9. 教え子とゲーム
「はい! 今日も課題終わったよ、せんせー」
「いつもながら早いな。マジでもう必要ないかもしれん……」
「そんなこと言わないでさ、これからもよろしくね、四条せんせっ!」
可憐に咲いた笑顔の花は、分かりづらい夏葉の本心を示しているものなのだろうか。それに魅せられて悪態の一つもつけなくなるんだからやはり俺は単純な男のようだ。
そんな俺の心情など知らないであろう夏葉は、俺が課題を採点する様子をにこやかに眺めている。手元のテストではなく、丸ばかりつけている内にやるせなくなっていく表情を見られていることがなんとも腹立たしい。
「……全問正解。けっこう考えて作ってるつもりなんだけど、簡単すぎるか?」
「うーん、よく分かんないけどせんせーの課題はそこそこ楽しめてるからこのままでいいと思うよ? アタシがそう言うんだから、教育者の才能あると思う! たぶん」
「適当だなぁ」
夏葉は自身の意見をはっきり言ってくれるため、おそらく嘘や誤魔化しではなく本心からの意見がこれだけ曖昧なのだろう。此方としても時間を費やして毎回課題を用意しているので、ある程度評価されていることは嬉しい。だが、それをすらすらと解かれて全問正解というのは、家庭教師としては喜ぶべきことなのかもしれないが、少々悔しい気持ちもある。
その優秀な教え子は余裕な表情であったが、何かに気づいた様子でニヤッと口角を上げた。
「ていうか、せんせーはそんなにアタシのこと考えてくれてるんだ。ふーん」
この数か月で夏葉の言動に慣れている俺は、今回もまた華麗に受け流す。
「はぁ、はいはい。そうですよ。俺はお前のことばっか考えてますよ」
「むぅ、面白くない」
わざとらしく頬を膨らませる様子も可愛いが、おそらく内心では掌の上で踊る俺のことをあざ笑っているに違いない。被害妄想かもしれないが、そうであろうとなかろうと今俺がやるべきことは変わらない。
「そんなことより、今日もゲームするんだろ?」
「へぇ、意外。せんせーから誘ってくるなんて」
今度は本当に言葉通りの心情が表に出ているが、それは夏葉も俺が今回のゲームに乗り気ではないと分かっているはずだからだろう。まあ、それは間違ってないのできちんと理由を説明しておこう。
「今日は勝てる気がしないからな。さっさと終わらせて帰るためだ」
「そして一人枕を濡らす、と」
「こんなゲームで負けても泣かねえよ」
この教え子は本気で俺のことを舐めている。大の男がそう簡単に泣くわけがないだろうが。最後に泣いたのは確か……。そう、あれだ。一人でアニメ映画を見に行って、感情が込み上げてきて泣いたわ。あれ、俺って意外と涙もろい?
説得力のない否定をしてしまった、と情けなさに打ちひしがれる俺に、夏葉は意地悪な顔で追撃を仕掛けてきた。
「負ける前提で勝負されてもなんだかなぁって感じだし、今回は罰ゲームありにしようよ」
「は?」
「負けたら勝った人のいうことを一つ何でも聞くってことで」
「ちょっと待て! 何をさせるつもりだ!」
「そんなに嫌なら勝てばいいだけじゃん。だから本気でやってね」
「ぐぬぬっ」
可愛い顔した悪魔め! 勝ち目があるなら最初から負けた時の予防線なんか張らねえよ。結果として今回はそれが仇となってしまったわけだが、確かに勝負するなら勝ちにいく姿勢を見せないと失礼だ。
このゲームの提案を受けた時にはかっこつけて真剣にやると口走ってしまったが、ここ数日練習をしようとして無理だと悟ってしまいネガティブ思考に陥っていた。
約束したときのことを覚えているはずの夏葉がそのときを引き合いに出さないということは、多少なりとも俺の心情を慮ってのことなのかもしれない。普段からかわれているのは癪だが、夏葉が優しい人間であることは俺にも分かっている。だからこそ俺はこの一見無意味に見える家庭教師を続けているのだ。
自分に向けられた視線に気づいてなのか、偶然のタイミングなのかは神のみぞ知るところだが、夏葉が何もかも分かっているとでも言いたげな含みのある笑顔で口を開いた。
「じゃあさっそく先攻後攻決めよっか。最初はグー、じゃんけん、」
「「ホイ!」」
「あたしの勝ち! 先攻で!」
あの表情を見て負けると直感的に思ってしまった瞬間、勝負はついていたのだろう。冷静な状態ならまず負けないじゃんけんで負けた俺は、選択権などなく後攻めとなった。
このゲームのルールは簡単だ。まず先攻が愛の告白台詞を考え、照れずに相手に告白する。告白された相手は「もう一度」と照れずに返事をする。この流れを繰り返し、先に照れた方が負けだ。そして役目を後退して同じことをする。どちらの役でも勝てばもちろんその人の勝利だが、一勝一敗の場合は何度目のやりとりで照れたか、早い方が負けだ。
先攻を取った夏葉は当然のことながらセリフをあらかじめ考えていたのだろう。冷静になる時間を与えないためか、じゃんけんに勝ってからほとんど間を空けずに役に入り込み、渾身の告白を展開した。
「せんせーは知らないかもしれないけどね、アタシの色がなくて無機質でちっぽけな世界を変えてくれたのがせんせーなんだよ。出会ったあの日からアタシをいっぱい変えてくれたせんせーと、これからもずっと一緒にいたいし、この感謝を返していきたい。だからさ、一番近くでアタシのこと見てて欲しいの。ダメ、かな……?」
「……」
これは反則だ。演技だと言い聞かせていたはずなのに、そんなことはすっぽりと抜け落ちていた。照れるとかそんな反応できる次元じゃない。どうにか男のプライドで無表情を貫けているが、わけもなく泣きそうだ。
