35 紅茶のお供は退魔師の憂鬱を
細い癖っ毛を何度も何度も揉んでは指の腹で擦り、髪同士が擦れ合う何とも言えない音に我に返っては動きを止める。いまは制服の上に首元で留める短い外套を羽織っているので髪が飾緒に絡まることがなく余計に触ってしまう。
心労で頭と胃に痛みを感じ、左側で結う己の黒髪を握る癖が悪化しないようにとあえて飾緒でごちゃりとしているほうで髪をまとめているのにこれでは意味がない。外套を脱ごうかと考え、やめた。
「……はあ」
何度目かも分からない溜め息。ローランは眉間を揉む。
無意識に顰めてしまう眉間の皺によって元より眼力だけで人を殺せると揶揄される目付きの悪さが悪化し、報告にきた悪友に顔が怖いと嘲笑とともに膝裏を打撃されて転びかけた。友だが仕事上では部下であるので腹いせと勝手に髪が禿げる賭けをしていたそいつには先程判明した厄介事に関わる面倒な仕事といくつかの書類整理を放ってやったが、それでもローランの仕事は減らない。
「生きてますかー?」
精神を突く呑気な声が飛んでくる。
「……死ンでるわ」
師匠の笑い声を冗談めかして返す余力もなく、ローランは素で答える。地獄の底から這い出してくるような低い声音は部屋の奥で空気浄化機能を持つ
ローラン達がいるのは清潔感の強い部屋だった。
額縁に入った空の写真がいくつか飾られた白い壁。綿毛のような肌触りの絨毯が中央に敷かれた白い床。家具は部屋の中心に猫足のテーブルと、それを囲んで置かれた二脚の
病院独特の薬品のにおいはしないものの、室内には微かに柑橘系の香りが漂っていた。
香りの正体は二台のベッドの間に置かれたサイドテーブルの上にある硝子瓶。塩と金木犀の花びらと乾燥オレンジが交互に詰められた
数刻前、
部屋の奥には暖炉があり、
魔獣の
炎に触れる面積を多くして
「まさか
代表的な
安倍晴明。
サン・ジェルマン。
妲己。
彼ら彼女らの知識は二度文明が滅んだ後、新たに生まれた現在の第三文明――魔蒸機学にも多大な影響を与えた。
こうして魔獣や精霊の
「元来……
ローランは指先が白くなるほど強く髪を握る。
高度な魔法技術で約六千年の栄華を極めた第一文明は行き過ぎた欲を抱き、最終的には人柱が起こした大規模な洪水によって滅びた。この第一次洪水後、神に座に着いた人柱を引きずり降ろそうと失われた魔法技術を掘り起こして再構築に躍起になった文明――第二文明が生み出した魔法技術のひとつが転移魔術式。
大洪水の影響により第一文明以上に魔法技術も人間が有する魔力量も大幅に減少した人々は、人柱に対抗するため
つまり、
ただし文献によると人柱と戦うことを拒む者もいる。
代表的な三人の
安倍晴明は山奥に引き篭もり、現在の魔蒸機学の様々な分野に通ずる研究を記してくれた。サン・ジェルマンは世界を旅して回り、その途中誰も辿りつけなかった安倍晴明の隠れ家を見つけ、彼は安倍晴明が遺した研究を継いだ。この二人が残してくれた研究結果のお陰で
妲己に関しては二人とは異なり、数多の男性を誘惑し、国という在り方が滅んだ後の世界で桃源郷という独自の国を作り上げるという大問題から有名になったのだが……問題は多々起こったものの、皮肉にも桃源郷の一部の体制が現在の魔蒸稼働都市の礎となったり、彼女の考えた案はいまの法ができる際に活用されていた。
「敵になっても、ならンくても……どっちにせよ
「喚び出された
割り込んできた師匠の声に顰めっ面で天井を見続けていたローランはようやく頭を下げる。頸椎が鳴り、筋肉が突っ張って痺れに似た鈍痛を感じた。頭部に充満する血液が一気に動き、視野に光を伴う眩暈に襲われて眉間の皺が深くなる。
「一番長く滞在していた
突っ張った肩甲挙筋を労わるように軽く揉み解しながらローランは長椅子でくつろぐ師に「おう」と声だけで頷いた。
人為的に喚び出された後、人柱に敵対しようがしなかろうが
文献によれば
人柱は余程
「安倍晴明とサン・ジェルマンがそンくらいって言われてるわな。最短だと、一週間くれェで強制帰還させられたのもいるらしいけどよ」
「いくら
「そのたった一週間でやらかした
「どうしました?」
「…………なあ先生よ。文献管理も支部長の仕事でしょう? あンで元支部長である先生が知らンのよ」
ローランはシャルルマーニュを強く睨んだ。私服ではなく教団制服に身を包むシャルルマーニュは素早くローランから顔を逸らす。彼は素知らぬ態度で眼前のテーブルに用意されている紅茶を啜った。テーブルには二段のケーキセットまで置かれ、上の皿にはクリームとレモンジャムを添えたスコーンと星型のジンジャークッキー、数種類のフルーツタルトレット、下の段には一口サイズのサンドイッチが盛り付けられている。
「ああ、美味しい」
こちらと顔を合わせずにシャルルマーニュは一息つく。「太るぞ」とローランは声帯を震わせずに口腔でのみぼやいた。
シャルルマーニュは六年前に
後ろに撫で上げていた前髪を下ろし、伊達眼鏡から
仕事を見習いである自分に押し付け、逃亡すること以外は本当に自慢だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます