思い返せば、現在長椅子で欠伸を零している己の師匠が、建前上ここにいてほしいと懇願するローランに反発して外に出ようとしていたのを止めていたからだった。そのせいで色々と余計に考えて、ローランも思考がごちゃ混ぜになってしまった。思考がぐだぐだする羽目になったそもそもの理由がこの自分勝手な師匠のせいではないかと、ローランは後頭部を掻く。
眼鏡を押し上げてから流れる動作で前髪を持ち上げたシャルルマーニュは、茶と一緒に用意されていた新聞紙を広げる。もう部屋から出る気は無いらしい。
ローランは横髪を揉みながらテーブルに近付いた。
「お嬢さんが使っていたエプロンのポケット……
ローランがスコーンに手を伸ばした時、シャルルマーニュが新聞に視線を這わせたまま呟く。
「あの技術が取り戻せりゃ色々都合が良いわ」
答えてからローランはスコーンを一口齧った。
アリスと名乗った幻想的なまでに白い、砂糖でできているような少女。愛らしさをそのまま形にしたような、誰からも好かれそうな彼女が着ていたエプロンのポケットは旧文明で活用されていた一部の空間を歪曲させて特異な収納空間を作り出す魔法技術だ。言うまでもなく、現代では失われた技術である。あの場ではあえて触れなかったが、当たり前のように
「異世界文明の発達具合も聞きたいモンだわ」
「気を付けなさい。アリスとかいう子、精神干渉術である
「私も気付いたわよ。ありゃ
「接している時はそれが普通に思えますからね。離れてしばらく考え直してから、ようやくおかしいと感じましたよ……」
「不思議なのにあの子の前だとそれが当たり前に見えンのよね」
「意識しなければ普通だと思ったままでしょう」
「実際にウッドペッカーはあの子の外見についてはなンも疑問視してなかったわ」
「気を付けなさい。お前、既に妙に入れ込んでいるように見えます。子供だからと言うわけではないでしょう」
新しい紅茶を注ぐシャルルマーニュを横目にローランはスコーンを頬張った。こちらを見もしないが、彼の声音には警告の色が含まれている。
それは
「逆よ」
紅茶に千切ったスコーンを放り投げているシャルルマーニュにローランは言った。
「私はムカついたの」
途端、シャルルマーニュの双眼がゆるりとティーカップから持ち上がる。訝しげに青空の瞳を細め、どういう意味だと視線で問い掛けてくる。
「あの子は自分の世界をティーカップと言ったけど、私にァ一冊の御伽噺にしか聞こえねェのよ」
ローランはシャルルマーニュがスコーンを入れたティーカップを勝手に掴み、自分が食べていたスコーンも中に落とした。
スコーンが入った分量を増した紅茶が波打った。
微かな気泡を洩らしながら琥珀色の中にスコーンが沈んで行く。カップの底には表面がふやけ、やや膨張した仲間達が沈殿している。
「自分達の目的は『めでたしめでたし』を探すっつってたわ。まるで終わりが用意されてるような言い方じゃねェの。ありゃ、自分で考えているようで実際は用意された台本を進ンでるだけだわ。本人達はそれに気付いてさえいねェ。つーか、神が己を作者と名乗っている時点で滑稽よ」
嘲るように鼻を鳴らし、ローランは一気にスコーン入りの紅茶を仰いだ。ティーカップを大きく傾け、奥底のスコーンも余さず胃の中に流し込むと微妙な食感に眉を歪めつつ空になったカップをテーブルに叩き付けた。
「あの言い方は……」
ローランは部屋にある本棚に視線を流した。ふたつの本棚には様々な本が並んでいる。
「あの子らは自分のいた世界を」
規則正しく並んだ背表紙を睨み、ローランは呪詛でも吐くように忌々しげに吐き捨てた。
「たくさんの物語を混ぜたような、滑稽な御伽噺とでも言ってるみたいじゃねェの」
作者。
役割。
舞台。
登場人物。
はじまりはじまり。
めでたしめでたし。
二人から当たり前のように紡がれた単語達はあまりにも非現実的で、平面的で、ローランの心を燻らせた。
作者に用意された台本を歩いている二人の姿は昔の自分を思い出す。悪魔憑きという役割を、神の敵という役割を課せられ、それが当たり前だと思い、なにも疑わずにいた自分と重なった。
「あんな子達が出てくる御伽噺なンて見たことねェがよ。ったく……気付いたらこれぜーんぶ忘れて、夢だったりしねェかしら」
焦燥にも近い、煮え滾る感情を隠してローランはふざけた笑みを作る。
「ジリリー。それこそ滑稽な願望ですね」
失笑とともに願望は一蹴される。
シャルルマーニュが新しい紅茶を用意してくれていた。
無言で差し出されたなにも入っていない普通の紅茶を受け取り、ローランは「そうよね」と己の愚考に苦笑う。
暖炉の中で
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