27 華麗なダンスは命を賭けて

 氷点下まで落とされた老店主の声がアリスの明るい笑みを遮り、壁に戻された双剣が皺の刻まれる手に再度取られる。

 今度は二本。

 後、一瞬と感じられる素早さで冷徹な刃がアリスの白い首を左右から挟み込んだ。


「まあ」


 注がれるのは剥き出しの殺気。

 温かな紅茶を一気に冷やしてしまいそうな底冷えした気配。

 それは悪魔の鏡の欠片が眼と心臓に刺さった時のカイを思わせる。もしもいま、雪の女王が通り掛かったら老店主は連れて行かれてしまうかもしれない。と思ったが、物語がひっちゃかめっちゃかになってからは雪の女王は子供の笑顔が見たいと願いサンタクロースや魔女ベファーナの手伝いをしているとも聞いた。


「子供に刃物を近付けるのは大変危険ですわよ。おじさま」

「ジリリー。普通の子供は刃物を突き付けられたら泣き叫ぶものですよ。お嬢さん」

「恐怖に動けなくなる時もありますわ」

「ジリリー。その場合は笑ってはいないでしょう」

「子供に刃物を突き付けながら笑う大人もこわいものですわ」


 二人は見つめ合い、笑う。

 一直線に交わっている白銀と青空は微塵も笑ってはいなかった。二人は口角だけを持ち上げて、意図的に笑顔を表情筋に縫い付けている。


 しん。

 と、場の空気が固まった。


 互いの息遣いさえ聞こえない。

 張り詰めた空気。

 音という音がこの場から逃げ出した。

 痛々しい静寂のみが店内を支配する。


「……良ければ」


 先に世界へ音を作ったのはアリス。


「お伺いしても?」


 首筋に添えられた剣をなんとも思わず、強いて言えばこそばゆいと思いながら、アリスはいままでと変わらない口調で問い掛けた。ついでに魔鉱石ジェムを手の平で撫でてみるが、老店主の注意はそう大きく乱れない。全体を見られている。なんてことない小さな動作程度では彼の隙は作れないようだ。

 仔猫を愛でる手付きでアリスは魔鉱石ジェムを撫で続ける。


「別に」


 老店主から返ってきた声音もまた、変わらない穏やかなもの。


「お嬢さんが何であるか気になっただけですよ」


 変わらない穏やかな口調とは真逆の、一変した鋭い眼光。

 眼鏡の奥の瞳は容赦ない殺気を孕んでいた。

 ゴウンゴウンと遠くから音が聞こえる。張り詰めた空気の邪魔をする、場違いな太い稼働音。現実の音なのにアリスにとってはどことなく非現実的なものに聴こえてしまうのはその機械的な音に馴染みがないせいなのか、状況のせいなのか。


「言ったでしょう? これでも目は良いほうだと」


 アリスは魔鉱物ジェムを撫で続ける。


「楽しそうな方を見つけるのは得意なのですよ」


 瞳の動きは観察と吟味。

 光を受ける刀身と紛う眼差しに締め付けられ、アリスは息苦しくなった。


「とても面白い気配だとは思っていたのですが……。まさかレッドスコーピオンを倒して魔鉱物ジェムまで奪っているとは。レッドスコーピオンは、禁忌領域ケイオスに跋扈する最上位ハイランクの魔獣。その強さは時に退魔師エクソシストが動くほど……懐かしいですねえ」

「まあ。せっかちですわねおじさま。レッドスコーピオンを倒したとは言っておりませんわ」


 アリスは冷気を放つ刀身を、深雪の如く冷めた銀の視線でなぞる。

 首の薄皮を霜で包んでいく容赦ない冷気は涙の小池で泳いだあとの寒さに比べれば、なんてことはない。

 チェシャ猫の口元と同じくらいニンマリとアリスは笑んだ。魔鉱物ジェムを撫でていた手が、止まる。

 貴婦人方が孕むてろりとしていた蜂蜜色の光がアリスの手の中で弄られる魔鉱物ジェムの表面に反射して、眼光を刺す眩い反射を生み出した。


「っ……!」


 鋭くされた光が老店主の眼鏡を嬲る。

 直に当てられるのも厳しいが、眼鏡に光を当てられるのも相当視野を悪くする。むしろ眼鏡の硝子レンズが過剰に光を吸収し、裸眼の時以上に視野を奪う場合だってあるだろう。しかも蜂蜜色の灯りは魔鉱物ジェムによって濃く色付き、鮮血を撒き散らすように老店主の視界を染めた。眩い邪魔により老店主と刃に生まれた僅かな隙。

 刹那の隙は、アリスには十二分だった。

 地を蹴り、驚いた猫よりも高く高く飛び跳ねて、カウンターを超え、老店主に注意したままながらもアリスはたった一蹴りで店の半ばまで移動し「あ!」

 思ったよりも早く反応し直した老店主に少しだけ驚く。同時に、彼が手の中で剣の引き金を操ったのを確認したアリスは老店主から目を離すことに少し不安を感じながらも無理矢理に身を捻り、身体にブレーキをかけた。重力と遠心力と無茶な負荷に華奢な身体を作り上げる筋肉が一瞬ビクリと跳ねる。が、節々の違和感を意識している暇はない。


 アリスの目の前に氷柱が生えた。


 先程老店主が魔鉱物ジェムの力を見せてくれた時に氷結した絨毯の一部からアリスの行く手を阻むように太い氷柱が絨毯から突き上がった。透明な氷にアリスの顔がゆらりと映る。

 あのまま突っ込んでいれば、小さなアリスは氷柱に下から殴られ、勢いに天井まで吹き飛んでいただろう。

 しかしアリスは気が付いた。舌打ちが聞こえる。アリスはまた驚いた。温和な老店主が舌打ちをしたことではない。舌打ちが聞こえた距離が近過ぎる。

 背後を視認する時間はない。余計な動作をすれば、時間を無駄にすれば、トランプ兵のように首が飛ぶと察したアリスは、柔らかな絨毯を靴底でしっかと捉えて身体中の圧を逃すためと予備動作のため素早く膝を折った。

 右には壁。左は飾り棚。背後には迫る刃。

 ならばもう、正面突破しかない。


「レディらしくない振る舞いだわッ!」


 アリスは迷わずに床を蹴り、聳え立つ氷柱の上に飛び乗った。

 自分よりも、老店主よりもずっとずっと高い氷の柱のてっぺんにアリスは兎のように飛び乗ろうとし「!」間に合わないと警報が鳴る。

 アリスは空中で身を捻った。

 レッドスコーピオンの魔鉱物ジェムをしまう余裕はないので左腕に抱え、伸ばした右手で氷柱へ爪を立ててそこを軸に身体を回す。

 刃が一本、氷柱に刺さった。

 刺さった位置はあのまま動いていたらアリスの身体があった場所。丁度ぴったり心臓の位置。アリスの動きを先読みした上での攻撃に感心した。

 思った以上に早く間合いを詰められてしまったようで、逃げられないと諦めたアリスは動作を変える。

 身体を猫のように捻り、氷に刺さった剣が抜かれる前に刀身へと靴底を叩き付けた。

 細い刃に降り立ったアリスは老店主と向かい合う。

 アリスはそのまま踏み込んだ。

 老店主は臆さず、躊躇わず残ったほうの剣を振るう。

 眼鏡を押し上げてアリスの指が老店主の眼球を、老店主がアリスの首を貫く――――前に、びたり! と二人は杭でも打ち込まれたかのように動きを止めた。


「…………」

「…………」


 店内の時間が失われた。

 一瞬も竦むことが許されない凍った風景の中で、茫漠と広がる緊張感に全身の産毛が逆立つ。

 重く、息苦しい、けれどもどこまでも研ぎ澄まされた激情。

 少女と老人が宝石の煌めく店内で行うにはあまりにも凶悪すぎるダンスは、眼球と首という急所の狙い合いにより一旦休憩となった。


「良い目を失うのは勿体ないですわよ。おじさま」


 老店主は答えない。刃も動かない。

 ただ鋭い冷気がアリスの肌を撫でた。魔鉱物ジェムを使い、氷を操る方法は剣についた引き金だろう。現状、魔鉱物ジェムの装備された剣のほうがアリスの首に構えられている。引き金の動きに注意を払いながらアリスは老店主の眼球を狙っている自分の指を意識した。

 老店主の眼球を潰す気はない。

 急所を狙われている危機感に引いてくれれば良いと願っての行動だ。しかしアリスの首筋に突き付けられた刃先に離れる気配はいまのところ感じられない。

 何故こうも突然敵意を向けられたのかアリスには見当が付かなかった。それでも、ひっちゃかめっちゃかに狂った他の世界に入った時、意味もなく敵意を向けられた経験はあるので、驚きはしない。こういうこともある。と、アリスは理由は分からずとも納得はしていた。

 できれば理由も理解して納得したいので、アリスは老店主に対話を願う。

 彼は話が通じないような人間ではない。かぐや姫に狂わされた桃太郎の世界の住人達とは違い、生気もあるし、会話もできていたし、なにより自我がある。ならば会話がしたいとアリスは相手の反応を待った。

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