柔らかい笑顔と、勇気を振り絞っていることが分かる声の揺らぎ。不安に揺れながらもまっすぐな瞳。胸に手を当て、こちらを決意の眼差しで見上げる様子が眩しい。
この臨場感は本物だと、思わずにはいられなかった。
「ねえ、無反応だと負けになるよ、せんせっ! それともなに? アタシの告白が真に迫りすぎてて本気にしちゃった?」
くすくすと小馬鹿にする笑いが聞こえてきて、俺はようやく我に返った。
「ああ、演技とは思えないくらい凄かった。俺の負けだ」
自分でも思ってもみないくらいに、素直に言葉が出た。そのことに夏葉の方が驚いたような様子だったが、すぐにいつものノリに戻って笑った。
「よし、まずは一勝! せんせー、もう後がないよー。次一回で決めない限りアタシの勝ちだからね!」
「そうだな。もう負けてもいいやって感じもあるけど、このまま負けっぱなしも悔しいし頑張ってみるか」
「ばっちこーいっ!」
その無邪気な明るさに、自然と此方も笑みがこぼれてくる。ただ一つだけ言わせてほしいことがある。
さっきの夏葉の告白で、考えてたセリフ飛んじゃったんだよなぁ……。
こうなればもうありきたりでシンプルなセリフで勝負するしかない。
だが、覚悟は決めたつもりでも心臓の音がうるさくて、思い出したくもない過去の光景がフラッシュバックしそうになる。
俺の様子に気づいた夏葉が目を伏せて申し訳なさそうな顔になった瞬間を、時間が停止したかのようなスローモーションの世界で捉えた。
(またか。また俺は繰り返したのか。己の弱さで大切な存在を傷つけた。己を過信して選択を間違えた……)
それを理解した刹那、一つの感情が俺の身体を突き動かした。無意識に、先ほどの硬直が嘘のように、驚くほど自然に、その言葉は紡がれていた。
「夏葉のことが好きだ。これからは俺にも夏葉のこと、全部教えてほしい。それと俺のこと、もっと知ってほしい」
自分でも何を口走ったのか分からないくらい、それは一瞬で完結していた。
「……」
目の前にいる無言の夏葉は驚きに多少目を見開いているが、その心情を上手く読み取ることはできない。
生まれた静寂が、俺に冷静さを取り戻させた。
よし、状況を整理しよう。まず、たぶん俺は告白セリフを言ったと思う。だが、何を言ったのかはよく覚えていない。そしてそれを受けての夏葉の反応は、ない。ただ、照れている様子もないので勝負としては俺の負けが決定したことは間違いない。
「何を口走ったか完全にテンパってて覚えてないけど、俺の負けだよな」
声をかけられてようやく我に返った夏葉は、明らかに作った笑顔で勝利を喜ぶそぶりを見せた。
「やっとせんせーから初勝利! ちょっとずるい気もするけど、せんせーが受けて立つって言ったんだからねっ!」
夏葉はヴィクトリーの V を指で形作り、此方に向けてくる。その表情に複雑な心情が見て取れたが、おそらく言葉通りの意味合いとは異なるのだろう。だが、今はそこに言及する状況ではないと流石の俺にも分かる。だからこそ素直な心で言葉を返した。
「分かってるよ。初勝利おめでとう。それで、どんなことを要求されるんだ? 俺は」
「うーん……。あっ、今度の日曜日アタシの買い物に付き合ってよ! 確かもう一個のバイトもなかったよね?」
アルバイトの予定はきちんと話し合って決めているため、俺の予定を夏葉が知っていることに驚きはない。しかし、これまでバイト以外の機会に会うことはしていなかったので、その誘いには驚きというよりちょっとした恐怖があった。
家庭教師がプライベートで教え子と買い物に行くのは、世間一般ではどのように思われるのだろうか。ただ、今回はその誘いを断らなければならないので関係ないか。
「あー、そのスマン。実は昨日、学長から日曜の日雇いバイトを頼まれて引き受けたんだ」
「えー。おじいちゃんの頼みなんて断ってよー」
「一度引き受けたのに断ったらバイト先に迷惑がかかるだろ」
「むぅ、せっかくの初勝利なのに……。じゃあ次までにほかのやつ考えとくから覚悟しといてね、せんせ。それで、何のバイトするの?」
次に引き延ばした方が厄介になる気もするが致し方ない。言われた通り覚悟をしておこう。質問に関しては特に隠す理由もないので、ありのままを伝える。
「プール施設内の飲食店で接客らしいぞ。イベントがあるらしいし、忙しそうだ」
「へぇ、そうなんだ。頑張ってね」
含みのある笑顔から察するに、何かを思いついたのだろう。なんとなくやろうとしていることは分かるが、まだ確証はない。
「何か企んでないか?」
「別に何も。可愛い教え子を何だと思ってるの?」
「……さあな」
本当に、何だと思ってるんだろうな。俺の方が教えて欲しいくらいだ。人間関係はいかんせん複雑で、さらに感情というものは己の意思に関係なく湧き出てくるものなのだから手に負えない。
「でもまあ、いろいろとありがとな」
「いきなりどうしたの?」
「さあ、どうしたんだろうな」
不思議と気分がすっきりしているのは、きっと目の前の教え子のおかげだ。よく分からない怖いものの中にもたまにこういうことがあるから、きっと投げ出すことなく続けられているのだろう。間違いも後悔も全て含めて、意味があることだと思える日が来るかは分からない。ただ、今この瞬間だけは、感謝の気持ちと今後への決意という前向きな思いが俺の身体を支配していた。
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